KOZミステリーの部屋

第1回プロローグ の掲載は6月18日 です。


【あらすじ】

内戦が激しさを増す1994年のボスニア。陸の孤島と化したサラエボ市内で、私は中国系アメリカ人、ジョニー・リーと出会う。奇妙な友情で結ばれた私たちは、2000年、ニューヨークで再び出会い、旧交を温める。しかし、21世紀最初の合衆国大統領を選ぶその年、深い闇がマンハッタンの街を覆い尽くす。民族の違いを超えて育んだ私たちの友情を巨大な陰謀が引き裂いていく。


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■最後のさよなら■ 最終回


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<28>



 

 三月も半ばを過ぎ、昼の時間が少しずつ長くなり始めていた。寒さは峠を越えたようで、相変わらずコートは手離せなかったが、マフラーを外して歩いても凍え死ぬことはなくなった。聖パトリックデーのお祭りがあり、アイルランド人が緑色のシャツを着て緑色のシルクハットをかぶって五番街を練り歩き、グリニッチヴィレッジのアイリッシュパブでも頬に四つ葉のクローバーを描いた学生たちがビールグラスを片手に大騒ぎをしていた。連中にとっては、騒ぐ口実になれば、どの国のお祭りだろうと関係なかったのだ。
 大統領選の前哨戦となる予備選は山場を越し、民主党は副大統領のジェフリー・ゴードンが他候補を圧倒して党の指名を確実なものにした。一方の共和党は、最大票田であるカリフォルニア州の予備選で同州のレナード・スタイン知事が圧勝したことで踏み止まり、オニール上院議員の攻勢をかろうじてかわしていた。しかし、最初は南部が中心だったオニール人気は、ニューヨーク市庁舎での狙撃事件以来、今や全米規模で広がりつつあり、スタイン知事が敗北宣言を出すのは時間の問題と大半のマスメディアは決めつけていた。
 そんなある日、アパートのドアを誰かがノックした。
 私がドアを開けると、そこにはカリフォルニアで訪れた楊老人の店にいた楊暁文という名前の青年が立っていた。暖かいカリフォルニアからやって来たにもかかわらず、冬物のコートを着て、首にはマフラーを巻き、手袋をはめていた。
「楊叔父・・・言ったので・・・来ました・・・ここまで」暁文はでたらめな文法の下手くそな英語で言った。「カメラ・・・あなたに返す・・・言いました」
「なるほど。よく来てくれたね」私は頷き、彼を部屋に招き入れた。
 私がソファを勧めると、暁文はコートを着て手袋をしたままの格好でちょこんと座り、部屋の中を見回した。
「もう、腕はいいのかい?」
 私がそう訊くと、忘れていたというように左手で右手をさすった。
「大丈夫・・・治った・・・痛くない・・・です」
 彼は大きな鞄の中からニコンを取り出すと、コーヒーテーブルの上に置いた。私が手紙と一緒に楊老人に宛てて送ったジョニーのカメラだった。「壊れてる・・・カメラ・・・使えない」
「そうだね。でも、このカメラはぼくの友人がとても大切にしていたものなんだ」と、私は言った。
 暁文は頷いた。
「彼とぼくはサラエボという街で初めて会ったんだ。その街では戦争をしていて、隣に住んでいた人がそのまた隣の人を殺していた。彼はそのカメラを使って、その戦争を止めようとしていたんだ。真実を伝えたいと、彼は言っていた」
 暁文はまた頷いた。
「何か飲むかね」と、私は訊いた。
「いらない」と、暁文は言った。
 私は立ち上がって、本棚のところに行き、雑誌を手に取ってペラペラとめくった。
「わざわざ持ってきてもらったが、そのカメラは君のものだ。ぼくには必要ない。持っていってくれ」と、私は言った。
「もらえない・・・大切・・・あなたのもの」暁文は子供のように首を振った。
「何を言っているんだ。最初から君のニコンだぜ」
 私がそう言うと、暁文は凍り付いた。
 視線が部屋のあちこちを彷徨い、何をしゃべるべきか吟味するように言葉を選んでいた。「あなた・・・言ってる・・・私・・・分からない」
「下手な演技は止めておきたまえ、ジョニー」
 私はそう言って、星条旗の前で水着の女性がフレンチカンカンを踊っている表紙のプレイボーイを手に取り、彼の前に広げた。「そこに写っているのは君だろ」
 そこには特集記事があり、大統領選挙への出馬を表明した各党候補の主張をまとめたもので、有力候補が一ページずつ写真と今までの経歴と併せて紹介されていた。ライアン・オニール上院議員のページでは、NATO軍の中将だった際にどこかの席で撮影された写真が小さく紹介されていて「ボスニア情勢についてインタビューに応じ、撮影に快く応じるオニール中将(当時)」という説明が書かれていた。小さな写真だったが、オニール中将はカメラを持ったアジア系の男性の肩に手を乗せ、笑っていた。
「九三年の年末の写真だ。君は当時ブリュッセルにいた時にオニールと一緒に撮られていたじゃないか。新進気鋭のカメラマンとして紹介されているぜ」
 暁文は諦めたようにふうっと息を吐いて立ち上がり、コートを脱いでソファの背にかけ、再び座って脚を組んだ。「一緒に写真を撮るのなら、見栄えのいい女を選んだ方がいい。写真は本人よりもずっと後まで残るからね」
 私は彼の向かい側に座った。「写真は嘘をつかない。いつだって真実を写すんだ。そう言ったのは君だよ、ジョニー」
 手術で新しい顔は手に入れられても、目の光までは変えられなかった。ジョニーは意志の強そうな目で私を見据えた。「こうして話をするのは久しぶりだね、ケイスケ。また会えるとは思っていなかったよ」
 ジョニー・リーはそう言うと、手袋をはめたままテーブルの上のニコンを取り上げ、穏やかな表情で壊れたカメラを手に包んだ。「いつから分かっていたんだ」
「大華楼でクッキーを配った時さ。君はぼくに気取られないように左手を使っていた。不自然だったよ。ほんの少し前に顔を会わせていたんだ、いくら洋服を替えていても分かる。バートが助けに来てくれたしね。彼に頼んで、ぼくを見守ってくれていたんだろ」
「大華楼にいてくれて良かったよ。二階だけで済んだからね。店の親父はさんざん文句を言っていたが、小切手を掴ませたら店ごと建て替えられるって喜んでたよ。君がイタリア料理屋に連れていかれてたら、店全部を噴っ飛ばさなければならなかった」
 ジョニーは立ち上がって冷蔵庫から瓶ビールを二本取り出し、一本を私に差し出した。私は首を振った。
「チャイナ・ブルーを飲みたいところだが、仕方がない」と、ジョニーは言った。
「整形をしても、君は君だな」
「シリコンバレーの医者は優秀だ。闇医者でも高い料金を払えば、完璧な仕事をする。包帯もすぐに外れたよ」
 そう言って、手袋をしたままの手で頬を触った。髪は黒々としており、頬の醜い傷跡はなく、顔の形も全く違う別人だった。しかし、目の光の色はジョニーのものだった。
「指も治したんだな。シリコンの義指か」
 ジョニーは手袋の上から自分の指を見つめた。「今まで治さなかったのは戒めだったんだ。自分の軽率さに対する戒めだ」
「なぜニューヨークに戻ってきたんだ」と、私は訊いた。「梅鈴は捕まったよ。移民法違反の容疑だ。もう容疑じゃ済まないだろう」
「知ってる。やり手の弁護士を頼んだ。金ならいくらでもあるんだ」
「そうみたいだな。君はいろいろ非合法のものを売って荒稼ぎしたみたいだ。FBIや市警の連中が君のことを知りたがっていた。税務署の連中もきっと同じ気持ちだろう。それで今度はオニールに選挙資金を提供し始めたのか」
 ジョニーは左手で栓を開け、吹き出した泡に口を付けた。「ライアンはずるがしこい政治屋だが、使い道はある。ぼくは彼の尻尾を掴んでいるんだ。彼とは停戦したよ。彼が大統領になれば、ぼくは思った通りにできるようになる。彼としてもぼくのことを使い道があると思ったみたいだ、イタ公よりはね」
「それで奴と手を組んだのか。あんなに殺し合いをしていた間柄なのに」
「彼と殺し合いをしていたわけじゃあないよ。ぼくらとイタリア人の問題だ。これは政治の問題なんだよ。彼は今まではロッソと組んでいたが、ジャンニももういなくなってしまった。ぼくと組んだ方が役に立ちそうだということに気が付いたんだ」
「君がロッソ・ファミリーをつぶしたから、マンハッタンでまた殺し合いが始まる」と、私は言った。
「そうはならないよ。言ったろ、これは政治なんだ。殺し合ったって、何の利益も出なければ意味が無いんだ。力があるものが牛耳るのが政治なんだ」
「なぜ、彼らを殺したんだ」
「復讐さ。奴らは父親と産まれるはずだったぼくの子供を殺したんだ。あんなことがなければ、ぼくはカメラマンになって梅鈴と普通の生活を暮らしていたはずだ」
 彼の台詞はひどく空しく聞こえた。
「今まで待っていたのは、マリオ・ロッソがシチリアから帰ってくるのを待っていたのか」
「そうさ。奴の親父が死にかけてたからね、戻って来ざるを得なかったんだ。ぼくとマリオは犬猿の仲だ。奴と同じ町では暮らせない」ジョニーは組んでいた脚を外し、身を乗り出した。「ねえ、ケイスケ。ぼくと一緒に来ないか。ぼくには本当に信頼できる仲間が必要なんだ、君みたいな」
 彼の問いかけには答えず、私は訊いた。「ワシントン広場で、君の身代わりになった男は誰なんだ?」
 ジョニーは悪戯を問い詰められた子供のように俯いた。「つまらない奴さ。大陸から密入国してきたんだ。ビザが無いからちゃんとした仕事に就けず、いつも下っ端仕事ばかりさせられて文句を言っていた。腸詰め工場でこき使われた挙げ句に右手の指を機械に挟んでミンチにしちまった。保険にも入っていないし、生きていても仕方のない奴だったんだ。ぼくが五十ドルやるって言ったら、喜んでジャグァーの鍵を持っていったよ」
「君が姿をくらますために爆弾を仕掛けたんだな」
「そうじゃあない」ジョニーはそれを否定した「最初に時限爆弾をしかけたのはマリオ・ロッソだ。バリゴッツィとの関係を消し、自分の地位を安泰にするためにぼくを殺そうとしたんだ。ぼくはそれにちょいと細工しただけさ」
「君の仲間がやったのか」
「連中の爆弾は子供の花火みたいなもんさ。解除も簡単だった。ぼくの仲間に爆弾のプロがいるんだ。彼がちゃんと分量や爆発する範囲を計算して新しいのをセットしたんだ」
「それで、身代わりの仲間を噴っ飛ばしたわけだ」
「あいつは仲間じゃあない。ただ仕事を探してた半端者だ」
「それだって生きていたんだぜ。君と体型が似てるってだけで殺されちゃあ浮かばれない」
 ジョニーは肩をすくめた。「ぼくが殺したんじゃあないよ。イタ公のやつらさ」
「歯の治療カルテを交換しておいたのは、ずいぶん用意周到じゃないか。最初から計画的だったんだろ」
「そうじゃない、あれはたまたまさ。ぼくらの仲間に歯医者がいて、奴を治療させ、記録を作ったんだ」
「それを計画的だって言うんだ。君たちの言葉ではどういうのか知らないが」
 ジョニーは黙り、私の膝の辺りを見つめていた。叱られた中学校
の生徒のようだった。
「君はなんでぼくをニューヨークに呼んだんだ。目撃者なんて誰だってよかったはずだ」
「分からないよ。ただ、君に会いたくなったんだ。サラエボでは、ぼくらはいろいろ話をしたじゃないか」
「それでわざわざ写真を残していったのか。君はぼくにどうして欲しかったんだ。イタリア・マフィアを退治してもらいたかったのか。オニールの犯罪を暴いてもらいたかったのか」
「分からないよ。特に考えていたわけじゃあない。成り行きでこうなったんだ」
「ぼくが来なければ、サニャは巻き込まれなかったし、死なずに済んだ。彼女は家族を欲しがっていた。彼女は妊娠していたよ、君の子だ」
 ジョニーは呆然として私を見つめていた。「まさか、そんな・・・知らなかった」
「そうだろうね」と、私は言った。「もう終わったことだ。成り行きだからな。それに君にはどうでもいいことのはずだ」
 ジョニーは俯いて、手袋の上から新しくなった人工の指をいじっていた。まるで、失った指を探しているようにも見えた。彼はサラエボで、指と共に大切なものを失くしてしまっていたのだ。
「サラエボの市場を噴き飛ばしたのも君だね。NATOにいたオニールから頼まれたのか。それとも君が持ちかけたのか。あの重そうなカメラバッグに爆弾を入れて運んだ時の気持ちはどんなだったんだ」
 ジョニーは押し黙り、やがて言葉を探すようにゆっくりと話し始めた。「あのとき、アメリカは内戦で優勢だったセルビアを牽制したがっていた。セルビア人とロシア人は人種的に近いんだ。湾岸戦争以来、アメリカはロシアを囲い込むことに力を割いていて、ヨーロッパへの玄関口になるバルカン半島にロシアの熊どもが乗り出してこないようにするためには、セルビア人を抑えておく必要があったんだ。けれども国連軍の多国籍軍が駐留していたから、アメリカ軍は公式には手は出せない。だから、当時NATOの情報部にいたオニールがぼくに白羽の矢を立てたってわけさ」
「ジャーナリストの肩書きなら、戦場の街にやってくるのは簡単だからね。それで君は爆弾を抱えて国連軍の飛行機でサラエボに乗り込んだってわけだ」
「国連軍の飛行機には簡単に乗れたよ。全部オニールが手配したんだ。情報部の彼の手にかかれば、それくらいは簡単なことだった」
「青空市場で爆弾を爆発させたことも簡単なことだったのか。あの爆発で六十人以上が死んだんだぜ」
 ジョニーは表情を曇らせた。「オニールの奴に騙されたんだ。あいつは爆弾の量を少なくしてあり、ケースの中に入ったままだから、それほど被害は広がらないと言っていた。ただ、ちょっとした爆発が広場で起こって市民が巻き込まれて、それがセルビア側の仕業だとなれば、ボスニア政府側に同情が集まる。ぼくはその瞬間を写真に撮れる。奴はそう言った。断るのは難しい誘惑だった」
「それで君は魂を売ったのか。君がほかに売ったのはなんだ、カメラマンとしてのプライドと人間としての尊厳か」
「ぼくの中には天使と悪魔が同居している。君が知っているのは天使の方かも知れない。あの日サラエボで爆弾が破裂した時、ぼくの中の天使は死んだんだ。人間には二つの心はいらないよ。二つもあるとお互いに喧嘩ばかりしているからね。だから、悪魔に魂を売ってせいせいした。良心の呵責なんて余計なものに悩まなくてもよくなったんだからね」
「それならなぜ、部屋にニコンと写真を残しておいたんだ。ぼくに見てもらいたかったんだろう。サラエボのあの写真は悪魔の心を持った人間には撮れやしないぜ」
 ジョニーは黙りこくった。だが、彼が私の主張を受け入れることはなかった。「爆弾を仕掛けてカメラケースを建物の陰に隠した時、子供が見ていたんだ。ぼくの忘れ物だと思ったらしい。あるいは盗んでいこうと思ったのかも知れないな。気が付いた時には手遅れだった。その子はカメラケースを肩から提げたまま広場を駆け抜けようとして噴っ飛んだ。本当は、オニールはぼくも一緒に噴き飛ばそうとしてたんだ。でもそうはならなかった。ぼくは生き延びたんだ」
 私はグリニッチヴィレッジに残されていた四枚の写真のうちの一枚を思い出した。子供がカメラバッグを肩から提げ、逃げようとしている写真だ。
「ぼくは慌ててシャッターを押したんだよ。傑作だろ。ピュリッツァー賞を取ったっておかしくない写真だ。もちろん、あの事件はぼくのせいさ。でも、考えてみろよ。あの爆発があったおかげで世論はボスニア政府側に味方するようになったんだ。砲撃も止んだ。戦争で何千人も撃ち殺されるところが、たった六十人の犠牲で済んだんだ。ぼくは彼らを救ったんだよ」そう言うと彼は押し黙った。私の同意を求めているように、私をじっと見つめた。
「君の父親は武器商人だった。君は父親の仕事を継ぎたくないって言っていた」私は言った。
「そうさ。でも、親父がぼくをオニールに紹介したんだ。ぼくはカメラマンとしていい仕事ができるかも知れないと思ったから、ブリュッセルに行ったんだ。親父が考えていたのとは違う理由だった。親父はぼくに親父の仕事を継がせたがっていたんだ。でも、オニールの奴が望んでいたのも違う仕事だった。オニールはセルビア人が勢力を広げると、ロシアマフィアが出張ってきて密売ルートを荒らされるんじゃないかと恐れていた」
「君は前に言ったね。男はくたびれているとおしゃべりになるって。だが、後ろめたい男は言い訳が多くなるようだな。それでオニールと手を組んだのか」
「あのシナリオを書いたのはバリゴッツィの奴だよ。オニールはずるいだけで、賢くはない。オニールはぼくの親父と取引をしていて、ぼくを自分たちの仲間にしようとしていた。ぼくは親父の思惑なんてどうでもよかった。カメラマンになるつもりだったからね。だが、同じ頃、ロッソの奴らがオニールの部下だった同郷のバリゴッツィに近づいていて、密売ルートを手に入れたがっていた。バリゴッツィはオニールを懐柔したんだ。それでオニールの奴はぼくを裏切ったんだ。親父はオニールのことを信用していたけれど、ぼくはそうじゃあなかった。だからイタ公が連中に近づいてきたのを知って、保険のために隠し撮りしたんだ。まさか連中がぼくもろとも吹き飛ばそうとしているとは思わなかったけれどね。あれ以来、ずいぶん用心深くなったよ」
「奴らの思惑に乗って君が自分の意志でサラエボに行ったんだ」
「表の理由と裏の理由の両方から、ぼくをサラエボに行かせたのさ。アメリカ軍も同罪だ」
「父親が殺されて、君は裏社会とのつながりまで引き継いだんだ。ずいぶん黒く染まったじゃないか」
「これもビジネスだよ。生きていくための仕事なんだ」
「君もオニールと同じだな」と、私は言った。「結局のところ、人の命などどうでもいいんだ。自分のための駒に過ぎないんだ」
「何を言っているんだ、ケイスケ。あれは戦争だったんだ。何もしなくたって、毎日誰かが死んでいくんだよ」
「だからと言って君が勝手に殺していいって理屈にはならない」私はジョニーを睨み付けた。「それに君はニューヨークとサンフランシスコで何人も殺してきた。君の代わりに焼け死んだ男は君が直接殺したようなもんだぜ」
「この街だって戦場なんだ。イタリア人が中国人の土地を奪い、白人が黒人を撃ち殺し、ヒスパニックが白人をレイプする。民族同士が憎みあっているんだ。サラエボといったいどこが違うんだ。みんな平静を装ってるだけだよ。たがが外れたらここだってサラエボと同じになる。どこが違うって言うんだ」
「エンパイヤステートビルから狙撃されないし、空爆も無い。道路に地雷も埋まっていない。それが平和ってもんだ」
「ぼくらは本当の平和を作ろうとしているんだよ」ジョニーは両手を握りしめた。「ベルリンの壁が無くなって、ソ連が崩壊し、東西冷戦の構造が無くなったら、きっと国境の無い世界が生まれるんじゃないかと誰もが思っていたんだ。でもそれは間違いだった。今までソ連対アメリカっていう大国のエゴがぶつかりあっていたものが細かく分割されただけだ。民族や宗教っていうもっとドロドロとしたエゴにね。こいつらはちっぽけだけれど、人間の根源に根差したものだから、資本主義や共産主義なんていう上っ面なシステムの争いよりもはるかに激しく、醜い戦争を引き起こす。それがボスニアのあの戦争だったし、この街で起きていることなんだ。ぼくはそこに、ぼくなりの論理を持ち込んだのさ」
「君はマンハッタンを戦場にしたいのか」
「そうじゃない。焼野原を作ってそこにもう一度街を作るんだ。そこは民族的偏見の無い誰もが平等な天国なんだ」
「偏見は無いかも知れないが、代わりに恐怖が支配することになる」
「恐怖が統治に有効だっていうのは人類始まって以来の真理だよ。ヒトラーやスターリンやサダム・フセインがいい例じゃないか」
「君は狂っている」
「正気な方がどうかしているよ」と、ジョニーは言った。「サラエボで、子供たちが狙撃兵に撃ち殺され、砲撃で街が破壊されるのを目の当たりにして、カメラマンなんて所詮、記録屋でしかないことに気が付いたんだ。ぼくの写真が戦争を止めたかい。結局は平和な暮らしにうつつを抜かしている連中の同情を誘うだけで、大勢には何の影響も与えないのさ。くだらないソープ・ドラマと同じだよ。主婦がテレビを見ている間は感動もするし、涙も流すけれども、ドラマが終われば今夜の夕食のことを考え始めるんだ。決して現実の世界を動かすことはないんだよ。だから、ぼくは決めたんだ、こちら側で現実を動かす方に回ろうってね」
「その手段がテロリズムで人を殺していくことなのか。いろいろ考えて出した結論の割にはずいぶん陳腐だな」
 私が言うと彼の目が一瞬鋭く光り、やがて冷めた色に変わった。
「君なら分かってくれると思っていたんだよ。いや、そうじゃないな。君には分かってもらいたかったんだ」
「分からないね。分かるつもりもない」
 ジョニーは寂しそうに笑い、整形で治したはずの頬の傷がうずくのか、表情を歪ませた。やがて意を決したように口を開いた。「ケイスケ、ぼくと一緒に来ないか。ぼくと世界を変えてみないか」熱っぽい口調でもう一度言った。
 私は彼のその表情をじっと見つめた。
「さよなら、ジョニー。もう二度と君に会うことは無いと思うよ」
 彼はふっと吐息を漏らし、静かに首を振った。もう一度口を開いて何かを言おうとしたが、彼の口から言葉が出ることはなく、小さな息を吐き出しながらゆっくりと閉じていった。持っていたニコンを静かにテーブルに置いて立ち上がると、私の顔を見ようとはせずに、くるりと後ろを向いて部屋から出ていった。ドアがバタンと大きな音を立てて閉まり、微かに聞こえていた靴音はやがて聞こえなくなった。
 私はソファに座ったまま、閉ざされたドアを見つめ、テーブルに置きざりにされたニコンを取り上げた。ジョニーの温もりは私の手の中ですぐに消えて、元の冷たいカメラに戻ってしまい、二度と息を吹き返すことはなかった。
 ようやく彼にさよならが言えた。私の中で誰かが囁いた。サラエボの空港で言えなかった別れの台詞は鉄錆を舐めたようにひどく苦い味がした。



<エピローグ>

 それが彼との文字通り永遠の別れになった。一週間後、FBIとニューヨーク市警がチャイナタウンを急襲し、彼の組織との間で銃撃戦になった。彼は最後まで抵抗を続け、警官を何人か射殺した後、拳銃を口にくわえて後頭部を噴き飛ばした。
 同じ日、オニール上院議員がイタリア人のマフィア組織から資金提供を受けていたことを暴露する元側近の告白がニューヨーク・タイムズの一面を飾った。いつも付き従っていた税務官僚のような小男の顔写真入りの記事だった。見た目通り、彼が金庫番だったのだ。彼は選挙参謀のバリゴッツィと反りが合わず、追い出されたことを根に持って新聞社に駆け込んだ。ジョニーがブリュッセルで撮影し、私が新聞社に送りつけた写真は結局使われることはなかった。真実が明らかになるときというのは概してこんなものだ。どうでもいいところから秘密は漏れ出していくのだ。
 それから数日の間、過剰なマスコミの報道の中で、上院議員は大統領選への出馬を断念せざるを得なくなった。スーパーチューズデイの圧勝から、まだ一月しか経っていなかった。
 四月はこの街で一番いい季節だ。冬は唐突に終わり、息吹きすら感じられなかった木々が一斉に芽吹き、緑の衣をまとう。そして夏がやってくる。この街ではすべてのことが突然終わり、そして突然始まる。
 古い物を捨て去るのは時には必要なことだった。ニューヨークという街は、時に捨てたくないものまで無理矢理捨て去ろうとする。私はこの街が好きになり始めていた。
 私はふとサラエボの青く澄みきった空を思い出した。ジョニーは戦火の向こう側に広がるその空を夢見るような表情で眺めていた。空の向こうにあるはずの天国という虚像をレンズ越しに探していたのかも知れなかった。
 その日、摩天楼のビルの隙間から顔を覗かせた空の色はサラエボの空に負けず劣らず青く澄み渡っていた。
 どこかに天国というものがあるとしたら、この街のように罵声とクラクションが飛び交い、白や黒や黄色い顔をした天使たちが急ぎ足で道を横切っているのかも知れなかった。ジョニー・リーの探していた世界は私には見ることができなかったが、今の私にはマンハッタンも十分に天国に近いところにあった。


the end



お読みいただき、どうもありがとうございました。
今回で、「最後のさよなら」は終了いたします。

ご意見ご感想をコメントとして、あるいはメールにてお寄せいただければ幸いです。
次の作品を掲載するかどうかの参考にさせていただきます。
                                              著者拝


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■最後のさよなら■ 第29回


*********************************************************************************************** 2000年 マンハッタン・春

<27>


 

 空港のカウンターでニューヨークまでの直行便の席を確保し、搭乗前に売店で買い込んだバーボンのミニボトル五本を機内で飲み干し、酔っぱらったままJFK空港に到着すると、搭乗ゲート脇に吊されていたテレビがニュース速報を流していた。ゲート付近で搭乗のアナウンスを待っていた旅行客たちが興奮した口調で誰彼かまわず捕まえて議論を戦わせていた。
 予備選の投票結果の集計値が出て、共和党のスーパーチューズデイはライアン・オニール上院議員がほとんどの州で勝利を収めたことが明らかになったのだ。同党のキンボール・マクミラン下院院内総務は早々と敗北宣言を出し、オニール議員の唯一の対抗馬となったスタイン・カリフォルニア州知事を支持することを表明していた。CNNのニュースキャスターが、これでオニール上院議員と民主党のジェフリー・ゴードン副大統領の争いになる公算が大きくなったとコメントしていた。
 オニールの蛇のような笑いを思い出し、私は胃の辺りに鉛のような重苦しい塊が投げ込まれたような気がした。
 寒風がビュービューと吹きすさぶJFKのロータリーでイエローキャブを待つ長い列に並ぶと、ボストンから来たという裕福そうな老夫婦が話しかけてきて、オニール議員はいかに勇気があって素晴らしい人物であり、彼が大統領になればアメリカは幸せになるに違いないという五つの理由を延々と語り出した。私は吐き気がしてきて口元を押さえると、彼らは不思議そうな顔で私を見ていた。タクシーに乗ってからはパキスタン人の運転手がターバンを巻いた頭を左右に振って共和党批判をまくしたてたので、今度は頭痛がしてきた。ズキズキする頭とムカムカする胃を抱えながら、彼がなぜオニール議員を支持しないかという十の理由のうち七つまでを聞かされたところで意識を失った。
 次に意識がはっきりした時、私はアパートのベッドでうなされていた。タクシーを降りて、部屋にどうやって戻ったのか、どうやってベッドに潜り込んだのかは全く覚えていなかった。頭痛と吐き気が好き勝手に指揮棒を振り回しており、頭の上でオーケストラが滅茶苦茶な演奏を始めていた。熱を計ると華氏で百度を優に超えていた。摂氏に換算すると何度になるのだろうと考えているうちに頭痛がひどくなり、私はアスピリンを三粒飲み込んでベッドに倒れ込み、再び意識を失った。


 サンフランシスコから戻って三日後、私はベッドから起き出した。髭を剃って、熱いシャワーを浴び、清潔なシャツに着替えると人間に戻ったような気がした。パスタを茹で、ガーリックと唐辛子と一緒にオリーブオイルで合わせ、冷蔵庫に残っていた野菜を炒めて塩胡椒で味付けをして皿に盛り、ちょっと酸化した赤ワインとともに胃の中に収めてしまうと、まだ人生も捨てたモノではないと信じ込めるようになっていた。あと必要だったのはすべてを消し去ってくれるほど苦い一杯のエスプレッソだったが、あいにくコーヒー豆は切らしていた。
 次に辺りを見回して、荒れ果てたままになっていた部屋を片づけた。クリーニングサービスはキッチンの片づけやシーツの交換、床の掃除とゴミ出しはしてくれていたが、出しっぱなしの荷物は部屋の隅に積んだままだった。雑誌類を本棚に戻し、窓を開けて空気を入れ換えると、冷えた空気の中に何か別の匂いを嗅いだような気がした。それは暖かく香しい匂いだった。
 楊老人に宛てて、無事にニューヨークに到着したことを知らせる手紙を書いて無地の封筒に入れ、いくつかの荷物と一緒に紙袋に入れて包装し、フェデラルエクスプレスのオフィスに持っていって発送した。そして郵便局に赴き、ジョニーが隠し撮りして、サニャが現像してくれたオニール上院議員とバリゴッツィが写った写真を無地の封筒に入れ、署名をしないままニューヨーク・タイムズの住所を書いて送った。
 帰り道にコーヒー豆とベーグルを買い込んで店を出た時、歩道の雪がすっかり無くなっていることに気がついた。日陰には崩れかけた雪ダルマが黒く汚れた塊になって忘れられたまま残っていて、生ゴミの袋が積み上げられたりしていたが、冬はそろそろ退却の準備に入っていた。誰かが言ったように、終わらない冬はないのだ。
 アパートの階段を上がり、相変わらず廊下で煙草を吸っている男か女か分からない隣人を横目で見ながら、ドアを開けると電話が鳴っていた。
 ルイス警部からだった。
「ジャンニ・ロッソが死んだよ」開口一番、彼はそう言った。悲しんでも、喜んでもいない声だった。
「殺されたんですか?」
 私は干涸らびたトマトのようになりながら細く延ばした命の火を燃やしていた老人の倦みきった表情を思い出した。
「いや、老衰だ。ファミリーのお抱えドクターを医師法違反でしょっぴいた。保護して欲しいと出頭してきたよ。無免許だったんだ。呆れたもんだ。嘘はついてないだろう。息子のマリオ・ロッソが殺されて、ジャンニも死んだ。ロッソ・ファミリーは解体だ。ロッソの縄張りはほかのファミリーがすぐに食い尽くすだろう」
「ほかの手下や幹部がいると思いますが」
「モレッティを始め、ファミリーの幹部はほとんど死んじまった。サンフランシスコで爆発に巻き込まれたんだそうだ。連中は旅行中だったとさ。フィッシャーマンズワーフにカニでも食いに行ってたんだろう。ドンが死にかけてるのにいい気なもんだ」
 私はゴクリと息を呑んだ。「事故・・・だったんですか」
 ルイス警部は私を諭すように言った。「いいかね、日本人。この世の中には、知っていてもよいことと、知っていても知らない振りをしている方がよいことの二つしかないんだ。現場はサンフランシスコのチャイナタウンの料理店で、爆発の後に黒人の大男と、アジア系のチビ助が店から出てきたのを野次馬が見ている。面白いとは思わんかね。まあ、俺にしてみれば管轄違いだがね」
 私の心臓はバクバクと高鳴った。
「ところで、あんたはここのところ出かけていたみたいだな。アパートに寄ったが留守だった。俺は、何か知ってることがあったら電話しろと言ったぜ。街を出る時にも電話をしろと言ったはずだ。旅行かね」
「すみませんでした。寒さのせいでひどい風邪を引いていて、声が出なくなっていた。電話にも出れなかった。南の島にでも静養に行けばよかった」
 私の答えにルイス警部は黙りこくった。沈黙の向こう側で、いつものように第六分署の騒々しい音が聞こえていた。
 やがて、大きなため息が聞こえてきた。
「まあいい」と、ルイス警部は言った。「俺の望みはこの街で戦争を始めてもらいたくないということだけだ。いいな、日本人。長生きをしたければ大人の言うことをちゃんと聞くもんだ」
「分かります」と、私は言った。
「この国に本当に正義があるかどうかなんて俺は知らない。時にはひどいことも起きているさ。いいかね。人間はいつだって正しいことをしているわけじゃあないんだ。ここだけの話、警察だって間違ったことをすることもある。だが、市民が普通にメシを食って、普通に街を歩いて、普通に恋をすることができるようにするのが、俺の使命なんだ」
「分かりますよ、警部」
「この件はFBIが興味を持っている」
 私は何と答えるべきか、言葉を失った。
「FBIといえば、今朝のニューヨーク・タイムズは読んだかね」
「いいえ。今朝はまだ」と、私は言った。
「チャイナタウンの大火と同じ日に五番街の聖パトリック大聖堂で射殺された捜査官がいたのを覚えているかね」
 私は彼が何を言おうとしているのか分からなかった。私は三秒ほど考えながらゆっくりと言った。「覚えていますよ、警部」
「その捜査官と一緒に殺されていたのがロッソ・ファミリーとつながりがあるチンピラだった。こいつは捜査上の秘密だったが、今朝の新聞で、その捜査官がファミリーに情報を漏らしていたことが内偵の結果分かった、とすっぱ抜かれているよ」
「どうして分かったんですか?」
「彼の銀行口座に多額の預金があったんだな。小切手の振り出し元がロッソに関係のある企業だったことから、彼が捜査データベースにアクセスしていることが発覚したらしい」
「それをニューヨーク・タイムズが掴んだんですね。どうやったんだろう」
「君はジャーナリスト失格だな」ルイス警部が笑った。「そいつがスクープってもんだ。違うかね」
「その通りです」私は苦笑した。
「どこから嗅ぎつけたのか知らんが、今FBIのニューヨーク支局はてんやわんやだ」
「そうですか」
「あんたも余計なことには首を突っ込まんことだ」
「なぜ、ぼくにそんな話をしてくれるんですか」
 ルイス警部は小さく息を吐いた。「なに、理由は無いさ。ただの雑談だ。あんたは日本人なのに、この街の住民の何人かを助けてくれたからな。いいかね、日本人。森の中の住人には森の大きさは見えんものだ。あんたは外国人のジャーナリストだ。この国で何が起きているのかを記録するのもあんた方ジャーナリストって奴の務めなんじゃあないのかね」
「分かりました」私は頷いた。
「結局あんたからは一度も電話してこなかったな」電話の向こうで、ルイス警部は欠伸をしていた。
「恥ずかしがり屋なんです」
「だから、日本人てやつは・・・」そう言いかけて、ルイス警部は言葉を切った。「まあ、いい。今日は徹夜明けなんだ。疲れたよ。ビールでも飲んで寝るとするさ」
「今度、非番の時に電話します」と、私は言った。「うまいビールをご馳走します。賄賂じゃあない」
「なめるなよ、日本人」声が笑っていた。




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■最後のさよなら■ 第28回


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<26>


 

 私は後ろ手に縛られたまま、真っ黒なトーラスに押し込められた。この町では、声を上げても何の役にも立たないだろう。第一、銃を突きつけられていては、声を出すことは躊躇わざるを得なかった。
 二人の男は後部座席に両側のドアから入ってきて私を挟み込んで座り,顎髭の男が私のジャケットの内ポケットから封筒を探り出して、中身を改めた。バリゴッツィとマリオ・ロッソ、モレッティが写った写真を確認すると運転席に座っていた男に頷きかけた。運転手はアクセルを思い切り踏み込み、タイヤを軋ませて発車させた。
「ぼくをどこに連れていくんだ」
 男たちは私に銃を突きつけ、一言もしゃべらなかった。一度だけ、右隣の顎髭の男が携帯電話を取り出し、どこかに電話をかけた。彼がしゃべったのはイタリア語で私には全く理解できなかった。
 車は往きに私が運転してきた高速道路を北に上がっていき、空港を越えて半島の先端にあるサンフランシスコの市内に入っていった。南の方ではあんなに降っていた雨が嘘のような良い天気で、車の中から湾向こうのバークレイを鮮やかに望むことができた。
 倉庫街が広がり始めたところで、車は高速道路を降り、スペイン語で波止場を意味するエンバカデーロ通りを走っていった。建築中の野球場を横に見てベイブリッジをくぐり、数字の付いた波止場がいくつも現れてきた辺りを左に曲がった。
 狭くて急な坂道を途中まで上ると、街並みが急に赤や金色の極彩色で塗りたくった建物に変わり、漢字混じりの看板が広がり始めた。街の丘陵の東斜面に広がるサンフランシスコのチャイナタウンだ。
 トーラスは大華楼という立派な店構えの中華料理店で停まった。すぐ前には車三台分くらいを無理矢理つなげたストレッチ・リムジンが駐車スペースを無駄に使っていた。
 拳銃を私の横腹に押しつけ、顎髭の男が車から降りるように英語で言った。なぜ、彼らが中華料理屋に私を連れてきたのかは分からなかったが、今の状況では彼らに従うしかなかった。
 白人の観光客が何人か通りかかったが、私にはまるで気が付かず、談笑しながら歩き去っていった。
 真っ赤な髪の若い男が私の肩を掴み、早く店に入れと強く押した。扉には閉店中の札がかかっていて、私はそのままドアを押して店に入った。一階のテーブル席には客は一人もおらず、入ってすぐのところにラテン系の顔立ちの男が二人立っていて、店の奥の方から怖々と顔を覗かせている中国人の店員を見張っていた。
 私は銃で背中を押され、急な階段を上がるように促された。そのまま二階に上がると個室がいくつか並んでいて、私は手前にある大きめの部屋に連れていかれた。
 中には男ばかり十数人の人間が一つの大きな円卓を囲んでいて、部屋の四隅には黒服のボディガードが手を後ろで組んでいた。
 一番奥にいたのはライアン・オニール上院議員で、その左右には選挙参謀のバリゴッツィと、税務官僚のような小男が座っていた。その隣にはジャンニ・ロッソの屋敷で見かけたモレッティという太った男と、同じように目つきが鋭いラテン系の中年男が三人座っており、私が入ってきた扉の近くには中国人の老人が三人座っていた。
「やあ、ミスター・クサナギ。よく来てくれたね」オニール議員は席を立ち、にこやかに笑って私を出迎えた。政治家の笑いだった。「そこに君の席を用意しておいた。座りたまえ」
 私は中国人の老人と、イタリア人らしき中年の間に一つだけ空いていた椅子に座らされた。ひどく居心地が悪い席だった。
 テーブルの上には料理の大皿がいくつも置かれており、見たこともないような精巧を極めた彫刻のような飾りを施した料理が並んでいた。料理はオニール議員とイタリア人たちの側はほとんど残っていなかったが、三人の老人の前の箸と取り皿は使われずにきれいなままで、料理にも手がつけられていなかった。
「君とはよくよく縁があるようだね。東だけでなく、西海岸でも顔を合わせるとはね」オニール議員が口の端に皮肉な笑いを浮かべた。
「来たくて来たわけじゃあない。あんたがぼくを拉致してきたんだ」
「おいおい、人聞きが悪いじゃあないか。せっかく君を食事に招待したのに」そう言いながら両手を広げ、食べ残しの料理が乗った皿を示した。「君が来るのがあまりに遅いから、待ちくたびれて先にいただいてしまったよ。私も次の用事があるのでね。カリフォルニアはなかなかタフな州だ。力を入れて遊説しないといかんからな」
「せっかくだけれど、腹は空いていない。辞退させていただけるとありがたい」
「それは残念だ。だが、少しならいいだろう」オニール議員は笑顔で言った。仮面が笑ったような作り笑いだった。「君にはどうせ大して時間は無いんだ」
 やがて、私が後ろ手に縛られていることに気が付くと、「おや、そのままじゃあ料理に手も伸ばせないだろう」と、口元を緩ませた。
「おい、アントニオ、そいつの縄を外してやれ」モレッティが顎をしゃくった。
 顎髭の男が無言のまま、私の背後に立ち、鋭利な刃物か何かで縄を切った。
「ミケーレ、アントニオ。お前らはその辺に立って待ってろ」
 顎髭のアントニオと赤毛のミケーレは何も言わず、入り口の脇に下がっていった。
「さて、話を先に済ませてしまおうか」オニール議員は中国人の老人に目を向けた。「今まで話した通り、私としてもあなた方中国人とこちらのイタリア人がいつまでもいがみ合っているのを見放しにはできない。ニューヨークのチャイナタウンには頑迷な老人が多いようでね。私としても遺憾に思っているんだよ」
「御意」一人の老人が頭を下げた。
「そこへいくと、西海岸のあなた方は開明的で、極めて賢明な選択をされた。民族的、人種的な違いを乗り越え、中国人とイタリア人がお互いに手を結べば、この世界を動かすのも思いのままだ。ここにいるモレッティ君は私の知り合いのジャンニ・ロッソ氏の使者としてニューヨークからわざわざご足労願った。どうかね、ここは一つ、私に免じて西と東が手を結ぶということにしては」
「あんたはいったい、何を言っているんだ」私は声をあげた。「何が狙いだ」
「すまんが、少し静かにしていてくれんかね。君をゲストとして呼んだが、口出ししていいとは言っていない」
 後ろからアントニオが近づき、肩越しに銃の腹で頬を叩いた。
「ジャンニ・ロッソも高齢だ。残念ながら、彼の跡を継ぐべきマリオ君は亡くなった。彼の子供はまだ幼齢で、このモレッティ君が後見人としてファミリーを守っていくと言っている。私は彼に協力しようと思っている。あなた方、西のチャイナタウンが彼らと手を結んでくれれば一安心なんだがねぇ。私としても選挙に専念しなければならん。西のあなたたちが協力してくれれば、怖いものなしだ」
 老人の一人がゆっくりと話し始めた。「わしらはこの国の安定のために協力することはやぶさかではない。じゃが、同胞を納得させるにはそれなりに理由は必要じゃ」
「その通りですな。あなた方の気持ちはよく分かる」オニールは大きく頷いた。「ところで、移民局の人間から聞いた話だが、最近はこの辺りもずいぶん中国人が増えたようですな。ビザの発給件数以上に中国系の住人が増えていると聞いている。国勢調査の結果を見れば良い話だが、カリフォルニアではあなた方中国人はヒスパニックと並んでマジョリティになっているようですな」
「それではお困りとおっしゃるか」
「誤解してもらっては困る。私は人種差別主義者ではない。しかし、国家の安定のためには、望まれない人々の流入も防ぐのも政治家の責務ですからな。最大多数の最大幸福。私はいつもそう思っていますよ。これから、スタイン州知事と面会の予定が入っている。場合によっては口をきいてあげられるかも知れない」
 オニールは彼の持つ政治力を武器に、彼らの降伏と、自分への服従を迫っているのだ。不法移民問題はこの国にとって大きな社会問題であり、政治問題だ。もし彼が大統領になった時、これを問題として取り上げ、チャイナタウンを集中的に捜査するようにし向けたらどうなるか、彼はそうやって脅しをかけているのだ。
 それは逆に、オニールが彼らを畏れている証左でもあった。カリフォルニアを中心とした西海岸は中国人を始め、アジア系住人が極めて多い地域だ。彼らの支持が得られなければ予備選だけでなく、大統領選の勝利はおぼつかなかった。
 オニールの隣にいたバリゴッツィが口を開いた。「上院議員もこうおっしゃっている。忙しいスーパーチューズデイの今日、この地であなた方と長い時間を割いておられる、その意を汲んでいただきたいものですな」
 やがて、老人の一人が静かに口を開いた。「御意のままに」
 三人の老人はテーブルに額を擦り付けるほど深々と頭を下げた。
「懸案の事項は一つ片づいた」オニールは満面に笑みを浮かべた。「大佐、これでいいかね」
「将軍、完璧ですな。わざわざ西海岸に来た甲斐があった」
 モレッティが大きな口を開けて笑った。「これで、東のイタリア人と、西の中国人は兄弟だ。何か困ったことがあったら、俺たちが助けてやるぜ」
「では、わしらはこれで」最高齢の老人が言った。
 中央に座った老人が立ち上がると、両脇の二人も同じように立ち上がり、上院議員に向かって深々と頭を下げ、ゆっくりと後ろを向いて部屋を出ていった。
 彼らが部屋を出て行くのを見届け、モレッティがグラスのビールを飲み干し、「辛気くせぇ爺ぃだぜ」と、蔑むような口調で言った。
 オニールは私に目を向けた。蛇が獲物を見据える目だった。「さて、君の番だ。ミスター・クサナギ。モレッティ君から聞いたんだが、君はずいぶん私のことを調べていたみたいだねぇ」
 小細工は使えそうもなかった。私は覚悟を決めた。「誰がぼくの友人の死に責任があるのかを調べている」
「友人?」
「ジョニー・リーという中国人です。あなたはご存じのはずだ」
 オニールは目を細めた。「いつかのインタビューの時にも、君はそんなことを言っていたね。君はその青年の死が私に責任があるというのかね」
「正直なところ、分かりません」私は頭を振った。「だが、少なくともあなたにはボスニア内戦で不当に利益を得た罪に対する責任はあるはずだ」
 上院議員は私を見つめたまま子供のように親指と人差し指で唇をつまみ、何も言わなかった。脳神経を活性化させ、、どうやって対応するのが最適かを考えているのだ。
 代わりにバリゴッツィが口を開いた。「君はどうも、上院議員について何か誤解しているみたいだ」にこやかな表情をしていたが、目は笑っていなかった。
「銃を突きつけて連れてきて、誤解も何も無い」私は言った。
「おい、君」バリゴッツィが立ち上がりかけた。
「大佐、もういい。彼も覚悟を決めているようだ」オニールはテーブルに両肘をついて手を組み合わせ、その上に顎を載せた。「君が何を話しているのか分からない。少し説明してくれんかね」
「あなたがNATO軍の情報将校だった時、ボスニアの内戦を利用して、軍需物資を横流しして売りさばいていた。ジョニーの父親であるデビッド・リーが作った闇ルートを使って。違いますか」
 バリゴッツィがオニールの耳許で何かを囁いた。
 オニールが口を開いた。「なるほど。面白いね。それで君はどうしようというのかね」
「ぼくにできることは何も無い」私は言った。「写真はさっき奪われた。ほかに証拠は無いし、ぼくのような外国人が何かを言ったとしても動く国じゃあない。あなたは安泰だ」
「では、君はなぜそんな愚にも付かないことをしているのかね」
「そのために、ぼくの友人が二人も死んだ。あなたの犯罪を隠すために。ぼくは彼らとボスニアで初めて会った。彼らはあの内戦をなんとかしようと必死だった。だが、あんたはそれを止めもせずに、火に油を注いでいたんだ」
 オニールの口から出てきた言葉は私の予想しないものだった。
「いいかね。戦争というものは情報を制したものが常に勝利するものなんだよ」オニール上院議員は勝ち誇ったように笑った。「私はNATOにいた時にそれを学んだ。ボスニア紛争は誰が加害者で、誰が被害者かなど、簡単に割り切れる戦争ではなかった。あれは戦争ですらなかったんだ。単なる内輪の争いだよ。その内戦に国連からアメリカからNATOまでもが巻き込まれたんだ。君はなぜそんな事態になったと思うね」
「PRがうまい奴がいたんだろう」
「どうやら君は物事が少しは理解できているようだ。その通りだよ。あの内戦で、セルビア人勢力がムスリムやクロアチアに残虐行為を繰り返していると報道をさんざん流したから、セルビア人は悪者になったんだ。いいかね、同じような行為はムスリム人だってクロアチア人だって行っていたのだ」
「だからアメリカは介入しなかった」
「考えても見たまえ。世界中では毎年何十万、何百万人もが迫害を受けて虐殺されている。一つの村が消えてなくなるなど、当たり前のように起こっているんだ。なぜ、ボスニアだけを特別扱いしなくちゃならん。我が軍は警察ではない、ましてや正義の味方ですらない。我が国の財産を守るために戦っているだけだ」
「それが、あんたの言う正義って奴なんだな」
「チャップリンは、一人殺せば殺人だが、百万人殺せば英雄だと、映画の中で独裁者に言わせたが、それは正しくない。何万人も殺されているのを見せられると、人は何が起きているのか理解できなくなるんだ。感覚が麻痺してしまうのさ。だからいいかね。ドキュメンタリーでも何でも、テレビ番組には何十万人という主人公など出ては来ない。たった一人の悲劇の方がよほどドラマチックだからね」
「だからと言って、戦争や内戦を放っておいてよいわけじゃないだろう」私は感情を抑えながら言った。
「分かってないね、君は。湾岸戦争をきっかけにアメリカの戦争は変わったんだ。戦争には大義名分がなくちゃあならない。湾岸戦争前の戦争は人を殺すための大義名分が必要だったが、今は違う。アメリカ人が一人でも死んだ時に国民を納得させられるだけの大義名分が必要なんだ。それがなければ、議会も予算を付けてはくれない。いいかね、戦争には金がかかるんだ。それが理解できない政治家は二流だよ。それを理解しようとしないジャーナリストは三流だ」
「あんたは一流だっていうわけか」
 オニールはその質問には答えなかった。再びバリゴッツィがオニールの耳許で囁き、オニールが口を開いた。「アメリカ政府は国民を守る義務がある。しかし、国民を守るためには軍隊も武器も必要だ。武器は使わなければ錆びついて役に立たなくなる。常に使い続けることが必要なんだ。それがこの国を強くし続けるコツなんだ」
「だから、あんたは内戦を利用して、東西冷戦が終わってダブついていた武器や兵器をセルビアとクロアチア両方に売りさばいていたんだ。火に油を注ぎ続けていた・・・」
 そう言って、私は恐ろしい考えに思い至り、背筋がぞっと凍り付いた。「まさか、武器の横流しはあんただけの考えじゃないというのか。軍全体の意志だとでも・・・」
 オニールは人形のような目で私を見ていた。すぐ隣にいたバリゴッツィが蛇のような笑いを口元に浮かべ、わざとらしく左手を上げて、腕時計に目をやった。
「ニューヨークでの狙撃事件もあんたたちの狂言だったんだな」私は喉から声を絞り出すように言った。
 やがて、オニールはゆっくりと口を開いた。「ドン・ロッソに聞いた話だが、イタリアにはこういう諺があるそうだ。英語で言うと『最後に笑う者が一番よく笑う』というんだな。私にこそふさわしいと思わんかね」
「そうやって有権者を騙し続けていられると思うな。国民は馬鹿じゃない」私はそう言ったが、声に力を込めることができなかった。
 この闇はいったいどこまで深く、どこまで続いているのだろう。私は夜の帳をわずかに開いて、はるか彼方にまで広がっている暗闇に恐る恐る足を一歩踏み入れただけだったのかも知れなかった。
「騙しているなんて心外だね。彼らは騙されたいんだよ。テレビに映っている私を見ただろう。ひどく魅力的に見えないかね。政治家は信条だけではない、魅力的な演技も重要なんだ。どうやら君は分かっていなかったようだな。まあいい、君にとっては最後の食事だ。楽しみたまえ。私のおごりだ」
 バリゴッツィがオニールの耳許で何かを囁いた。
 するとオニールは急に子供のような表情になり、バリゴッツィに微笑みかけた「どうだね、大佐。こんな感じでいいかね」
「上出来ですよ、将軍。知事との面会でも同じ調子でお願いします。いいですね」
「分かったよ、大佐」上院議員は微笑んだ。「ありがとう」
 私は突然気が付いた。オニールではなかった。彼は人形だ。すべての糸を後ろで操っているのはバリゴッツィなのだ。ロッソたちが写真を手に入れたがっていたのは、オニールとロッソ・ファミリーとの関係を明らかにされたかったからではなく、バリゴッツィとの関係を知られたくなかったからなのだ。本当に手に入れたかったのは、彼らとバリゴッツィが写っていた写真、私が伏木に渡して調べてもらった写真の方だったのだ。彼らは今日、目的を達したのだ。
バリゴッツィは自信満々の表情を浮かべて、オニールに話しかけた。「上院議員。そろそろお時間です」
「そうか。そうだったね、バリゴッツィ君」
 そして、オニールは再び政治家特有のひどく魅力的に見える笑顔を浮かべた。「さて、おしゃべりがすぎたようだな。楽しかったよ、クサナギ君。なかなかこうした話はできなくてね。私と彼はそろそろ行かなくちゃあいかん」
 バリゴッツィが口を開いた。「シニョール・モレッティ。後は頼んだよ。上院議員はお忙しくてね。そろそろ出ないと州知事との面会に遅れてしまう」
 モレッティがタプタプとした腹を揺らした。「FBI長官には何とぞお口添えをお願いしたいですな。ドン・ロッソもそれを望んでいます」
 オニールが頷いた。「長官も、ドン・ロッソのご健勝を祈っているとおっしゃっていた」
「ありがとうございます。写真はちゃんと処理しておきますよ。それからこいつもね」そう言いながら、私に視線を投げた。
バリゴッツィはニヤリと笑った。「これで、全部済んだようだ」
「そうだな、大佐」オニールが笑みを浮かべた。
 私はひどい悪寒に襲われていた。この国を動かしている力学は、私のような小さな力で太刀打ちできるものではないのだ。頂上が無い壁が私の目の前に立ちふさがっていた。
 バリゴッツィとオニール議員は立ち上がり、一言も口を開かなかった税務官僚のような男を従え、四人のボディガードとともに部屋を出ていった。
 モレッティは脂の乗ったチキンの手羽にかぶりついて、口の周りをテカらせながら、ニヤニヤと笑った。「ジャンカルロと俺はシチリアの兄弟なんだ。俺は奴を助け、奴は俺を助ける。それがシチリアの流儀だ。ドン・マリオが殺られて、ドン・ジャンニも虫の息だ。ファミリーを継ぐのは俺しかいない。オニールの奴が大統領になりゃ、ロッソ・ファミリーは安泰だ」
 私は震えが止まらなかった。死の恐怖というよりも、手も足も出ないことに対する無力感から来るものだった。
 モレッティが私のその様子を見て、薄笑いを浮かべていた。「どうした、寒いのか。せっかくの食事だ。ご馳走になったらどうだ。食卓では歳を取らないというからな。健康のためには食事は重要だ」
 私はもちろん、食事などが喉を通るような気分ではなかった。
「お前は余計なことに頭を突っ込みすぎたのさ。自分の愚かさを恨むんだな」
 私の後ろに立っていたアントニオが肩甲骨の辺りに銃口を押しつけた。私はぎゅっと目をつぶった。
「まあ、待て。デザートくらいは食わせてやろうじゃないか。四月は甘い眠りの月っていうじゃあねぇか。穏やかに眠る前にはデザートが必要だ」
 アントニオが私から離れていくのが感じられたが、私の震えは治まらなかった。
 やがて、帽子を目深にかぶった給仕が、私たち一人一人の前に三日月を力を入れて折り曲げたような形のフォーチュンクッキーを置いていった。
「幸運とは皮肉だな。お前にもう運なんて残っていないんだからな」モレッティが太い首を振りながら言った。
 私は、目の前の固焼きクッキーを手に取って割り、自分の運を試すように中から小さな紙片を引っ張り出した。
 私は、それを私の目の前に置いた給仕を探した。彼は既に部屋を出ようとしており、後ろ姿しか見えなかった。
 そこにあったのはいつもの気の利いた警句や、ロトくじで番号を決めるのに使う幸運の数字などではなく、ボールペンのようなもので数語の漢字が手書きされていた。
「今すぐその部屋を出ろ」そんな意味の言葉だった。
「お前の幸運も尽きたようだな。見ろ、俺のは、今までやってきたことはすべて許されるだろう、だとさ。神様万歳だ」太った首の肉をタプタプと揺らしながら、モレッティは笑った。
 先ほどの給仕がワゴンを押して戻ってきた。
「店主からのサービスです」そう言いながら、大きなデコレーションケーキを円卓の上に乗せ、部屋から出ていった。
 スポンジの上に白いクリームが塗りたくられてイチゴが周辺に飾られており、中央には赤い文字で「神のご加護を」と書かれていた。
「こいつはすごいぜ。誰か誕生日の奴はいるか。お祝いしてやるぜ」
 彼の野卑な笑いが収まるのを待って、私は目を伏せたまま言った。「トイレに行かせてくれないか。ぼくは甘い物が苦手なんだ」
「いいだろう。アントニオ、ミケーレ、連れてってやれ。最後の望みだそうだ。逃げようとしたら撃っちまっていいぞ。ただし止めは刺すなよ。そいつはデザートの後のお楽しみだ」
 私は銃口を前に、短気なアントニオとミケーレを刺激しないようにゆっくりと立ち上がった。二人のイタリア人が私の脇腹に向けて左右から拳銃を向けており、胃の辺りがキリキリするように痛んだ。部屋を出る時、モレッティが満足そうに大きな身体を揺すりながら笑い、残りのデザートを持ってくるように調理場に向かって大声で喚いているのが聞こえた。
 廊下に出て、奥の方に行ったところに便所のドアがあった。個室に入ろうとする私の腕をアントニオがきつく掴み、つぶれた声で凄みを利かせた。「鍵は閉めるなよ。いいな、下手な真似しやがったら、ドアごと撃ち抜いてやる」
 私は何も言わず、個室に入りドアを閉めた。短気な連中に撃ち殺されないよう、鍵はかけずに手で押さえた。
 個室には、黄ばんだ便器と枯れた花が入った小さな花瓶が棚に置かれているくらいで、役に立ちそうなものは何も無かった。壁に窓はあったが、猫でもなければ窓枠に身体がつかえてしまうような小さな窓だった。しかも、三十センチ先には隣の建物の壁が迫っていて、とても脱出口になりそうもなかった。
 部屋から出てどうしろというのだろう。私がメッセージの意味を考えながら、ここから抜け出す算段をしている時だった。
 巨大な爆発音と振動が店を揺らし、人間のものとは思えないような絶叫が聞こえた。床がグワッと盛り上がり、手で押さえていたドアの蝶番がガクンと外れて倒れ込んできた。アメリカには地震は無いと思われがちだが、サンアンドレアス断層が南北に貫くカリフォルニアは今までに何度も大地震に見舞われてきた。八九年の大地震では二百人以上が死亡して、サンフランシスコにかかったベイブリッジが崩れ落ちた。私はトイレの中が地震の時は一番安全と子供の頃に教わったことを思い出し、ひっくり返りそうになりながら壁に手を付いて身体を支えた。
 大きな音がトイレの外で起こり、壁とドアがグラグラと揺れた。
「な、なんだぁ」
「ひゃあぁ」
「おい、どうしたんだあ」
「てめぇ、何だあ」ドアの外でアントニオとミケーレがヒューヒューと甲高い声をあげた。
 その揺れも一瞬で収まり、何かが崩れ落ちるような音の中でプシュプシュと空気が抜ける音が聞こえ、短い呻き声と何かがバタンバタンと床に落ちる音が聞こえた。
 私は倒れ込んできたドアを支えながら、息を潜めて何が起きたのかを考えていた。
「いつまで隠れているんだ。さっさと出てきたらどうだ」ドアの外から微かに笑いを含んだ声が聞こえてきた。
 私は観念して、壊れたドアの隙間から顔を覗かせた。
 そこには、消音器を付けた拳銃を握っているバート・キングが立っていた。薄手の黒いコートを着ていて、相変わらず真っ黒なサングラスをかけており、全身黒づくめだった。消音器の先からは紫がかった煙がうっすらと上っていた。
 彼の足下には、銃を握ったままのアントニオとミケーレが倒れていて、身体の下で血だまりがゆっくりと広がっていた。
「さて退散するとしよう」
 バートは手袋を付けたまま焼けた消音器を銀色のシートでつまんで外し、そのままシートを巻き付けてコートのポケットに落とし込んで、反対側のポケットには自動拳銃を突っ込んだ。
「どうして君が・・」
 私の問いかけに、バートは応えなかった。
 バートの後を追って倒れている二人を跨いで、先ほどまでいた部屋を覗き込んだ。テーブルの上で爆発が起きたようで、円卓が中心部から木片を周囲に撒き散らし、部屋の中央には一切の物が無くなっていて、あらゆるものが周辺に叩きつけられていた。テーブルに置かれていた料理の残りは部屋中に撒き散らされ、辺りにデコレーションケーキのスポンジやクリームが飛び散って甘い匂いが漂っていた。円卓の周りに座って凄んでいたイタリア人たちは爆発の衝撃で赤黒い肉塊になって、料理と混じって部屋中にばらまかれていた。天井にこびりついていた塊から血が滴り落ち、トロッとした薄茶色の豆腐のようなものが壊れた円卓に降ってきた。髪の毛がついていたので、それが脳漿だということに気付き、私は吐き気を催して口元を手で押さえた。
「こんなところで戻さないでくれよ。料理人に失礼だ」バートはクックッと鳩のように喉を鳴らした。笑っているのだ。「さて、長居している時間は無い。行くぞ」
 バートは壁が崩れて塞った階段を、障害物を跨いで降りていった。
 私も彼を追って柱や壁を崩さないように狭い階段を降りた。一階に降りると二人のイタリア人が床に倒れていて、赤黒い液体が床に広がっていた。厨房の奥から料理人たちが怖々と顔を覗かせていた。
 大したものだ。あれだけの爆発を起こしながら、どうやら一階にはほとんど被害は無かったようだった。爆発は通常、下から上へ、そして横方向に向かう。うまく調整すれば一階を巻き込まずに二階だけを噴き飛ばすことも可能なのだ。
 バートは店の扉を開けて店内を覗き込んでいる中国人やカメラを下げた観光客などの野次馬を掻き分けて外に出た。私も後を追った。
 バートは早足に店から離れていった。やがて、消防車のサイレンが聞こえてきた。後からは誰も追いかけては来なかった。
 私は烏のように黒づくめのバートを追いかけながら声をかけた。「待てよ。いつから尾けてた」
 私の問いには直接答えなかった。
「あんたは偏食すぎる。不味くても、出された機内食はきちんと食べないとな」振り返りもせずにバートは言った。
「ニューヨークからずっと尾けていたのか・・・」
 私は言葉を失った。全く気が付かなかった。「なぜ、ぼくを助けたんだ。君はジョニーのボディガードだった。ぼくには義理は無いはずだ」
 急に立ち止まり、バートは振り返った。「ああ、そのことか。あんたはマイルス・デイヴィスがお気に入りだと言ったろ。マイルスは俺の師匠だったんだ。師匠のファンを見殺しにはできない」
「それだけか」
「それだけさ」
「君には二度も助けられた」
「三度目は無い。礼には及ばん」バートは大きな肩を揺すった。「さて、これで俺の仕事はお終いだ。後は勝手にやってくれ。いいかね、これは忠告だが、今日はリトルイタリーでミートボールを食おうなんて考えないことだ。奴らの仲間はまだ残っているかも知れないからな」
 私は、真っ赤な肉塊となったイタリア人の姿を思い出して、再び吐き気を催した。それでも負け惜しみを言わないと気が済まなかった。「あんたこそ、チャイナタウンで飲茶をしようなんて思わない方がいい」
「俺は中華料理は嫌いだ。こんな仕事はもう願い下げだ」
 バートは坂道に停めてあった、彼の身体に似合わない赤くて小さな日本車のドアに鍵を差込み、私を振り向くと苦々しげに言った。「手違いだったんだ。空港でレンタカー屋がこんな車を出して来た。どうして日本人はこんなに狭苦しい車に乗っているんだ」
 中でチークダンスが踊れるほど広大なリンカーンに乗り慣れている彼にしてみれば、そのコンパクトカーは拘束衣みたいなものだったのかも知れない。
「君がでかすぎるんだ。そんな小さな車を選ぶ方が悪い。車のせいじゃあない」
 私がそう言うと、バートは再び鳩のようにクックックと喉を鳴らした。頭を屈めながら窮屈そうに車に乗り込むと、ドアをバタンと閉め、窓から顔を出した。サングラスの奥で義眼がキラリと光った。
「あんたも早いところ、サンフランシスコから出るんだな。さっきの爆発であんたは死んだことになってる。さっさと自分の国に帰ることだ。第一、ひどい雨になりそうだ」
 見上げると、あんなに晴れ渡っていた空はすっかり曇っていて、ポツリポツリと水滴が落ちてきていた。サンフランシスコ名物の霧のせいだったのかも知れなかった。
 私はため息をつき、さよならと言った。「助けてくれてありがとう」
 バートはフンと鼻で笑い、エンジンをかけると、左手でサングラスを外した。義眼でない方の右目でウインクしたように見えたのは思い過ごしかも知れなかった。
 真っ赤な日本車はタイヤを軋ませて白煙を上げながら坂道を上っていき、やがて私の視界から消えた。取り残された私は辺りを見回し、ぶるっと震えた。太平洋から流されてきた冷たく湿った霧がチャイナタウンを覆い始めていた。
 消防車のサイレンが近づいてきた。何人もの野次馬が私の横を駆け抜けていった。
 バートがいなければ、死んでいてもおかしくない状況だった。オニールは「最後に笑う者が一番よく笑う」と言っていたが、私は笑う気にもなれなかった。なるほど、確かに人生はどっちに転ぶか分からなかった。
 冷たく湿った霧が身体にまとわりつき、私はもう一度小さく身震いをした。



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■最後のさよなら■ 第27回


*********************************************************************************************** 2000年 カリフォルニア

<25>


 

 JFケネディ空港から五時間半、狭苦しいエコノミー席に押し込められ、不味い機内食に辟易して、ようやく到着したサンフランシスコ空港は同じ国にいるのが信じられないほど晴れ渡っていた。
 その日はスーパーチューズデイだった。四年に一度の大統領選挙がある年、十一月の第一火曜日の本選挙よりもずっと前に、アメリカの未来を決める重要な選挙が行われる。それが共和党と民主党がそれぞれ大統領候補を選出するために行う予備選だ。三月の第一火曜日は、多くの州で予備選が行われるためスーパーチューズデイと呼ばれていた。このときの得票が、党から候補者としての指名を受けられるかどうかを大きく左右するのだ。
 もっとも私のようにこの国の選挙権も無く、共和党や民主党の党員ですらない人間にとっては、選挙といっても舞台の袖から見ている芝居のようなものでしかなかった。喜劇であるか悲劇であるかは分からなかったけれど。
 私が西海岸にやってきたちょうど同じ日、ライアン・オニール上院議員も遊説のためサンフランシスコを訪問していた。カリフォルニア州の予備選は次の火曜日だったが、オニール議員はその前にカリフォルニアに来ることを選んだ。まさか、東海岸の憂鬱な天気に飽き飽きしたというわけではあるまい。カリフォルニア州はこの国の人口の一割が集まり、予備選だけでなく本選挙でも重要な戦場になる。しかも、共和党ではカリフォルニア州のレナード・スタイン知事も出馬していて、オニール議員と党候補の指名を争っていた。カリフォルニア州では穏健派のスタイン知事の支持率が高く、下馬評ではオニール議員は不利との見方が強かった。しかし、先日のニューヨークでの狙撃事件以来、オニール人気は急上昇しており、共和党の予備選は予断を許さなくなってきた。オニール議員は最終決戦に向けて、敵地に乗り込んできたというわけだ。
 私は空港のロータリーでシャトルに乗ってレンタカーステーションに向かい、小型のフォード車を借り出した。カウンターで無料の地図をもらい、係の男性に他に何が必要かと聞いた。
「トウキョウからですか?」
 彼はすぐに私が日本人だと分かったようだった。
「日本人だけれど、ニューヨークから来たんだ」と、私は言った。
「まず、サングラスを買うんですね。それから春物の服だ」彼は私の北極からでもやってきたような格好をちらりと見た。
「ニューヨークは雪だったよ。ひどい降りだった」
「それはそれは」男はカウンターの内側から車の鍵を取り出し、脇にあった新聞を引き寄せて、天気予報に目をやった。「ここで過ごすつもりなら、雨具もあった方がいい。午後から雨になる」
「こんなにいい天気なのに?」
「天気は関係ないです。降る時は降ります。今は雨期だからね」
「新聞にはなんて書いてあるんだい」
「一日中晴れだそうです」と、彼は言った。
 外はとても雨など降りそうもない、良い天気だった。空気はひんやりとしていて空は冴え渡り、サンフランシスコ湾から吹いてくる風が耳たぶをくすぐった。何をしに来たのかを忘れてしまいそうな天気だった。西に行けば何かがある。不毛の中西部を越え、ロッキー山脈で寒さに震えた開拓民なら、誰もがそう思ったに違いない素晴らしい天気だった。
 私は小さな鞄と冬物のコートを助手席に放ると車に乗り込み、空港前を走る高速道路を南に下った。三十分ほど走り続けると大学の標識が見えてきた。この辺りは、かつてヒューレットとパッカードという自動車みたいな名字の青年たちが大学から援助を受けて会社を興して成功を収め、同じスティーブという名前を持った二人の青年が自宅のガレージで手作りしたコンピューターにリンゴのマークを付けたことで知られていた。そして街は大きくなり、人々はここをシリコンの谷と呼ぶようになった。古き良き時代の神話だった。
 王老人にもらったメモにあった住所からは、地図でどの辺りなのか見当がつかなかったので、私は高速道路から降りると大通りを大学の方に向かって走っていった。
 この辺りは町の中心部だったが、大通りとは言っても、ニューヨークのように自動車がタイヤを鳴らして走り抜けられる道ではなかった。マンハッタンの街路に毛が生えた程度の細い通りが真っ直ぐ続いていて五十メートルおきに信号があり、両脇には邸宅と呼んだ方がよさそうな巨大な家が建ち並んでいた。大学教授や企業の経営者のような成功者と呼ばれる人間が住んでいる屋敷だった。
 しばらく走り続けると、住宅街は途切れ、軒先にパーゴラを設けた洒落た名前のレストランや奇抜な洋服を着たマネキンが並ぶショーウインドウの商店などが建ち並ぶようになった。あちこちにBMWやらメルセデスやら、最新自動車の見本市のように高級車が無造作に停められていた。
 私は地図を横目で見ながら、いつまで経っても教わった住所の表示が出てこないことを訝しく思い、道沿いのコーヒーショップの前に車を停めた。
 店に入ると、穴の開いたジーンズに大学の名前が書いてあるTシャツを着た学生風の青年が、パリッとしたスーツを着こなしている一回りは年上の銀行員風の中年男に大声でまくしたてていた。
「いいかい、このビジネスモデルを成功させるにはあと百万ドルは必要なんだ。あんたのところで資金を用意できないなら、話し合いはお終いだ。昨日来たベンチャーキャピタルに話を持っていくよ」
「ちょっと待ってくれ。投資しないと言っているわけじゃあない。私が抱えている投資家が君のビジネスプランは本当に実現可能かどうか問い合わせてきたんだ」
 ヒッピー風の青年は天が落ちてくるのを受け止めようとでもするように大袈裟に両手を広げて嘆いた。「おいおい、インターネットは今まさにビッグバンみたいに爆発しているんだ。なんたって時間が大切なんだ。あんたが今ぼくに投資すれば、三年後には十倍、いや百倍になって戻ってくるんだぜ。ぼくの話が信用できないなら、この話はご破算だ」
 青年が話を打ち切って立ち去ろうとするのを、銀行員風の男が追いすがって必死になだめすかした。
 私は彼らの横をすり抜け、カウンターで手持ち無沙汰そうに片肘をついて欠伸をしている、人の良さそうな店主に声をかけた。「彼らは何の話をしてるんだね」
「トウモロコシでさあ」
「トウモロコシ?」
 私が注文したシアトル風のコーヒーを作りながら、店主は面白くもなさそうに説明してくれた。「インターネットでトウモロコシの先物取引市場を作ろうってんですよ」
「儲かりそうなのかい」
 彼は小振りのカップに泡がいっぱい乗ったコーヒーを私の前に置いて、肩をすくめた。「みんながみんな、毎朝毎晩トウモロコシを食べるようになりゃ、そりゃ儲かりますって」
「なるほど」私は感心して頷いた。「それでポップコーン屋でも始めようっていうんだね」
「あんたも騙されないようにするこった」と、店主は言った。
 誰もが金儲けのことを考えている街だった。ニューヨークでは株式というシステムで他人から金を巻き上げるのが流行っていたが、この街ではビジネスモデルという夢物語が金を生む道具だった。私には家の庭先で金鉱が見つかったという話の方がまだ真実味があるように思えてきた。
「おいしかったよ、ありがとう」コーヒーを飲み終えると、私は礼を言った。「ちょっと教えてもらいたいんだが」
 私は王老人から教わった住所のメモを店主に見せた。途端に眉をひそめて、メモと私の顔を見比べた。
「あんた、ここに行きたいのかね」
 私はそうだと頷いた。
「悪いことは言わねぇ。よした方がいい」
「魔物でも住んでいるのかい」
「似たようなもんだ。まあ、追い剥ぎくらいなもんだがね」
「最近、ぼくはついていないんだ。これ以上悪くはならないだろう」
「ついてない時は、雨の代わりに空から槍が降って来るもんだ」
 彼は嘆かわしいというように首を振りながら、地図を指し示して行き方を教えてくれた。
「まあ、追い剥ぎで済めばめっけもんだ」と、店主は言った。


 私はどうやら反対の方角に来てしまったようだった。コーヒーショップの親父に教わった通り、さっき来た道を反対方向に戻って高速道路を跨ぐ陸橋を越えると世界が変わった。文字通り違う世界に来たようだった。窓という窓には鉄格子がはまっていて、崩れかけた壁は補修されておらず、場所さえあれば卑猥な言葉の落書きが書き殴られていた。
 私は息を呑んだ。今時はマンハッタンのハーレムでさえ、これほど荒れ果ててはいない。私は資本主義の光と陰を見たような気がした。高速道路を挟んで右と左では天国と地獄だった。ファーストフードの紙袋や飲み残しのカップがあちこちに転がっていて、新聞紙が道路で風に舞っており、この辺りでは当たり前のように道路沿いにあるはずのスーパーやショッピングモールは見かけることがなかった。道端で黒人の女性が所在なげに座り込み、やせこけた赤ん坊に母乳を与えていた。汚れたTシャツにダブダブのジーンズを履いたヒスパニック系の男性がベースボールのバットをずるずると引きずりながら歩いていた。そのバットではボールなど一度も打ったことはないに違いない。車のエアコンの吹き出し口からはアンモニア臭の混じった何とも言えない臭いが入り込んできて車内に充満した。コーヒーショップの店主が奇妙な表情を浮かべたのも道理だ。
 探していた店はすぐに見つかった。車をそのまま走らせ、行き止まりを右に曲がったところに、小さな家に挟まれて飲食店と雑貨屋が隣り合って並んでいたのだ。
 店の前の道路はほとんど車が通らなかったにもかかわらず、駐車禁止区間になっていて、一台も車は停まっていなかった。私はそのブロックを一周して、やっと駐車場を見つけてレンタカーを停めた。三台隣には後部座席に荷物を山のように詰め込んだ古い車が停まっていた。古い映画の中でしか見たことのないような大きなシボレーで、よく見ると運転席で誰かが眠っていた。どうやらそこで生活しているらしかった。その向こう側には比較的新しいコルベットが停まっていたが、すべてのタイヤとワイパーが持っていかれており、埃で塗装したように真っ白になっていた。
 私は着替えの入った鞄を後ろのトランクに入れ、鍵がかかっていることを三度確認した。車の前にあったパーキングメーターにコインを入れようとしたが、大きなネギ坊主の形をしたメーターのガラスは割れ、駐車時間を示す針が曲がっていて役に立たなかった。
 私が探していた店は想像したよりもずっとまともできれいな店だった。看板の文字がはげ落ち、入り口のドアにかかった「開店」と書かれた札は汚れていて、割れたガラスのあちこちをガムテープで補修していたが、少なくとも雑貨屋であることはすぐ分かった。
 私はドアを開けて中に入っていった。中には棚が二列あって、日々の食品からプラスチック製の食器、頭痛薬から生理用品まで、ありとあらゆる日用品が整然と並べられていた。あまりにも整然すぎて、動かしてはいけないような錯覚を感じさせた。ずっと昔からそのままになっていたような店で、百万年後に発掘されても同じように整然としているに違いなかった。観光客では探し物を見つけられそうもなかったが、たまにやってくる地元の人たちはどっちの棚のどこに必要な品物があるかを見つけられる、そんな店だった。
 店の一番奥には古ぼけたカウンターがあって、その向こう側ではくすんだ色のセーターを着た老人が背の高い椅子に座って新聞を読みふけっていた。彼は私が入ってきたことに気が付くと顔を上げて、「你好」と言った。年齢的には王老人と同じくらいのようだったが、六十歳にも八十歳にも見えた。
「探し物かね」老人は座ったまま私に英語で声をかけた。しっかりとした張りがある声だった。
「楊建新さんですね。ニューヨークから来ました。王大人に紹介された草薙といいます」
 老人は口を開けて私のことをじっと見つめた。やがて、首を振りながら言った。「わざわざ来られたのか。ご苦労なことでしたな。王宋雲からはあなたのことはよく伺っている。大火の際にはずいぶん尽力いただいたようですな」
「大したことはしていません」
「あなたは私たち同胞を救ってくれた朋友じゃ」
「そこまで言っていただくと心苦しいです」
「なんの」老人は両手を叩き、奥の厨房に向かって声をかけた。「シャオウェン、おいで。客人にお茶を持ってきておくれ」
 しばらくすると、店の奥から、調理用の白衣を着て、帽子を目深にかぶった青年が茶碗を乗せた盆を片手で持って出てきた。片手だったのは、彼は右手に包帯を巻いて腕を三角巾で吊っていたからだった。怪我をしているのか、顔半分を隠してしまうほど大きな絆創膏を貼っていて、頭にも包帯を巻き、その上から調理用の帽子をかぶっていた。歳は私と同じくらいだったが、英語がよくしゃべれない様子で、言葉を探しながらやっと「你好、私の名前は楊暁文と言います。よくいらっしゃいました」と話し、テーブルに左手で抱えていた盆を置いて茶を出した。
「香港から来たばかりでしてな。訳があって私が面倒を見ています。隣の店で料理の修業をしておるのです。英語はとんと話せません」
 彼は突っ立ったまま、じっと私のことを見つめていた。
「その腕は?」と、私は訊いた。
「これは少し頭が弱いのです。この辺りは弱い者が自分より弱い者に悪さをするのです。つい先だっても、近所の不良どもに因縁をつけられて大怪我をしました」
「そうだったのですか。お大事に」
 私がそう言うと、青年はにっこりと微笑んだ。
「この方はニューヨークの中華街を助けてくれたんだよ」と、老人は言った。
 暁文は「謝謝、謝謝」と何度も丁寧にお辞儀をして奥に入っていった。
 私は礼を言って、暁文が持ってきた烏龍茶を飲んだ。驚くほど香りが良い茶だった。
 暁文が出ていくのを見届け、私は老人の老いた顔を見つめた。「単刀直入に伺います。あなたはジョニー・リーの父親とある仕事をしていましたね」
「知りたいというのは、やはりそのことでしたか。紙里包不住火」老人は独り言のように言った。「紙で火は包めない。秘密にしておくのは難しいものだ」
 私はジャケットの内ポケットに手を入れ、伏木が送り返してきた封筒から写真を取り出して老人に見せた。「彼らをご存じですね」
「もちろん」老人は頷いた。「彼らがわしらのビジネスと大きく関わっておりましたからな」
「話していただけますか」私は訊いた。
 老人は私はその話を持ち出すのを分かっていたというように、静かに話し出した。「わしと李大榮は欧州と上海、米国とを結んで貿易をしておったのです。あなたが想像される通り、真っ当な商品ではありませんでな。南アジアから大麻をアムステルダムやマルセイユに運んで、コカインやらヘロインをアメリカに運んでおりました。一度ルートが出来てしまうと、わしらが何もせんでもドルが稼げるようになりましてな、大層儲かりましたよ」
「その頃、オニールと知り合ったのですか?」
 楊老人は記憶の底を掘り起こすような表情で語った。「あの頃ソ連の経済が破綻して、冷戦が終決したのは覚えているでしょうな。NATOは今まで敵だった東ヨーロッパの国々を自分たちの陣営に引き込むことに懸命で、わしらのような者が地下経済で商売していくことを止めさせるまでは手が回らんかったし、目をつぶらざるを得んかった。わしらはユーゴスラビアやらロシアやらにまで商売の手を広げていましてな」
「経済が崩壊していても、ビジネスができたんですね」
「崩壊しているからこそ、成り立つビジネスもあるのです。地下経済というのは、そうしたものです。まあ、平たく言えば闇市場ですな。それだけに、敵も多かった。時にはイタリアの連中ともやり合ったものです。そんな時、NATOの情報部におったオニールが話を持ちかけてきたのです」
「彼はブリュッセルにいたのですね」
 老人は頷いた。「アメリカは最初のうち、ボスニアにはまるで関心は無かった。ヨーロッパの田舎で起きた内輪げんかみたいな戦争でしたからな。ご存じだと思うが、NATO軍といっても一つの軍隊ではない、実体はいろいろな国の軍隊の混成部隊です。戦争の時なら結束もしようが、ボスニアは戦争じゃありませんでした。それでもヨーロッパの各国としては、紛争地域が広がらんように押さえ込む必要はあったのです。そんな時に、あの男はNATO軍のダブついていた軍需物資の一部を横流しして、わしらのルートに乗せて売りさばくことを考えたのです。わしらはしばらくの間は友好的にビジネスを続けておりましたよ。しかし、状況が変わりましてな。ワシントンがボスニア内戦に口を挟むようになってきて、わしらとしてもユーゴで商売をするかどうかを考え直さなければならなくなってきた。あの男はもっと手広く商売をしたかったのでしょうな。わしらとは手を切って、イタリア人どもと組んだのです」
「あなた方はビジネスから手を引いたのですか?」
 老人はズズズッと音を立てて、茶を飲んだ。「英国から香港が中国に返還される時期が近づいておりましたからな。わしらは中国とビジネスを進めた方がよいと判断したのです。ヨーロッパの市場は商売敵が多すぎましたからな」
「ジョニーがブリュッセルに行ったのは、その頃なんですか?」
「オニールがわしらと手を切って、シチリアのヤクザどもに鞍替えするかどうかという時でしたよ。祥榮はジャーナリストになるのが希望でした。なんとかいう賞を取りたいと話しておりましたよ。深入りをするなとはいいましたが、あれはもっといろいろなことを知りたがっておった」老人は静かに言い、悲しそうに首を振った。「あの子には可愛そうなことをした。あの子は良かれと思って、サラエボに出かけたんですよ。わしはあれがサラエボに行くことになるなど、露とも知らなんだ」
 老人はゆっくりと腰を浮かして立ち上がり、壁に掛かっていたセピア色に褪色した写真が入った額を持ってきて、埃を払うと私に差し出した。それはどこかのスタジオで撮影したと思われる写真で、披露宴の記念写真のように、スタジオの中で中国人の一族が整然と並んでにこやかに微笑んでいた。まだ若く夢と野心を持っていたジョニーと彼の家族と思われる人々も写っていた。王宋雲や王梅鈴、今私の目の前にいる楊建新の姿も見つけることができた。皆若く、幸せそうな表情でこちらを見つめていた。昔の思い出というのは、いつだって希望に満ちているものだ。
「まだ、あの子が学生だった一番幸せな頃の写真ですよ。しかし、幸せなど長くは続かんものだ。あの子が大怪我をしてニューヨークに戻ってくる直前に、あれの父親の李大榮と彼の妻、友人の王金宋夫妻が乗っていた自動車が事故に遭ったのです」
「ジョニーがサラエボにいた時ですね。彼には連絡を取らなかったんですか」
 老人は首を振った。「もちろん取ろうとしましたよ。だが、連絡など取れませんでした。あの子が帰ってきたときには、もう埋葬も済んだ後でした」
 分かっていたではないか。あの時、サラエボから外の世界に連絡を取るのが極めて難しかったのと同じように、サラエボにいる誰かに連絡をすることなど、月の裏側にいるアポロ十三号と連絡を取ろうとするのと同じくらい不可能に近いことだった。 失意のジョニーがマンハッタンに帰ってきた時には、両親は死んでしまっていた。結婚を約束していた梅鈴も同じ時に両親を亡くしていたのだ。
「本当に事故だったのですか」
「分かりません。事故のように見せかけることなど簡単なことですからな。そうしたことを生業としているものは何人もいます」楊老人は首を振った。「しかし、事故ではないでしょう。わしらは命令を下したのはマリオ・ロッソだったと信じております。それからすぐに、マリオはいなくなりました。わしらの報復を畏れてシチリアに逃げていたのです。あの頃、わしらとイタリア人たちはひどく争っていましたからな。祥榮はそんな日常を嫌っておりました。それで李大榮が反対したにもかかわらず、自分で生活を始め、写真の学校に入学したのです」
ジョニーは父親とはうまく行っていないと言っていた。その反目しあっていた父親を失った時の気持ちはどんなだったのだろう。
「大怪我をして帰ってきた祥榮は父親の跡を継がざるを得なくなりました。誰もがそう望んだのです。ほかに跡を継げる者はおりませんでした。けれどもあれの許嫁は反対しておりました」
「王梅鈴ですね。なぜ、彼女は反対したのですか」
「梅鈴は争いに倦んでおった。両親を亡くし、これ以上、無益な争いを続けることを望まなかったのです。わしも同じように祥榮が大榮の跡を継ぐのは反対じゃった。じゃが李一族をまとめられる人間は祥榮しかおらんかったのです」
老人は茶をすすると、ため息をついた。「梅鈴も可哀想な娘です。両親を亡くしてしばらく経ち、祥榮と祝言をあげ、新しい暮らしを始めたばかりなのに、祝福されて生まれるべき子供は流産してしまい、祥榮は狂ったようになって、梅鈴を追い出してしまったのです」
「そうだったのですか・・・」
 サラエボから戻ってきてからのジョニーはどのような想いで生きてきたのだろうか。サラエボで別れてから再び彼と出会うまで六年あった。地球は太陽の周りを六回廻り、満月と新月が七十二回あった。六年あれば二つほど国を滅ぼすこともできる。文無しから世界の王にのしあがり、再びスラム街に戻ってくることもできる。三度結婚して、二度離婚し、財力と体力さえあれば五人ほど子供をこさえることもできる。六年というのはそれくらいの年月だった。私はジョニーのことなど、結局何も知らなかったのだ。
「祥榮が仕事にのめり込んでいったのはそれからです。まるで人が変わったようでした。仲間以外は誰も信用せず、美国政府も信用しませんでした。わしはあの子を助けられなかったのです」
「あなたはなぜジョニーの元を去ったのですか」私は訊いた。
「いろいろなことへの罪滅ぼしのためとでも言っておきましょうか。わしは朋友の大榮を救えなかった。梅鈴も祥榮もわしを必要とはせなんだ。いつもあの子たちを助けようとしてきましたが、あの子たちにはわしは必要なかったのです」
「なぜこの町に?」
「あちこち彷徨いましてな、結局ここに流れ着きました。この貧民窟は世界の縮図なんです。お分かりかな。隣町の住民は一食で百ドルのディナーを注文し、一本三百ドルもするようなワインを何本も頼んでいる。ここの住人にとってはそれだけあれば一月分の家族の食費です。けれども隣町の連中はこの町を助けることは決してない。なぜだか分かりますかな?」
「いいえ」私は首を振った。
「連中にしてみれば、ここの連中は怠け者にしか見えんのですよ。教育を受ける自由も、職業の自由もある。ここは自由の国だ。なぜ働かないのかと・・・。そう言われても、ここのように教育が低い人間の就ける仕事などたかが知れています。金が無ければ良い教育は受けられない、教育が無ければ良い仕事には就けない。いつまで経ってもこの繰り返しです。この国は金が無い者にとっては自由など無いに等しいのです。これはこの国の、この世界の縮図そのものだとは思いませんかな」
 老人は私の顔をじっと見つめた。「ここにいる者たちの間には憎悪と哀しみが満ちておるのです。やり場のない怒りを誰かが理解してやらねばならんのです」
 私は何も答えることができなかった。確かにその通りかも知れなかった。この国を支配するのはごくわずかの人間に過ぎなかった。そして、この世界を支配しているのもこの国を含めたごくわずかの人間なのだった。大半の人間は少数のものに支配されることを受け入れ、さらにその下にはそれら大半の人間からさえ抑圧される人々がいるのだった。この町に住む人々のように。
 老人は私の手から額を取り戻すと、大切そうにガラスの上から写真を指でなぞった。
「さて、わしが話せることはここまでじゃ。後はあなた自身が探すこと。わざわざ東海岸から来ていただいたが、これ以上お話しできることはない」老人はきっぱり言い切った。

 店を出ると、雨が降っていた。暗い雲が低く垂れ込め、冷たい雨が道を濡らしていた。私は空を仰いで、雨を顔で受けた。私も泣き出したい気分だった。
 サラエボに行くまで、ジョニーは何をすべきかを迷い、内戦を止めたいと考えていた。彼は純粋すぎたのかも知れなかった。虐げられた人たちを救おうという彼の行いが結果として悲劇を生んだのかも知れなかった。あの爆発が彼の人生を大きく変えてしまった。身体に傷を負い、心を病んで帰国した時、彼を癒すべき家族は奪われていた。彼は死んだ父親の真っ当でない商売を引き継ぎ、次第に心が闇に蝕まれていったのだろう。真実は時としてひどく残酷だった。
 ニューヨークへ帰ろう、私はそう思っていた。その時、雨が激しい降りになった。身体を芯から凍らせる冷たい雨だった。
 突然、胸の上辺りに何かがつかえたような嫌な予感がよぎった。残念ながら、こうした予感はたいてい当たるものだ。
 駐車場に戻って、私は呆然とした。レンタカーの窓ガラスが割られ、ドアが開いていた。トランクが跳ね上がっていて、中に入れておいたバッグは無くなっていた。財布やパスポートなどは手元に持っていたが、着替えの洋服や歯ブラシは持って行かれてしまった。車体の下を見ると、タイヤが四本ともホイールごと外され、無くなっていた。先ほどまで停まっていたシボレーとコルベットはどこにも見当たらなかった。きっと私のせいで陽当たりが悪くなり、引っ越したのだろう。
 私は肩を落とした。今日は、私の人生で五本の指に入るほどついていない一日だった。私は空一面を覆い、涙のような冷たい雨を降らしている黒い雲を睨んだ。
「どうかしたかい」私の後ろから声がした。
 振り返ると、二人の男が立っていた。二人ともラテン系の顔立ちで、一人は顎髭を生やしていて、もう一人は髪を赤く染めており、二人とも傘を差さずに上着のポケットに手を突っ込んでいた。
「見ての通りさ」私は腰に手を当てて、走らなくなった車に顎をしゃくった。
「なるほど。そいつは災難だ」と、顎髭の男が言った。「ところで、あんたはシニョール・クサナギだね」
 私が身構えようとする前に、二人のポケットから同じタイミングで拳銃が出てきた。私は観念して両手を上げ、行きがけに寄ったコーヒーショップの店主の言葉を思い出していた。空から槍は降ってこなかったが、もっと悪かった。
 どうやら今日は、私の人生の中で最悪の一日のようだった。





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■最後のさよなら■ 第26回

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<24>


 この夜、チャイナタウンでは二十棟の建物が全半焼し、十五人が焼死し、三十人が火傷を負った。その数には私が救い出した密入国をしてきた家族や、有毒ガスを吸って死亡した少年も含まれていた。少年は姉の少女と密入国する危険を冒してまでこの国にやってきて、火事に巻き込まれて死んだ。この国に来なければ、失われることはなかったかもしれない命だった。
 生き延びた不法入国者たちはニューヨーク市警から移民帰化局の職員に引き渡され、代わりに王梅鈴と黄賢が事情聴取の名目で市警に拘束された。
 警察と消防の両方から事情聴取を受け、私が警察署を出た時には朝日が上り始めていた。放火した犯人はすぐに捕まった。放火現場のすぐ周りをうろついているところを、パトロール中の警官に職務質問され、ライターやガソリン入りの瓶を持っていたために、そのまま警察署に連行されたのだ。男は南米からやってきた移民で、チャイナタウンの料理店をクビになり、店主に罵倒されたことを恨んで火を放ったと自供した。それは真実ではなかったのかも知れなかった。だが、市警は事件が簡単に幕を引けることを喜び、男の話が細部はともかく辻褄が合わない話ではないことを確認すると、その自供を信じることに決めて、私を解放した。同じ頃、FBIの特別捜査官一名とチンピラ風の若者が聖パトリック大聖堂で至近距離から射殺されているのが見つかって市警はてんやわんやの状態で、私などの相手に捜査員を割いている余裕は無かったのだ。
 私は、ジャケットが煤だらけのままで、ズボンとシャツは真っ黒になり、身体からは焦げ臭い匂いが漂って、髪の毛はチリチリに焼けていた。警察署の前で停めたタクシーの運転手は私の格好を見て乗車拒否をしようとしたが、目の前に警官が何人も立っていることに気が付き、舌打ちをしながら乗せてくれた。運転手はヒスパニック系の移民の男だった。
「チャイナタウンかね」と、男はひどい訛りのある英語で機嫌悪そうに訊いた。「それなら歩いていってくれないか。俺は忙しいんだ」
 私を見て中国人と思ったようだった。
「いや、グリニッチヴィレッジだ。ブリーカー通りまで行ってくれ」
 男は再び舌打ちをした。「燃え尽きちまえばよかったんだ、あんな町なんか」
 私は文句を言う気にもならなかった。
 アパートの前で車を停め、料金メーターのぴったりのドル札とコインを渡すと、男は不審そうな表情になった。
「チップはなしだ」私は言った。「君にやるチップは無い」
 車から私が降りると男はドアの窓を降ろし、私に向けて中指を突き立ててファックユーと罵り、車を急発進させた。
 私は泣き出したい気分だった。
 アパートの郵便受けには手紙が届いていた。分厚い封書で重量があった。差出人はサニャで、昨日の午後の消印が押されていた。心臓が高鳴り、私はその手紙をちょっとの距離の間に失わないように懐にしまい込んだ。
 廊下で寝間着のまま、ぼさぼさ頭で煙草を吸っていた隣人が、汚れた私の格好を見て目を剥き、慌てて部屋に入ってバタンとドアを閉めた。私はため息をつき、自分の部屋に入ると鍵を閉めた。
 冷蔵庫からサミュエル・アダムズを一本取って口を開け、ソファに座って手紙の封を開けた。中から手紙と写真の束が出てきて、印画紙に残った酢酸がプーンと臭った。約束通り、彼女自身が焼き付けてくれたようだった。
 手紙を手に取ると、まだ乾ききっていない印画紙がひんやりと冷たかった。写真はパラフィン紙で包まれて二つの束に分かれていた。一つの包みはインタビューで撮影したオニール議員のポートレイト写真だった。
 もう一つの束は、写真が十枚ほどあり、そこに写っていたのは四人の男が談笑している様子だった。カメラの方を向いて軍服姿のオニールとバリゴッツィがソファに腰掛けていた。カメラに背を向けて二人の男が座っていて後頭部が写っていた。どの写真も写っているのは後ろ姿か横顔程度ではあったが、私はその二人が誰だかすぐに分かった。マリオ・ロッソとファミリー幹部のモレッティだ。
 この写真はマフィア組織とオニール議員との黒い関係を示す上で、どれくらいの役に立つだろうか。まだ軍人の時代にマフィア組織に属する人間と会ったことがあるというだけに過ぎないかも知れない。伏木に渡した写真が唯一、ロッソたちとバリゴッツィを同じ画面に写しこんだものだった。
ロッソたちが写真を手に入れたがったのは、今が選挙の真っ最中だからだ。大統領選ではどんな小さなスキャンダルも命取りになりかねない。ロッソたちがオニール議員を自分たちとの関係を暴露すると脅す材料には少しは役立つかも知れない。
 だが、それでも、こんな写真のためにジョニーとサニャが殺されたのだとしたら、それはあまりにも無意味な死だった。
 私は手紙を手に取り、きれいな筆記体で書かれた文章を読んだ。

「親愛なるケイスケへ

 あなたに頼まれていた写真を現像して送りました。インタビューの写真と、ジョニーが撮影した写真です。
 あなたにはお詫びをしなければならないことがあるの。あなたを騙していました。
 あたしとジョニーが付き合っていたことを知って、イタリア人の組織から脅されていました。あなたに言いたかったけれど、しゃべったら何をされるか分からなかったので、怖くて言えなかった。連中はジョニーが撮影した写真を欲しがってました。ネガフィルムは彼らに渡します。でも、その前に現像した写真を送りました。
 彼の部屋にあなたが住んでいることも知っていました。あたしがあなたと知り合いだということは彼らは知らなかった。でも、なんとかあなたと連絡を取って写真を探す時間を作れと言われていたの。ジョニーが死んだと聞かされた時、あたしはどうしていいか分からなかった。ずっと泣いて過ごしていたわ。
 あなたが自分からお店に来た時、とてもびっくりした。でも、本当のことを言うと、とても嬉しかった。なんだか、運命のような気がした。私の友達はサラエボでたくさん死んでしまった。ジョニーも死んでしまった。だから、あなたに会えたのはとても嬉しかった。
 でも、あたしは彼らに写真を渡さなければならなかった。それに、この街で生きていくために、お金も必要だったの。だから、あなたと会った日、私は店を出る前にジャックという男に電話をかけました。あの時、銃を持った男に襲われたのは、あなたが写真を持っていると思ったからだと思う。あなたが撃たれてしまうのではないかと、とても怖かった。
 あの夜、ホントはあなたに抱いてもらいたかった。でも、あたしはあなたを裏切ってしまったから、できなかった。それがとても辛かった。

 ごめんなさい。これでお別れです。あたしはサラエボに帰ります。ジャックはお金をくれると言っています。ジョニーが死んで、あたしをこの街に連れてきた人はいなくなりました。この街で生きていくのは辛すぎます。この街は私の町ではありませんでした。でも、あたしの中には新しい命がいます。サラエボに帰って、この子と一緒に生きていきます。

 ケイスケ、いろいろ親切にありがとう。それから、ごめんなさい。あなたとはもっと早く出会いたかった。できれば、戦争や争いなどが無い世界で会いたかった。ピアノをもっと聴かせてあげられればよかった。
 さようなら
                         サニャ」

 彼女は手紙の中で何度も何度も謝っていた。そんなに謝ることがあるなら、会って謝ればよかったのだ。そうしていれば、殺されることはなかった。私は手紙を握りつぶした。
 彼女は現像した写真を入れた手紙を投函し、ネガフィルムをマフィアの連中に渡しに行き、ボロ切れのように殺されたのだ。彼女はこれですべてを終わりにしようと思っていたに違いなかった。ネガを渡しさえすれば、すべては終わると信じていたのだろう。しかし、そうはならなかった。闇に葬られたのは彼女の方だった。ジョニーの子供を身体に宿したまま、私の前から彼女は消えていなくなった。
 私はシャワーも浴びずにベッドに倒れ込んだ。冷え切ったシーツはモルグでサニャにかけられていた白いシーツと同じで、彼女がこれから身にまとうことになる白装束を思い起こさせた。私は身体を小さく丸めて震えた。このままベッドの中に沈み込み、海の底まで落ちていってしまったら、どれほど楽だったろう。そうすれば、この冷え切った身体も寒くはないだろう。海の底は暗く冷たく、そして静かだ。人の死にも煩わされず、ただ時間の過ぎていくままに身を任せることができるのだ。
 電話が鳴った。また、村井領事か、ルイス警部、あるいは伏木あたりだ。今は出る気にはなれなかった。そのままにしておけば諦めるだろう。そう思って放っておくことにした。しかし、ベルは鳴りやまなかった。私は留守番電話をセットしなかったことを後悔した。
 十回、二十回、三十回・・・。ベルの鳴る回数を数えた。呼び出し音はいったん途切れ、再び鳴り出した。十回、二十回・・・、私は諦めて受話器を取った。留守だと言ってすぐに切ってやろう、そう思った。しかし、耳に飛び込んできたのは予想もしなかった声だった。
「おとーさん」日本にいる息子の航平だった。「もう、やっと出たぁ。待ちくたびれちゃったよぉ」
 私は虚をつかれた。「どうしたんだ。航平、おばあちゃんは?」
「おばあちゃんに電話の仕方を教えてもらったんだよ。いっぱい番号を押さなくちゃいけないから、何度も間違えちゃった」
「自分で電話したのかい?」
「だってぇ、お父さん、全然電話くれないんだもん」
「ごめんよ。忙しかったんだ」
「分かってる。おばあちゃんもそう言ってた。待ってたら、電話かかってくるから、いい子で待ってなさいって。でも、お父さんの声が聞きたかったの」
 息子の声を聞いているうちに、自然と涙があふれ出てきた。まるで、栓抜きで水道の栓を抜いてしまったようだった。シーツの端で拭っても拭っても涙は止まらなかった。白いシーツに黒い染みが広がっていった。シーツはもはや白くはなかった。
「ぼく、寂しかったんだよ。お父さんにたくさん話したいことがあったんだ」航平は言った。
「ごめんな・・・」私はやっとのことでそれだけ口にした。
 小さな命を救うことができなかった瞬間、火の海へ飛び込むことを決意した瞬間、息をしなくなった女の冷ややかな肌に触れた瞬間、銃口を見つめて死を覚悟した瞬間、焼け焦げたまま冷たい墓地に埋められていく友を見つめていた瞬間、あらゆる時間が突然よみがえった。悲哀、恐怖、空虚、喪失、絶望・・・あらゆる負の感情が私の中で破裂した。そして歓喜が底の方から小さな顔を覗かせた。
「航平・・・」私は言葉を続けることができなかった。
 電話のすぐ向こう側にいる息子を今すぐ抱きしめたかった。それはかなわないことと分かっていて、私は受話器を握りしめた。
 息子は楽しそうに、学校であった今日の出来事を話し続けていた。他愛も無いことだった。隣の席の女の子に消しゴムをぶつけたこと、給食のおかずをお代わりしたこと、算数で計算を間違えたこと。そうした他愛も無い言葉の一つ一つが私に生きる力を与えた。
 私にはまだ帰る場所があったのだ。



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■最後のさよなら■ 第25回

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<23>


 今、アパートの部屋に戻ることはさすがに躊躇した。公衆電話からサニャの部屋に電話をかけてみたが留守番電話につながるばかりで、応答は無かった。日が暮れ、気温が下がっていく中、私は部屋に戻ることもできずにコーヒーショップで暖を取り、しばらくしてから電話をかけたが、やはり応答は無かった。
 私は仕方なく伏木のところに電話をかけた。
 受付の女性が出たので、伏木はいるかと訊ねた。保留音が途切れ、伏木は慌てて受話器を掴み、開口一番、大声を出した。「おい、草薙。お前いったいどこにいるんだ」
「ブロードウェイのコーヒーショップだ。それがどうした」
「どうしたってのは何だ。お前、知らないのか」
「何をだ」
「警察から電話があったぞ」
 首筋がざわざわと粟立った。
「彼女が死んだ」伏木が言った。海の底へ沈み込んでいくような暗い声だった。
 私の頭の中が真っ白になった。「彼女って・・・」
 伏木が言おうとしていることが予測でき、私はそのまま電話を切ってしまいたい衝動に駆られた。
「コットンキャンディでピアノを弾いていた彼女だ。お前が連れ出した彼女だよ」
 私は息を吸うのもできないほど、胸が締め付けられた。
「さっきコットンキャンディから電話があった。強盗に襲われて路上で撃たれたそうだ」
「バカな・・・」
 私はリッカルドにかかってきた電話のことを思い返した。写真は回収した、と言っていた。分かっていたではないか。写真のネガフィルムを持っていたのは彼女なのだ。
「誰か身内を知らないか、と訊いてきた。俺は知らないと答えたが、お前、彼女から何か聞かなかったか」
「いや・・・知らない」
 サニャはそうしたことは話さなかった。私が知っているのは、サラエボからニューヨークにやってきた今の彼女だけだった。
「彼女は今どこに」私は訊いた。
「市警の第六分署だそうだ。ダウンタウンの方らしい」
「分かってる」
 そう、私は知っていた。私が知っている市警はそこだけだったにもかかわらず。
「分かってるって、おい、草薙・・・」
「これから行ってみる」私は言った。
「俺も行きたいところだが、今ちょっと手が離せないんだ」伏木はすまなそうに言った。「昨日のシティホールの狙撃事件が、大統領選にどんな影響を及ぼすのかって記事をあと小一時間でまとめなくちゃいけないんだ」
「そうか」
「調査会社が行った緊急世論調査で、オニール議員の支持率が急上昇している。狙撃の直後の記者会見でテロに対抗する決意を表明したことで、強さを印象づけたんだな。共和党支持者の間だけでなく、全有権者の間で支持率が上がっている。今まではただのダークホースだったが、この状況を考えると大逆転もあり得るぞ」
「そうか・・・」私はバートの言葉を思い出していた。一番得をしたのはオニールだ。
「なんだ、興味が無いのか」 
「いや・・・」
「無理もないな。知り合いの女性が殺されたんだ」
「いや・・・」
「そういえば、こんな時に何だが、お前から預かってた写真に写ってた人物が誰か分かったぞ」
 私の胸は高鳴った「誰だったんだ」
「右側の軍人は、ジャンカルロ・バリゴッツィ。退役時の階級は陸軍大佐だったそうだ。九二年から九五年までNATO軍にいたそうだ。今は退役してD.C.で政治コンサルタントをしているらしい」
 私は息ができなくなった。オニール議員のインタビューに同席していて初めて会った時には写真の人物とは気が付かなかった。軍服姿からスーツ姿に変わり、髪型から風貌までずいぶん違ってしまっていたため、分からなかったのだ。
「・・・よく調べたね」私はやっとそれだけ言った。
「有能な助手がいてね。彼女が調査会社を通して退役軍人協会に当たってくれた。飛行機代やら彼女へのメシ代やら高くついたぞ」
「すまなかった。後で請求してくれ」
「まあ、それはいい。後の二人は意外な人物だ。興味深いと言った方がいいかもしれないな」
「誰だ?」
「この前、リトルイタリーで殺されたマリオ・ロッソと、もう一人の太っちょはロッソ・ファミリーの幹部のアレッサンドロ・モレッティとかいう男だそうだ。こいつは市警の知り合いが教えてくれた」
 私は声を失った。オニールとロッソ・ファミリーはバリゴッツィを通じてつながっていたのだ。だから写真を手に入れたがった。
「便箋に書いてあったメモの内容はよく分からないが、銃弾とか自動小銃か何かの型番みたいだぞ。武器の取引の走り書きなんじゃあないのか。数字は金額みたいだ。こいつは俺の知り合いの武器オタクに聞いたんだが、アメリカ軍の公式銃器らしい。それと、印が入った便箋はブリュッセルのホテル・バンドームのものだそうだ」
 ジョニーは、NATO軍内で行われていた不正行為の事実を掴んだのだ。オニール議員がどこまで関わっていたのかは分からないが、少なくとも彼の今の右腕であるバリゴッツィが絡んでいるのは確かだ。サラエボからニューヨークに帰り、オニール議員が大統領選に立候補したのを機に、ジョニーはオニールかバリゴッツィにその写真を突きつけたのだろう。それで彼は消された。辻褄は合う。
 私が押し黙ってしまったのを気にして、伏木が訊いた。「どうした。意外な答えだったか?」
「いや・・・ありがとう。本当に助かった」
「それで、連中は一体何をしようとしているんだ。マフィア絡みの武器取引かも知れないぞ。そんなのに関わり合って大丈夫なのか」
 伏木にこれ以上話さない方が良いような気がした。伏木はバリゴッツィがオニール上院議員の選挙参謀であることはまだ知らない。知らない方が良いのだ。連中は私を殺そうとし、サニャの命を奪った。しかも、現職のFBI捜査官が少なくとも一人は取り込まれていた。伏木は気がつかないうちに危険を冒しているのかもしれない。彼にはこの街に家族がいる。これ以上巻き込むのは危険だった。
「ありがとう。真実がちゃんと分かったら、真っ先に話をする。だから、この件はもう忘れてくれ。誰かから、何か訊かれても知らないと言うんだ。すべてはぼくに話して、君はもう何も知らない。調べてくれた助手や調査をしてくれた人物にも伝えてくれ。いいな」
「どうしたんだ、おい。この写真はどうするんだ」
「ぼくのアパート宛てに郵便で送ってくれ。もし郵送するまでに、ぼくに何かあったらシュレッダーをかけて処分するんだ」
「おい、草薙。ちょっと待て。お前、何を掴んだ・・・」
「頼んだぞ」私は伏木の怒鳴り声が聞こえてくる受話器を戻し、電話を切った。
 コーヒーショップの外に出ると、ひどくよそよそしい街が目の前にあった。陽が落ち、摩天楼にまた夜がやってきていた。家路を急ぐ人々が私の横を早足に過ぎ去っていった。ビールの形をしたネオンサインがチカチカと瞬いていた。企業名を示すアルファベットと株価のティッカーが途切れることなく電光掲示板の上を流れていった。株価は天井など存在しないように上がっていた。その隣のビルの電光掲示板では、この国が今抱えている財政赤字が毎秒数十ドルずつ増えていることを示す数字が延々と途切れることなく変わり続けていた。地上のあらゆることを犠牲にして、都合の悪いことからは目を塞ぎ、この国は狂ったように繁栄を貪り続けているのだ。目の前のブロードウェイを、数え切れないほどの黄色いタクシーがクラクションを鳴らしながら一つの方向に流れていき、ムートンのコートを着た婦人警官が笛を吹きながら交通整理を続けていた。防寒服を着て耳当てをした女性が自転車で目の前を走り抜けていった。
 風が吹き始め、赤や青や黄色のネオンが凍ったように止まり、やがて再び瞬き始めた。時間が止まってしまったようだった。多分、私の時間が止まってしまったのだ。
 この街には私の居場所など、どこにも無かった。


 サニャは屍体安置所にいた。台の上に寝かされ、ほかの多くの遺体と同じように眠ったように死んでいた。
「彼女を知ってるかね」
 ルイス警部は私の肩に手を乗せた。彼と初めて会ったのは、やはり同じ屍体安置所だった。今日の彼はひどく優しかった。
 私は頷いた。「サニャ・ストヤノビッチ。正確なことは分からないが、国籍は多分、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国です。家族がいるのかどうかは知らない」
「うむ」ルイス警部が頷いた。
 彼女の顔からはすっかり血の気が引き、唇が濃い紫色に変わっていた。それでも彼女は眠っているようだった。食肉工場の冷蔵庫の中で凍えて青ざめたまま眠ってしまったような感じだった。
 ジョニーの遺体は黒く炭化していて、人の形をほとんど残していなかったが、彼女は違った。目をそっと閉じ、微かに息が漏れてくるくらいの隙間を開けて唇を閉ざしていた。その表情は笑っているようにも、悲しんでいるようにも、怒っているようにも見えた。おそらく、なぜ死んだのか分からず戸惑っているのだろう。
 彼女は服を脱がされ、裸の上から白いシーツがかけられていて、鎖骨から上が覗いていた。私はシーツをそっとはぎ取った。彼女はもう誰に裸を見られても恥ずかしがる必要がないのだ。
 形の良い乳房から小さな乳首がツンと突き出ていた。左の乳首の少し内側に小指の先ほどの暗くて深い穴が開いていて、周辺に赤黒い血がこびりついていた。
「これから監察医が検視を行う」と、ルイス警部が言った。
 私は頷いた。
 へその周りの産毛がキラキラと照明に反射していた。手をそっと彼女の胸に触れてみると、アラスカの氷河のように冷え切っていた。私は彼女の茶褐色の恥毛の上辺りに手を乗せた。ルイス警部は困ったような表情をしていたが、何も言わなかった。
「ここにジョニーの子供がいたんです」私は言った。「彼女は子供を欲しがっていた」
「そうか」と、ルイス警部が言った。
 手をどけてシーツをかけると、彼女は再び静かに眠りに就いた。
 涙は出なかった。私の心は凍り付いてしまっていた。いつだって一番泣きたい時に涙は出てこないものだ。
 白衣を着た年老いた監察医がゴムの手袋をはめながらモルグの奥から現れた。
「行こうか」ルイス警部は私の肩を叩いた。
 私は頷いた。


 階段を上がってドアを開けると、またいつもの警察署の喧噪が戻ってきた。スリや売春婦がカウンターの前に列を作っており、もっと重大な犯罪者は両手に手錠がかけられていた。
 私は前に来た時と同じソファに座らさせられた。
「彼女を殺した犯人の見当はつくかね」ルイス警部が訊いた。
 私は首を振った。ロッソ・ファミリーの可能性が高かった。もし、そうなら私は自分の手で始末をつけたかった。
「財布が盗まれていた。彼女が悲鳴を上げ、男が走り去るのが目撃されている。物盗りの犯行かも知れん。さっき現場検証が終わったところだ」
 どこまで話すべきか分からず、私は躊躇した。私はジャンニ・ロッソに会い、彼らの手の中から逃げ出した。リッカルドは携帯電話を受けて「写真は必要なくなった」と言った。ロッソの仕業なら彼らはなぜ彼女が写真を持っていることを知っていたのか。簡単なことだ、バリゴッツィだ。あの男はオニールと一緒にいた。市長とオニールの記者会見にもあの男はいた。彼女が死んだのは私のせいだ。
「デーレンダ エスト カルターゴー」私は呟いた。
 あの時、ロッソ老人が口走った言葉だった。
「なんだって?」ルイス警部が怪訝な表情を浮かべた。
「正確な発音かどうかは分かりません。意味も知らない」
 警部は首を傾げた。「英語じゃあないようだな。それがどうした」
 厚いファイルを何冊も抱え、コーヒーカップを二つ持って、スミス刑事がルイス警部の横に座り、私の前にカップを一つ置いた。
「そりゃあラテン語ですよ。delenda est Carthago。カルタゴは滅ぼさねばならない、って意味です」スミス刑事が事も無げに言った。
「なんだそりゃ」と、ルイス警部。
「ローマ帝国の政治家が元老院で演説して締めくくる時に必ず言っていた台詞ですよ。大カトーだったかな」
「なんだってそんなこと知ってるんだ」ルイス警部は疑わしそうな表情でスミス刑事を見つめた。
「大学でラテン語を専攻してたんです。文学部でしたからね。言いませんでしたっけ?」
「文学だあ?」ルイス警部は目を丸くした。
「ひどいなあ。ぼくだって少しは勉強をしたんです。alea jacta est、骰子は投げられた、ってね」 スミス刑事は腰に手を当てて演説するように言った。
 あの老人は自分を古代ローマの政治家だと妄想していたのかも知れなかった。それだけの意味なのかも知れなかった。
「だいたいカルタゴってのはなんだ」ルイス警部が言った。
「カルタゴってのは古代ローマ帝国と対立していた貿易国家ですよ。三度ローマと争って敗れて、最後には街が完全に焼き尽くされて、人が住めないように塩が撒かれたそうです。ひどい話ですよね」
「お前は、警官じゃあなく、歴史のお勉強を続けてた方がよかったんじゃあないのか」
「そりゃあないですよ、警部」
「それで、あんた、そのカルタゴがどうしたんだ」ルイス警部が訊いた。
「いえ、何でもありません」私は首を振った。
 だが、私はその言葉が気になっていた。「もしかしたら・・・」
 私は立ち上がった。
「なんだ、どうした」
「何でもありません」私は上着を手に取った。「ちょっと行くところがある。すみませんが、このまま行かせてもらいます」
「おい、こら、ちょっと待たんか」
「うわっ」
 スミス刑事がのけぞった。ルイス警部が立ち上がったせいで、テーブルの上のコーヒーがこぼれ、持ってきていた調書を濡らしてしまったのだ。「馬鹿者。早く拭くものを取ってこい」
「了解」
「馬鹿者が、何をやっておるか・・・」
 二人が泡を食っている間に私は足早に立ち去り、娼婦や客引きの合間を縫って第六分署から飛び出した。
 私の想像が間違いである可能性の方が高かった。そんな愚かしいことが起きてよいはずはなかった。しかし、私の胸騒ぎはどんどんと高鳴っていた。悪い予感という奴だ。
 警察署を出て、私は走った。凍るような空気が肺を冷やし、私は走りながら咳き込んだ。氷のように冷え切ったサニャの顔が目の前にちらつき、私は吐きそうになった。道を行く人たちが私を見て、ある人は可哀想にというような表情で首を振り、ある人は怯えたような表情で道を空けた。
 パトカーが走り抜けていった。私を追ってきたわけではなさそうだった。私は再び咳き込んだ。
 チャイナタウンはいつもと何も変わらない夜を過ごしていた。ディナータイムが終わり、いつものように店員が後片づけをしている風景がそこにはあった。私は立ち止まり、息を整えた。肺の中はすっかり冷え切っているのに、身体は汗をかいていて背中と胸に水をかけたように汗が落ちていった。私は額の汗を拭い、安堵の吐息を漏らした。どうやら杞憂に過ぎなかったようだ。
 私は九龍飯店の前に立ち、「閉店」の札がかかったドアを押した。店には既に客は誰もいなかった。レジの上にかかっていた時計に目をやると十一時を回っていた。
 店員の女性が私の顔を見て、中国語で何かを言った。もう店は閉まっているとでも言っているのだろう。私はそれを無視して中に入っていった。
 厨房の方から、皿を乗せるトレイを持って黄賢が出てきた。私に気が付くと、驚いたように口を開け、やがて厳しい目つきに変わった。「何の用だ」
「マダムは・・・彼女はいるか。梅鈴は」
「奥様はいない。早く帰れ」短く英語で言った。
「彼女と話がしたいんだ」
 間違っているかも知れないが、彼女には伝えておいた方がいい、私はそう思っていた。
「帰れ、帰れ」トレイをテーブルに置き、黄賢は私の胸を押した。
「待ってくれ。彼女に話をしたらすぐに帰る」
「駄目だ。帰れ」
 私が黄賢と押し問答している姿を他の店員が遠巻きに見ており、店の中にざわざわと中国語で満ちていった。
「何をしているの。どうかした?」
 私たちの声を聞いたのだろう。深紅のチャイナドレスを着た梅鈴が奥から顔を覗かせた。「まあ、あなた」
 驚いたような表情だった。もう二度と私がここに来るとは思わなかったのだろう。「何しに来たの」
「聞いてくれ」
「黙れ」黄賢が中国語で梅鈴に話しかけた。私の言うことなど聞くなと言っているのだ。
「待って、黄賢」梅鈴が諭すように言った。「何の話かだけでも聞いてあげなさい。追い返すのはそれからでもいいわ」
 私が口を開こうとした時だった。
 ボンッという小さな破裂音がどこからか聞こえてきた。
「なんだ」黄賢が訝しげに辺りを見回した。
「それで何の用事なの」梅鈴は腕を組んで私を見つめた。怒っているようにも戸惑っているようにも見えた。「お店の片づけで忙しいの。あなたの相手をしている暇は無いわ」
「気を付けてくれ。当分の間、店やチャイナタウンの警戒をしてもらいたいんだ」
「どういう意味?」
 その時、外から大きな声が聞こえてきた。「火事だあ、火だぞぉ」
 遅かった。一瞬で私の汗が凍り付いた。
 私は困惑した顔の梅鈴と黄賢をその場に残して、店を飛び出た。見上げると、チャイナタウンの上空があちらこちで緋色に染まり、揺らめいていた。
 カルタゴは滅ぼさねばならない、きれいさっぱり燃えちまえばいいんだ、様々な声が私の頭を駆けめぐった。人がまだいる、こんな時間に火を放つとは予想していなかった。悪い予感が当たった。もしかするととは思ったが、早めに警告をすれば未然に防げるかも知れないと思っていたのだ。私がやろうとすることはいつも手遅れか、間違いばかりだ。
 私の後ろから梅鈴と黄賢が店から追って出てきた。梅鈴が悲鳴をあげた。
「早く九一一に電話をしろ。消防車を呼ぶんだ」私は黄賢に怒鳴った。
 火の手の回りは早く、既に何軒かの料理店に火が燃え広がり、チャイナタウンの空を焦がしていた。
 梅鈴が呆然とした表情で私を見つめ、やがて何かに気が付いたように私の肩を掴み、中国語で叫んだ。
「落ち着いて。何を言っているか、分からないよ」私は彼女の肩を揺すった。
 梅鈴が首を振って、自分を落ち着かせようとしていた。「子供たちがいるの。昨日着いたばかりで、倉庫に隠れているの」
「なんだって」
 私は彼女の腕を掴んだ。「どこだ、どこにいるんだ。早く連れていってくれ」
 梅鈴は子供のように何度も頷いた。
 火は信じられない早さであちこちを包み、時折、破裂するような音が聞こえてきた。
「こっちよ」梅鈴は私の手を握り、半袖のチャイナドレスのまま、裾を捲り上げて走り出した。
 バケツを持った町の人たちが店から飛び出してきていた。水が出ていないホースを握ってどうしていいのか分からず右往左往している人もいた。
 私は呆然と辺りを見回している中国人の男性を捕まえ、肩を掴んで揺さぶった。「君がここの指揮を執れ。とにかく水を出して火が広まらないようにするんだ」
 男は私を不思議そうな顔で見ていたが、やがて真顔で頷いた。
 次にバケツを持って近づいてきた女性を捕まえた。「君はみんなを避難させるんだ」
 女性が動き出したのを見て、私は梅鈴を促した。「どっちだ」
「こっちよ。早く」
 梅鈴は私の腕を掴み、入り組んだチャイナタウンの町並みを縫って走った。車が通れないほど細い道を抜けて、裏道のような通りを駆け抜けた。どう考えても消防法違反の建造物が立ち並んでいた。
 ようやく消防車のサイレンが聞こえてきた。どこかで爆発が起きた。前の建物の二階辺りから火が吹き出していた。
 私はジャケットを脱いで梅鈴の肩にかけ、火の粉を避けながら走り抜けた。
 古い造りの建物が燃えていた。すぐ隣の料理店の火が燃え移ったようで、煙を吹き上げていた。どこかから消火用のホースを引っ張ってきた男が料理店に水をかけていた。辺りには何人も住民がいて、おろおろと火の手が強まるのを見つめているだけだった。
「大変」梅鈴が悲鳴をあげた。
 彼女が指をさしたのはその古い建物で、火が出ていなくても、その古さでは、いつ崩れ落ちてもおかしくなかった。
 私は辺りを見回した。この道の狭さでは消防車が入ってくるのは無理だ。消火用の放水ホースを引き伸ばしてくるのにはかなり時間がかかりそうだ。しかも、あちこちで火が燃え広がっている状況では、ここの火がいつ消されるか分からない。
「なんであんな建物にいるんだ」
「古くて建て替えられる予定だから、誰も使っていない家なの。ほかの町に送り出す間、少しだけ隠れ家に使っていたの」
 炎は一階から二階へと上がっていくのが見えた。
 二階の窓から女が顔を出し、中国語で悲鳴をあげていた。
「早く火を消さないと」梅鈴が私にしがみついた
「分かってる」
 私は男の手からホースをひったくり、水を屋根の上の方に向けた。しかし水圧が弱くて、水が火にかかるだけで、少しも火勢は弱まらなかった。
「何人いるんだ」
「大人が四人、子供が五人よ」
「水を上の方からかけ続けるんだ」
 男にホースを渡すと、男は分かったというように頷いた。
 おろおろと火を見つめている梅鈴をその場に残し、私は燃えている反対側の家に向かった。ドアが開け放たれたままになっていて、私は勝手に上がり込んで、入り口の脇にあるクローゼットを開けた。ハンガーにかかった大きめのレインコートを引っ張り出し、キッチンに行って蛇口から勢いよく水を流し、コートを突っ込んで表裏とも水で濡らした。次にバスルームに向かい、バスタオルを取ると同じように水で濡らして絞り、頭からかぶった。その上から水浸しのレインコートを着込むと私は家を出た。家人が私が家から出てきたのを見咎め、中国語で何事か怒鳴った。火事場泥棒だと思ったのだろう。私は彼らを無視し、火の手が上がった建物に近づいた。
 玄関のドアを蹴るともろくなった蝶番が揺れ、数度蹴っているうちにドアが外れた。その途端、外の空気が吸い込まれ、私は玄関脇にへばりついた。炎が怒ったように飛び出してきて、また引き込まれていった。バックドラフト現象だ。火がくすぶっているところに新鮮な空気が入って爆発的に燃焼が広がったのだ。私は引き込まれていく火を追いかけるように建物に飛び込んだ。
 一階はそのままリビングになっており、壁の木の板がくすぶっており、天井を火が這っていた。私は大声で呼んだが、何の返事も無かった。一階の奥は煙がくすぶっていたものの火は出ていなかった。廊下の奥に緑色のドアがあった。私は木の扉に手のひらを当て、熱くないのを確認してから、ドアを開けた。部屋の中では、床の上に何人かが毛布をかけて寝入っていた。私は誰彼かまわず蹴りつけた。
 親と思われる男女が二人、眠そうな目をこすりながら毛布から顔を覗かせ、私の風貌を見てぎょっとしていた。無理もない。タオルを頭から巻き、水浸しのレインコートをかぶっている怪しい人物が突然現れたのだ。
「火事だ、早く逃げろ」私は怒鳴った。
 しかし、二人は訝しげな表情を浮かべ、私を見つめていた。英語が分からないのだ。
 私は彼らを立たせ、部屋の外から入ってくる煙を指さした。二人の目が丸く見開かれ、隣の毛布にくるまっていた子供を叩き起こした。子供は二人いた。私は彼らを部屋から出し、火の手が少し収まったところで、子供を抱えさせ、建物から追い出した。
 小さな建物で、一階には他に部屋はなさそうだった。私は火が壁を這い上がっているのを見上げ、恐怖に駆られた。二階に向かう階段の天井は既に火が回っていたのだ。私は目をつぶって三つ数え、勇気が萎えないうちに階段を駆け上った。
 階段の上の天井は焼け落ちていて、私は火を避けながら廊下を駆け、火の手が弱い方のドアを叩いた。中から悲鳴が聞こえていて、どんどんとドアを叩いていた。ドアは熱くはなかった。ドアは部屋の内側に押すようになっていたが、中にいる連中が内側から押しているためドアを開くことができなかった。パニックに陥っているのだ。内側に引っ張ることなど考えもつかないのだろう。私はドアノブを回したまま身体を思い切りドアに押し当て、靴をドアと壁の間に挟み、中の中国人にドアを引っ張れと怒鳴った。五回ほど怒鳴っているうちに、ようやく理解できたのか、ノブを引いてドアを開けた。十代の若い男と女と赤ん坊。
 私は彼らにレインコートをかけ、赤ん坊の身体に濡れたタオルを巻き付けて一階まで降りていき、コートを取り返した。
「他の子はどうした。あと二人いるはずだ」私は幼い顔をしている女の方に怒鳴った。
 私は指を二本立て、二人と示した。女は今までいた二階を示し、上だ上だと中国語で言いながら、赤ん坊を抱えて逃げ出した。
 私はもう一度、二階を見上げ、息子の航平の顔を思い出し、神様にお祈りをしてから、タオルを顔に巻き、煙を吸わないように階段を駆け上った。先ほどより火の手は激しさを増していた。若い親子がいた部屋の二つ先のドアに火が燃え移っていて、炎が燃え上がる音に混じって、中から弱々しい声が聞こえてきていた。薬品が燃えるような匂いがしてきて、頭がクラクラした。板張りの壁のペンキか何かが不完全燃焼を起こしているのかも知れなかった。
 私は火のついたドアの中央を蹴飛ばした。しかし、燃えてもろくなった部分に穴が開いただけで、ドアそのものは開かなかった。今度はドアノブをコートで掴んで回し、思い切り蹴飛ばした。
 ボンという音とともにノブが外れて、ドアが内側に開き、龍が火を吐き出すように炎が飛び出してきて、私は尻餅をついた。炎が顔を舐め、眉毛がチリチリと焼ける音がした。
 部屋の中では壁が燃えて、天井を焦がしていた。十代前半の少女ともっと小さな男の子が部屋の中央にいて、少女が男の子を抱きかかえて炎から守ろうとしていた。姉弟なのだろう。私は二人に声をかけたが、意識が朦朧としているのか私の声に反応しなかった。やせこけた少年の方はちょうど航平と同じくらいの年齢だった。
 私は女の子を起きあがらせ、男の子を抱きかかえて、部屋の外に出ようとしたが、二階の廊下は既に炎に包まれていた。壊れかけたドアを閉め、私は咳き込みながら、窓ガラスに向かった。窓枠は燃え落ちる寸前で、私は窓枠の中央を蹴ってガラスごと外に落とした。
 建物全体が燃え始めていた。外側の壁を火が這い上がり、屋根がいつ燃え落ちてもおかしくなかった。廊下のドアから煙が入ってきて、少女が激しく咳き込んだが、腕の中の少年はぴくりとも動かなかった。下から上がってくる炎を避けながら窓の下を見ると、道には何人もいて、一人の男がホースから力の無い水を壁に叩きつけていた。焼け石に水とはこのことだ。私は頭痛がする頭でそんなことを考え始めていた。部屋に一酸化炭素が充満しているのかも知れない。早くしないと私も意識を失いそうだった。
 道の脇の方からは、黒地に黄色の縞が入った防火服を着た消防士が、どこからか放水ホースを延ばしながら走ってきて、水を撒き始めた。建物の前の道が狭すぎて消防車やはしご車は入ってこれないのだ。数人の消防士が、道路の向かい側の家から大きな布団のようなものを引っ張り出してくるのが見えた。煙で涙が出てくるのを拭きながら見ると、それはベッドのマットレスだった。野次馬たちが手伝い、火の手のすぐ近くまでマットレスを持ってきて、私の方を見上げて手招きをした。上から飛び降りろということのようだった。
 私はなぜだか急におかしくなって笑い出した。頭がおかしくなりかけていた。煙で咳き込んで死ぬよりは、飛び降りて首の骨を折る方がましだ。
 私は少年を床に下ろしてから、タオルを少女の身体に巻き、少女を抱え上げた。彼女は私が外から投げ出そうとしていることに気が付くと悲鳴をあげて中国語で怒鳴り、私の顔を叩いたが、私はかまわず窓からマットレスに向けて投げ落とした。少女は悲鳴をあげ、手をばたつかながら放物線を描いてマットレスの上に落ちた。すぐに二人の消防士が彼女を助け起こすのが見えた。私は倒れている少年にコートを巻き付けた。コートはすっかり乾いて熱くなっていたが、少年の身体は冷たいようにさえ感じられた。
 後ろを見ると、火勢に押されてドアの周りから白い煙が吹き上がっていた。私は覚悟を決め、少年を抱き上げると窓に向かった。その途端、ドアが爆発して、私は熱い空気に押し出されるようにマットレスに向けて落ちていった。
 大した高さではなかったとはいえ、マットレスは予想よりずっと堅く、ずっと役に立たなかった。私は腰を打って息ができなくなり、少年は私の手を離れてマットの上から道に転がり落ちた。一人の消防士が少年に近づき、抱きかかえて胸に手を当てた。少年は息をしていなかった。消防士が首を後ろに倒して気道を確保し、口移しに息を吹き込んだが、少年の細胞は既に生きることを止めていた。しばらく努力を続けたが、やがて消防士は首を振って私の肩を叩いた。私は彼らから少年の身体を奪い取って立ち上がった。
 消防士たちが少女の肩を抱きながら連れていくのを見守り、そのすぐ近くで梅鈴が立ちすくんでいるのを見つけた。私は少年を抱きかかえて彼女の方に歩いて行き、ひどくやせこけて羽のように軽いその子の身体をコートごと彼女に渡した。腕と脚がだらんと垂れ下がり、顔が地面を向いた。真っ黒に煤けた顔で、梅鈴がその子を抱きしめ、しゃがみこんだ。
 私は彼女の肩にかけたままだったジャケットを取って着ると、近くにあった毛布を彼女と少年の身体に巻くようにかけた。
「謝謝、謝謝」彼女は何度も何度も頭を下げた。
 煤けた彼女の頬に黒い一本の筋が出来ていた。ホースで撒いた水がかかったのかも知れなかった。熱さのせいで汗をかいたのかも知れなかった。しかし、それが彼女の涙であることを私は知っていた。
 ふと見ると、王老人が杖をついて、梅鈴の横に立っていた。小さな身体はますます小さく見え、私を見上げると「日本の方よ、ありがとう」と言った。
 深い皺だらけの表情には苦悶が刻まれていた。
「あなたたちがやっていることが間違いだとは、ぼくには言えない。だが、正しいことをしているとも思えない」私は言った。
 チャイナタウンを燃やしていた炎は下火になり始めているようだった。消防車のサイレンは相変わらず激しく鳴り響いていたが、空を焦がしていた紅い炎は見えなくなり、代わりにいつものようにネオンの青や赤の煌めきが空を染め上げていた。
「あなたに理解してもらおうとは思っておらん」と、老人は首を振った。「じゃが、礼は言おう」
 老人は手帳のようなものを取り出すと、杖を持ったまま震える手で何かを走り書きして、書いた部分を切り取ると私に渡した。カリフォルニアの住所が書かれていた。
「これは?」私は老人を見つめた。
「あなたが知りたがっていたことは西にある」
「どういうことですか」
「真実じゃ。じゃが、知らない方がよいこともある。どうするかはあなたが決めなされ」
 老人は梅鈴の肩を抱くと、彼女を立たせた。
 梅鈴は少年の身体を抱え上げ、人目をはばかることなく泣いていた。黒い涙が彼女の頬を汚していた。間違っているのは私の方かも知れなかった。



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■最後のさよなら■ 第24回

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<22>


 老人の容態が悪化して家の中が騒々しくなる中、私は入り口近くの床に座らされ、リッカルドに銃を突きつけられていた。リッカルドは、今までに嗅いだことがないほどひどい臭いの煙草を吸い、煙を私に吐きかけた。私は顔を背け、黙って座っていた。
 しばらくすると、寝起きの虎のように機嫌が悪いクラーク捜査官がドアをバタンと開けて入ってきた。「おい、リッカルド。いったい何なんだ。俺は忙しいんだ」
「分かってますって。ロッソさんからの連絡事項だ。この男を連れていって、写真を持ってこいとさ」
「チッ」クラークはいまいましそうに舌を鳴らした。「俺をなんだと思っているんだ。使い走りみたいに扱いやがって」
 周りを見回し、リッカルドが耳打ちした。「そう怒りなさんな。あの方も長いことはないんだ。あんたのお役目はもうしばらくさ」
 不機嫌そうな顔のまま、クラークは私を小突いて立たせ、建物を出て目の前に停めてあるアコードに乗るよう促した。私は後ろの座席に座り、隣にリッカルドが座った。腰の低い位置に拳銃を構え、銃口を私に向けていた。
「おい、安全装置をはめとけよ。車の中でぶっ放したりするな」運転席に座り、エンジンをかけながら振り向いてクラークが怒鳴った。
「分かってますよ」リッカルドは薄笑いを浮かべていた。
 銃を納める気はないようだった。私はなるべく銃口の向きから離れる場所に座った。
「写真はどこに隠したんだ」クラークが私を睨み付けた。
「五番街の五十七丁目だ」と、私は言った。
「ティファニーで買い物でもする気か」クラークがバックミラー越しに私を見た。
 当てがあったわけではなかった。思いついた住所を言ったまでだった。五番街のようなこの街で一番人出が多いところなら、連中も銃を振り回すことはできないだろうと思ったのだ。
 クラークは終始不機嫌そうな顔で車を運転して、ブルックリン・ブリッジを渡ってマンハッタンに入った。リッカルドは下手くそな口笛を吹き出し、クラークがいまいましそうに舌打ちをした。
「おい、そろそろ銃を隠せ。市警の連中が出張っている」
「おっと」リッカルドは私に向けた銃を派手なデザインのジャンパーの内側に入れ、私には銃を向けていることを誇示するように手を動かした。
 しばらくすると、リッカルドの携帯電話が鳴った。銃口を私に向けたまま通話ボタンを押し、話し出した。時折、顔色が変わり、私を何度も睨み付けた。
「はい。分かりました。ご命令通りにします。はい」電話を切り、リッカルドは携帯電話を持った手で私の頬を殴った。
「誰からだ」
「モレッティさんからだ。写真の件はもういいとさ。こいつは持ってねぇようだ。モレッティさんが処分するとさ」
「どういうことだ」唇の血を拭いながら私は言った。
 背中を冷たい汗が落ちていった。
「お前はもう用無しってことさ」リッカルドは銃を取り出し、私に向けた。
「馬鹿野郎、何やってるんだ。銃をしまえ。ここはマンハッタンのど真ん中だぞ。昨日の今日で、何人の警官が出てると思ってるんだ」
 リッカルドは舌打ちして銃をまたジャンパーの内側にしまった。
「ふざけた野郎だぜ」
「どうしたんだ」
「こいつはハナから写真なんて持ってなかったとさ」
「なぜ分かった」クラークが横目で私を見やった。
「ジャックの奴が回収したとさ。今の電話はそれを知らせてきた」
「それで?」
「だから、言ってるだろ。こいつは用無しだってな」リッカルドが金切り声をあげた。
「おい、俺をおかしなことに巻き込むな。これ以上は御免だ」
「何言ってやがる。ロッソさんに借りはまだ返してないんだろ。押収したヤクをくすねちまったのを揉み消してもらった・・・」
「黙れ」クラークが怒鳴った。「いらんことをしゃべるな」
「かまわねぇさ。こいつはもうじき何もしゃべれなくなるんだ」
「やるならお前が勝手にやれ。俺は知らん」
「チッ、意気地なしめ」リッカルドが舌打ちをした。「このままブロンクスに向かってくれ」
「ブロンクス?」クラークが振りかえった。「何をする気だ」
「俺のヤサがあるんだ。そこで始末する」
 クラークは何も言わず、頷いた。
 私は早急に次の手を考える必要に迫られていた。だが、次の手など、一体どこにあるのだ。
 車はイーストヴィレッジを抜け、北に向かっていた。アコードは信号の度に捕まった。ミッドタウンを移動するのに自動車ほど不便な手段は無い。多くの道路は一方通行で、おまけにいつも渋滞している。しかも、市長と上院議員の狙撃事件で警察の検問は厳しくなっているはずだった。中心部なら安全だ。しかし、マンハッタン島の北にあるブロンクスに向かうのに、高速道路に乗られたらお終いだった。市街地ならまだチャンスはある。私はそこに賭けた。
 アコードはパーク街を北に上がり、五十丁目辺りで再び赤信号で停まった。
 リッカルドがひどい臭いの煙草に火をつけ、カタカタと足を動かし、貧乏揺すりを始めていた。
「おい、車の中でその煙草を吸うな」クラークが怒鳴った。
「うるせぇなあ」リッカルドは煙を天井に向けて吐いた。
「煙草の臭いが車に染みつく。とっとと捨てろ」
 再びチッと舌打ちをして、窓を開けた「分かったよ。捨てりゃあいいんだろ、捨てりゃあ」
 煙草を手に取り、身体をひねって窓から捨てたその瞬間。私は反対側のドアを開け、車道に飛び出した。パーク街の広い通りのど真ん中に私は落ちた。
「てめぇ」
 リッカルドが追いかけるべきか迷っているうちに、信号が青に変わり、後続車がクラクションをけたたましく鳴らした。クラークは車を発進させざるを得なくなった。
 私は後ろから迫ってくる車に轢かれないように身体をねじりながら、五番街の方に渡った、そのまま駆け出して五十丁目の細い通りを走り、買い物客が抱えているサックスやカルティエの大きな紙袋にぶつかりそうになってよろけながら、後ろからアコードが迫って来ないか何度も振り返った。そのままマジソン街を渡ると右手に大きなゴシック様式の尖塔が見えてきた。アイルランドの守護聖人である聖パトリックをまつったカソリック教会だった。
 ここに逃げ込んだとは、彼らも思わないだろう。私は石段に腰掛けて写真を撮影している日本人の集団を避けながら、大聖堂の重い木の扉を押して中に入った。教会の中は、ステンドグラスを通して入ってくる外光と、正面の祭壇と壁に沿って並べられた燭台でちらついているロウソクしか灯りは無く、人工の光源は全く無かった。昼間でも薄暗いこの中では数メートル先の人の顔も見分けることは難しかった。逃げ込むには格好の場所だったのだ。
 それにいくら気が立った連中でも、ここでは派手なことはできないはずだ。何しろここは彼らの神様が見下ろしている場所なのだから。信心深いカソリックが多いイタリア人なら、教会の中で銃を抜くこともないだろう。私はそう考えた。
 正面の演台では神父がマイクを通して説教をしていた。私は人影のほとんどない木製のベンチに座り、頭を垂れて顔を隠し、祈るふりをしながら荒れた息を整えた。だが、ふりの祈りは神様には通じなかった。そもそも神様はキリスト教徒でない私の祈りなど聞いてくれないのかも知れなかった。
「お祈りなんてしたって無駄さ」リッカルドが私のすぐ耳許で囁くように言った。「この街じゃあ、神様はいつだって休暇中だ」
 彼は腰だめに銃を向けていた。「残念だったな。ここはバチカンじゃあねぇ。マンハッタンの五番街だ。神様はさっきトランプタワーで茶を飲んでたぜ」
 ベンチの反対側からはビル・クラークがジャケットの内ポケットに右手を入れながら歩いてきていた。私は二人に挟み込まれてしまった。最悪の状況だった。
 リッカルドが私の腰骨の上にゴツゴツしたものを突き当てた。「世話ぁ焼かせやがって。今ここでぶち殺してやりてえところだ」
 クラークは私のすぐ隣に座った。「あんたも大したタマだな。まさかあそこで逃げ出すとは思わなかった」
 数列先に老夫婦が座っていて、老人が振り向き私たちを睨んだ。
 リッカルドは私を銃で小突いて座らせると、クラークに小さな声で言った。「面倒だ。連れ出して早く片づけようぜ」
「殺るなら、ここは駄目だ。人が多すぎる。第一、教会で殺しをしたら寝覚めが悪い」
「こいつも薄汚ねぇチャイナタウンと一緒にきれいさっぱり燃えちまえばいいんだ」
 私は耳を疑った。
「無駄口が多すぎるぞ」クラークが小さな声で言う。
「もうこいつは逃がさねぇ。大丈夫さ」
「さあ、行こう。早いところ片づけるんだ」左側に座ったリッカルドが私の腕を掴み、クラークが反対側から立ち上がらせようとした。
 そのとき、プシュプシュと二回、風船から空気が漏れるような音が背中の方から聞こえてきて、左右の男たちは声もなく崩れ落ちた。男たちの額や顎がベンチの背に当たってゴツンと鈍い音を立て、前に座った老婆が再び振り返って、シッと口元に指を当てた。
 薄暗がりの中で、二人の後頭部の髪の生え際から、黒い液体のようなものが流れているのが見えた。鉄が焼ける匂いと火薬を燃やした匂いが背後にあった。私が振り向く間もなく、その匂いは後ろのベンチから立ち上がって横の通路を通り、私と二つの死体がいるベンチの前にやってきた。黒い大きな身体が振り向いた。
「レクイエムでも歌ってやるんだな」鳩のように笑いながら、バート・キングが言った。
 彼は手袋をした手で消音器付きの拳銃を握っていた。
 バートは二人のスーツの内ポケットを探り、クラークのポケットからFBIのバッジを取り出してじっと眺めると、面白くもなさそうにフンと鼻を鳴らして自分のポケットに落とし込み、その上から拳銃もしまい込んだ。
 次に、男たちの死体を無造作に起こして両手をベンチの背の上に組ませ、頭を乗せた。暗い教会の中では、二人は居眠りをしているか、お祈りをしているように見えた。頭から血が滴っていたが、この暗さでは誰も気にする者はいないだろう。
 作業が終わると、バートは私に視線を向けた。
「さて、椅子を跨いでこっちに来たらどうだ。いつまで死体と一緒にいる気だね」
 私は彼が常に色の濃いサングラスをかけている理由を知った。彼の左目は透き通ったビー球のような義眼で、黒目の部分に精巧な虹彩の模様が描かれていた。さすがにこの暗さではサングラスを外さざるを得なかった。ロウソクの灯りがガラスの目に反射していた。
「なんで、君が・・・」
「ハーレムで一度助けてもらったからな。その借りを返しただけだ」
「市長を狙撃したのも君なのか」
 バートは暗がりの中で私に顔を近づけ、ガラスの目を見開いた。
「この目で遠方から照準を合わせられると思うかね。俺は狙撃は苦手なんだ。あんたはサラエボに行ったと聞いたが、あそこでは何も学ばなかったようだな」
「それじゃあ・・・誰が」
「テロというのは、時として加害者ではなく、被害者の方に利益がある場合がある」
「どういうことだ」
「被害者は加害者に報復をしてもたいていの場合は目をつぶってくれる。それに被害者を装えば、世間の同情が引ける。政治家にとっては格好の宣伝の道具だ。市庁舎では、誰も死ななかったはずだ」
「まさか、連中自身が・・・」
「しゃべりすぎだな」そう言って、バートは立ち上がった。
「待てよ」私は言った。「その目はいったいどこで・・・」
 バートは虚をつかれたように私を見つめた。「くだらんことを思い出させる」
 しばらく考え込むような素振りを見せた。その間、彼の左目は一度も瞬かなかった。「クウェートだ。湾岸戦争の直前だった。馬鹿な整備兵のおかげでこのざまだ」
「それで除隊したのか?」
「見えない目で、照準は合わせられない」
「そうか」
「あんたと話していると、調子が狂うな。風邪でも引いたか」そう言うと、バートは立ち上がって通路に向かい、後ろの出口に向かって歩き出した。
 私は左右の死体を倒さないようにベンチの背を跨いだ。狭い通路に出ようとして、神父の説教を聞き終えて帰ろうとしている老夫婦に通路を阻まれた。
 二人を追い越そうとしたが、老人が足をよろめかせてつまづき、杖を落としてしまった。
「すみません」
 私は杖を拾って、老人を助け起こした。
 顔を上げた時にはバートの姿はどこにも見えなくなっていた。


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■最後のさよなら■ 第23回

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<21>


 翌日の新聞には、シティホールでの狙撃事件の様子と、犯人の捜査状況が詳しく書かれていた。
 当初、東洋系の男が拳銃を発砲したという目撃情報があったとされたが、そもそも目撃者が見つからず、実際には東洋系の銃を持った男を見たという証言も無いと、報じられていた。ただ、昨日の報道の結果、既に一部のアジア系住人を罵倒したり、投石をする事件が起きており、新聞は市民に対して冷静になるよう呼びかけていた。
 ほかの右翼系の新聞は、事件直後にオニール上院議員が行った「感動的な演説」を絶賛する社説を載せ、「今こそアメリカは一つにまとまり立ち上がらなければならない」と興奮気味に結んでいた。
 私は新聞を畳み、部屋を出た。昨日、村井領事には何も関わるなと言われたが、約束をしたわけではなかったし、厄介事を起こすつもりもなかった。その時まではそうだったのだ。
 私は地下鉄に乗ってチャイナタウンに向かった。何人かの警官は見かけたが、思ったほどその数は多くはなかった。しかし、いずれも拳銃と警棒にすぐに手を伸ばせるような格好で歩いていた。
 私は九龍飯店の前で数秒逡巡してから、店のドアを押した。梅鈴と黄賢の姿は見えなかった。若い給仕が、今日はマダムはお休みすると連絡があった、と教えてくれた。
 九龍飯店を出て、メインストリートのマルベリー通りに出た。何をしようという考えがあったわけではないのだが、梅鈴をつかまえることができなければ、今はすることがなかった。梅鈴と話をしようと思っていたのだが、当ては外れてしまった。
 あのような事件があった翌日にもかかわらずマルベリー通りには観光客やら買い物客が繰り出していた。狭い道に沿って、いくつも露店が出ていてブランド物のバッグや、高級腕時計などが売られていた。もちろん模造品だ。プラダのバッグやロレックスの腕時計が十ドルで買えるわけがない。キューバ産の葉巻を一箱二十ドルで売りつけようとするのを断ると、五ドルまでまけてきた。アメリカと国交の無いキューバ葉巻が箱単位五ドルで手に入るはずがないのだ。彼らの前を警官が通り過ぎていったが、何も言わずに歩き去っていった。油に群がる蟻のように捕まえても捕まえても湧いて出てくるので、追い払うのに飽きてしまったようだった。
 怪しげな品物を売りつけようとするアラブ系の商人を追い払い、キャナル通りを越えてリトルイタリー側に入った。通りを一本越えただけで街の雰囲気がガラリと変わり、イタリアレストランが軒を連ね、イタリア語の看板があちこちにかかる街並みに変わった。けれどもチャイナタウンはキャナル通りを越えてリトルイタリーを浸食し始めており、イタリアン・レストランが並ぶ通りの所々に虫食いのように漢字で店名を書いた看板が掛かっていた。以前なら考えられなかったことだ。中国人の勢力は一層広がっていたのだ。
 途中の道を一本右に入ってしばらく行った角に、イタリア・マフィアの若いドンが暗殺されたレストランがあった。周りには警官の姿は無かった。事件が起きてから一週間以上経っていた。現場検証はとうに終わっているのだろう。しかし、店の中は噴き飛ばされた時のままで、砕け散ったテーブルや椅子、カウンターなどが片づけられないまま、瓦礫となって積み上げられていた。市警が野次馬の立ち入りを禁止するために貼った黄色いテープの一部が剥がれて、パタパタと風にはためいていた。
 ルイス警部は、イタリア・マフィアの跡継ぎが射殺され、手下も含めて爆死したと言っていた。これはジョニー・リーが殺されたことに対する報復だったのだろうか。
 辺りを見回して、誰も関心を払っていないのを見計らって、私はテープをくぐって瓦礫の山となったイタリアンレストランに入り込んだ。二階建ての木造の建物で、噴き飛んで二つに折れた扉が入り口の辺りに置きっ放しになっていた。爆発の衝撃で天井が壊れて大きな穴が開き、そこを通して二階の屋根が覗けた。壁や天井の板が剥がれ、柱がひしゃげており、ビールを冷やしていた大型のクーラーが倒れて台無しになってしまっていた。床にはたくさんのビールやワインの瓶が割れて中身がこぼれ出したまま乾いていて、夜が明けた街のゴミ捨て場のような臭いがした。
 店にあったものはちょうど中心部辺りから外部に向かって飛び散っていて、爆発の激しさを物語るように、一枚板のテーブルの脚が砕け、天板が半分に割れて、床に転がっていた。どうやら爆弾はテーブルの上か下で爆発したようだった。店内を見ると、ペンキを撒いたように赤黒い血飛沫が壁にこびりついたままになっていた。
 私はサラエボで多くの市民を噴き飛ばした砲弾の爆発を思い出した。ジョニー・リーが巻き込まれた青空市場の爆発では砲弾が弾けて六十人に上る死者が出た。人は簡単に死んでいく生き物なのだ。
 人は死に慣れるんだよ、サラエボでジョニー・リーはそう言っていた。しかし、いつまで経っても私は人が死ぬことに馴染むことはできそうもなかった。
「おい、あんた」
 誰かが私の肩を強く掴んだ。
 振り返ると、そこに立っていたのは、ジョニー・リーが爆死した夜、私の部屋にやってきたFBIのクラーク捜査官だった。あの時と同じように真っ黒なコートを着ていて、人を見下したような表情を浮かべていた。この前と違ったのは、一緒にいるのがシュミットという名の初老の捜査官ではなく、若いラテン系の顔立ちの男だったことだ。
 そちらの男は鷲と星条旗を組み合わせた派手なデザインのジャンパーを着て、首には金の太いネックレスを巻いていて、メッシュを入れた金髪を撫で上げていた。その格好はどう見てもFBIの捜査官とは思えなかった。どちらかと言えば、FBIに捕まったチンピラといった方がお似合いだった。
「ビル、あんたの知り合いですかい」
 若い男が薄ら笑いを浮かべながらクラークに近づいてきた。
「ああ、リッカルド。前に話をした日本人だ」クラークはリッカルドという名の若い男に向かって言った。
「ミスター・クサナギだったね。ここは立ち入り禁止だ。市警が貼ったテープが目に入らなかったわけじゃあないだろう」
 私は肩をすくめた。「すみませんでした。テープが切れていたみたいだ。きっと腹を空かせた教会のネズミが食いちぎっていったんだと思います」
「困るね。ふざけていい状況じゃあないだろう。ここは捜査現場だというのは分かっているはずだ」
 クラークは私を睨み付けながら、隣の若い男に言った。「リッカルド、彼と話がしたいと思わないか。きっと彼も話しがしたいと思うはずだ」
 私は早々に退散すべきだった。「申し訳ないが、用事を思い出した。帰っていいかな」
「そうは行かねぇよ」リッカルドと呼ばれた男が言った。「あんたにはいろいろ聞きたいことがある。公務執行妨害で引っ張ったっていいんだぜ」
「そういうわけだ。ちょっと来てもらおう」と、クラークが言った。「手間は取らせないが、抵抗するなら罪状の十や二十は考えてやる」
 理知的なシュミットという初老捜査官がいない状況では、あまり抵抗しない方がよいように思えた。
「いいか、お前が知っていることをしゃべるんだ。誤魔化しが利くと思うなよ」リッカルドが凄んだ。凄むことばかりに慣れている男だった。ロクな人間ではなかった。
「君たちは何が知りたいんだ」
「あの死んだ中国人のことさ。お前は奴と知り合いだそうだな」
「忘れたよ」
 そう言った瞬間、私の目の前で火花が散り、頭がぐらぐらした。リッカルドが拳骨を私の頬に叩きつけたのだ。
「なめた口をきいてるんじゃねえぞ、エテ公。俺はビルみたいにお優しくねぇんだ」
 私は口の端を手の甲で拭った。唇がビリビリと痺れていた。
「チンピラみたいな口をきくんだな。FBIというのはいつからチンピラも雇うようになったんだ。エドガー・フーバー長官が始めたのか」
「糞野郎」
 リッカルドが再び拳を叩き込もうとするのを避け、私は彼の腹を蹴り上げた。
 ぐへぇと蛙がつぶれたような声を出してリッカルドが呻いた。
「チンピラなら、チンピラらしくかかってきたらどうだ」
「貴様、殺してやる」
 リッカルドが腰に手をやり、後ろのベルトに入れた拳銃を取り出そうとするのを見て、クラークが慌てて止めた。「何をやっているんだ。バカなことは止めないか」
 リッカルドが今にも発砲しそうになるのを押さえつけ、クラークはFBIのバッジを前と同じようにちらりと見せ、私に言った。「公務執行妨害だ。君を拘引する」
 彼はポケットから手錠を取り出し、私の両手にきつくはめた。
 次の瞬間、リッカルドの拳が先ほどとは反対の頬を襲って、私は瓦礫の山に吹っ飛んだ。
「何をしている。いい加減にしないか」クラークが怒鳴った。
 私はクラークに手錠の鎖を掴まれて立たされ、ふらふらになった頭を左右に振った。無駄に抵抗しても事態は好転しそうもなかった。
 二人に前後を挟まれて店を出ると、私は彼らに連れられて、近くの駐車場に向かった。駐車場に停められた白いアコードの後部座席に乗せられ、横にはリッカルドが座った。クラークは黙ってエンジンをかけ、アコードを走らせた。私はどこに向かうのかと聞いたが二人とも何も答えなかった。そのアコードには無線機も備え付けられておらず、車内に用意されているはずの赤色灯も見えなかった。彼らは本当にFBIの捜査官なのだろうか。彼らの態度はあまりにも常軌を逸していた。しかし、一度車に乗ってしまった以上、簡単には降ろしてもらえそうもなかった。
 アコードはマンハッタンからブルックリン側に渡り、街の一角に停まった。最初にニューヨークに到着した日、ジョニーと一緒に食事をしたレストランの近くのようだった。そこはちょっとした豪奢なヨーロッパ風の石造りの建物だったが、FBIの建物のようには見えなかった。
「降りてもらおうか」
 リッカルドが私を促し、私は車から降りた。
 クラークは窓ガラスを降ろすと、私をちらっと見て、リッカルドに「協力できるのはここまでだ」と言い、走り去ってしまった。
 私はその場で逃げ出すべきだったのかも知れなかった。石造りの建物の入り口の脇には男が二人立っていて、私のことを虫けらでも見るような目で見ていた。
 どう見ても彼らがFBIの捜査官であるはずはなかった。
「ここはいったいなんだ。どこに連れてきた」
「ふん」リッカルドは鼻で笑い、建物に入るよう顎をしゃくった。
「手錠を外せ。帰らせてもらう」
「そうはいかねぇんだよ」リッカルドは私の肩を掴み、腰に堅いものをぐりぐりっと押しつけた。
 私の背筋を冷たいものがすーっと落ちていった。
「ロッソさんがお待ちかねだ。さあ来な」
 私は抵抗しないことを示すために、手錠をはめられた両手を肩の辺りまで上げた。「お前は殺されたマリオ・ロッソの仲間なのか」
 次の瞬間、私は息ができなくなって床に跪いた。リッカルドが私のみぞおちに拳を叩き込んだのだ。
「口のきき方に気をつけろ。ロッソさんはドン・マリオの父君だ。本来なら、お前のような虫けらが会えるようなお方じゃあないんだぞ」リッカルドはチンピラのような口調で、チンピラのような台詞を吐いた。
「むかつく日本人だ。俺は今、腹が減っているんだ。怒らせるなよ」
 私はリッカルドの脚につかみかかって押し倒し、上にのしかかった。だが、振り上げた拳を叩き込む前に、建物の入り口にいた二人の男に私は動きを封じられてしまった。
 立ち上がらされてリッカルドに頬と腹を殴られ、息がつけなくなったまま、私は手荒に引きずられるように建物の中に連れこまれた。
 私は大きなミスを犯したようだった。今さら後悔しても手遅れだったが、取り返しがつかないほど大きなミスのようだった。
 薄暗い照明の廊下を引きずられて、私は一番奥の部屋まで連れていかれ、ドアの前に立っていた別の男が私たちを制止した。私は身体のあちこちを探られ、何も隠していないことを確認されると、ドアを開けてリッカルドと共に部屋に入れられた。
 その部屋はかなり広く、壁だけでなく天井まで深紅に塗られていて、絨毯は赤黒く、カーテンも血が固まったような色のビロードが引かれたままになっていた。照明はひどく薄暗く、空気は重苦しかった。まるで、エドガア・アラン・ポーが描いた部屋のように死の匂いが色濃く漂っていた。
 私の観察はあながち間違いではなかった。部屋をぐるりと囲んだ本棚の間に大きな机と革張りの椅子があり、その少し横にこの部屋には不釣り合いな安楽椅子が置かれていて、老人が死んだように座っていた。膝には肌触りが良さそうなキャメルの毛布が掛けられていて、その上で両手が組まれていた。指先が時折ぴくぴくと痙攣したように動いたので、その老人がまだ生きていることが分かった。
 老人の横には彼が死ぬのを待ち構えている死神のように真っ黒なスーツを着た中年の男が立っていた。時折瞬きする以外はほとんど身動きもせず、まるで蝋人形が飾られているようだった。
「ドン。ロッソさん。お話しした日本人野郎をお連れしました」リッカルドが先ほどの威勢はどこに行ったのか、声を震わせ、小さな声で老人に声をかけた。
 すると、老人の隣にいた蝋人形のような男が腰を曲げて、老人の耳許で何かを囁いた。
 老人はぴくりと身体を揺さぶり、安楽椅子が前後に揺れた。ジャンニ・ロッソはいつ死神が迎えに来てもおかしくないほどひどく年老いていた。頬の肉が垂れ、目蓋が瞳を覆い隠していて起きているのかどうか分かりかねた。腹の周りに余分な脂肪が付きすぎて動くのに難渋している様子で、ゆっくりと安楽椅子の中で身体を揺すった。太りすぎのマーロン・ブランドが年老いたような雰囲気だった。この死にかけた老人は、息子のマリオ・ロッソに自分の地位を譲るまではリトルイタリーの裏社会を動かす一人だったのだ。
 ジャンニ・ロッソの脇にいる男が再び耳許で何かを囁いた。
「あんたがあれかね」老人の声はひどく疲れていて、古い井戸の底から沸き起こってくるようだった。「息子のマリオのことを知っておる中国人というのは」
 脇の男がロッソの耳許で何事かを囁いた。
 ロッソはそれを聞きながら、分かっているというように、煩わしげに毛布の上で手を振った。「中国人だろうと日本人だろうとかまわん。マリオが死んでしまったことには変わりはないからな」
「ぼくはあなたの息子のマリオとは面識はありません」私は言った。
「なら、なんであんたが連れてこられたのかな」
 男が再びロッソの耳許で囁いた。
「ほう。リーのところの倅と知り合いか。ならば、王老人とも知り合いかな」そう言うと、老人は激しく咳き込んだ。
「王大人をご存じですか」
「知っておるかだと? 知っておるとも、昔からな。あの男にも困ったものだ。死に損ないのくせに相も変わらず邪魔ばかりしおる」
「向こうもあなたのことをそう思っているかも知れない」
 私の背中を何か堅いものが襲い、私は床に崩れた。
「手荒な真似はよさんか。この部屋にいる間はわしの客人だ。この部屋にいる間はな」老人は私を殴り倒したリッカルドを諭すように言った。
 穏やかな声だったが、威厳に満ちていた。食事の注文をする時も、誰かを殺す命令を下す時も同じようにしゃべるに違いなかった。
 リッカルドは言葉を発せずに、私の脇に手を入れて立ち上がらせた。私は彼が小刻みに震えていることに気が付いた。部屋の中は涼しいくらいだったが、彼からは汗の匂いがした。怯えているのだ。
 ロッソは眠っているように腫れぼったい目蓋を微かに持ち上げながら言った。「それで、あんたはマリオが誰に殺されたのかを知っておるというわけかな」
「ぼくには心当たりはありません」
「隠し事はよくない」
「本当に何も知らない」
「まあよい。あの中国人どもの仕業であることは分かっておるのだからな」
 ロッソの横にいる男が耳許で囁き、ロッソが何事かを囁き返してから、私を向いた。「写真があるそうじゃな。マリオが写っているとかいう」
「何のことを言っているのか分からない。ぼくは写真なんか撮影しない。カメラマンじゃあないんだ」
 私はジョニーの部屋にあった封筒の中の写真を思い出した。
 リッカルドがロッソに許しを請い、部屋の隅に置かれていたジェラルミンのカメラバッグを引きずり出してきた。ジョニーの部屋にあったバッグだ。留め金を外して蓋を開けると、中にはカメラとレンズ、フィルター類や小型のストロボなど、カメラ用の機材が入っていた。
「あんたがいる部屋にあったそうじゃな。写真は見つからんかった」ロッソが目をつぶったまま言った。 
「ジョニー・リーのものです」私は頷いた。隠す意味はなかった。
「クラークの話じゃあ、何やらこそこそ調べ回ってるらしいです」リッカルドが声を震わせながら言った。「この前も日本の新聞社に入っていったらしいです」
 私が伏木に会いに行った時のことを言っているようだった。
「いいかね、あんた、これはビジネスの話だ。時代も変わった。もうわしらもマシンガンやらピストルを振り回していていい時代じゃあない。いくらなら写真を譲ってくれるかね。それを欲しがっている人がおる。欲しいものは欲しい人の手に、それが資本主義というものじゃあないかね」老人はひどくゆっくりと、私を諭すような口調で言った。
「それは命令ですか。それとも依頼ですか」
「ロッソさん、面倒です。殺っちまいましょう。写真は後から見つければいい」リッカルドが焦れったそうに言った。
「黙っておれ!」突然、ロッソが目を大きく開き、リッカルドを睨み付けた。どこにそんな生気が残っているのか分からないほど凛とした声音だった。「お前のような若造に指図されるいわれはないわ」
 そう言うと、老人は再び激しく咳き込み、近くに控えていた白衣を着た貧相な顔立ちの男が駆け寄った。
 リッカルドはびくんと身体を震わせて小さく縮こまった。
 医師が口の周りの泡をタオルで拭くと、老人は小さな子供を見るような表情を浮かべた。「リッカルド、いい子だ。その客人の手錠を外しておやり」
「でも、ロッソさん・・・」
「わしは二度は言わん」厳とした岩のような声だった。
 不承不承、震える手でリッカルドはポケットから鍵を取り出し、私の手から鋼の戒めを外した。私を睨み付ける目が、いつか殺してやるとでも言わんばかりだった。
 私は手首に付いた鋼の跡をさすりながら、老人に礼を言った。少なくとも手錠を外してもらえたのは彼のおかげだった。
「ロッソさん。あなたは王老人のことを話していた。あなたは王老人に似ている。眠っているようで、一度目を覚ませば誰も何も言えない」
 老人はクックックッと笑い声を漏らした。「若いの。あんたは恐れを知らん、面白い男だ。確かにわしは王と似ておるかも知れん。殺し合いを続けているうちに、お互いに似通ってきたのかも知れんな。昔、中国には清という国があってな、わしの父親がよく話してくれたものよ。誰もがあの国を恐れていて、眠れる獅子と言われておった。じゃが、イギリスに蹂躙されても、あの国は起きなんだ。ずっと眠ったままだったのだよ。王も寝たまま生き続けるじゃろうて」
「あなたはどうなんですか」
「わしか。わしはもう疲れた。わしももう長くはない。この期に及んで人の血を見たくはないさ。そうしたことは若い者のやることだ。あんたを殺してイーストリバーに捨ててこさせるのは簡単だ。この街では、何人もそうやって消えていくんだからな」
 老人は、垂れ下がった目蓋の下から見上げるように私を眺め、薄ら笑いを浮かべた。「じゃが、外国人のあんたをそうやって消すのは面倒なのさ。市長にも迷惑がかかる」
「李祥榮の父親を殺したのもあなたですか」
「リー?」老人は怪訝そうな顔をした。「おお、あの小倅の父親か。人は簡単に死ぬものさ。あんたは蟻をつぶしたことはあるかな」
「子供の頃なら」私は答えた。
「わしは大人になってからも、たかってくる蟻をつぶしてきた。噛み付こうとする蟻はみなつぶしてきた。そうやってわしは生きてきた」目蓋の下から、老人は私をじろりと見つめた。亡者のような目だった。死神に魅入られている男の目だった。私の背筋が凍り付いた。
「なぜ、彼らと手を結ぼうとしないのですか。あなた方が手を結べば、この国を思い通りにすることもできるはずだ」
 老人は咳き込むように笑った。「あんたは面白い男だな。わしにそんなことを言った者は初めてだ。わしの故郷にはこんな言葉がある。蝉は蝉に親しく、蟻は蟻に親しい、というてな。違う者が混じり合うのは難しいものじゃ」
「だから、李祥榮や彼の父親を殺した」
「それは奴らも同じことよ。おかげでわしも息子を失くした。古い恨みは、消えるのに時間がかかる。昔からの争いを解決する手段はわしには見つけられんかった」
「ぼくをどうするつもりですか」
「それはあんた次第だ。写真を渡せばよし、そうでなければ、あんたの後ろにいる若いのが、なんとかするだろうさ」
 背中に立ったリッカルドが、私の腰の辺りを堅いもので突いた。
 私はふうと息を吐いた。「分かりました。でも、今手元には無い。取りに行かせてもらいたい」
「あの、なんとかいった男はどうした」老人は首を曲げて、隣の男に声をかけた。「ほれ、FBIの何とかいう若造だ」
 中年の男が耳許で囁いた。
「帰った? わしに挨拶もせずにかね。もう一度呼び出しなさい。そう、今すぐだ」
 どうやらクラークという男は本当にFBI捜査官のようだった。
「あんたは不思議がっているようだね」老人は私を見つめて言った。「なぜ、わしがFBIと仲が良いかとな」
 私は黙って頷いた。
「金と力は使いようと言うてな。わしらもいつまでも殺し合いをしているわけにはいかんのでな。それに弱みを持ったものは金か力で動かすのはたやすいものさ」
「FBI以外にも、手懐けているんですか」
「あんたが知る必要はないことさ」
 そう言うと、老人はまたごほごほと咳き込み始めた。身体を折り曲げ、息ができなくなったようにヒューヒューと気管が鳴った。
 白衣の男がコマネズミのように部屋の中を慌ただしく走り回り、看護婦を怒鳴りつけて酸素吸入器を持ってこさせ、マスクを老人の口に当てた。
 ヒューヒューと息を吐き、涙目になりながらも大きな声で叫んでいた。「デーレンダ エスト カルターゴー。デーレンダ エスト カルターゴー」私にはそう聞こえた。英語ではなかった。イタリア語かも知れなかったが、私には分からなかった。
 老人は苦しげに息を吐き出しながら、安楽椅子の上でのたうち回っていて、その上から白衣の男が覆い被さり、老人の身体をそらせて何とか呼吸をさせようとしていた。
「早くその男を連れていけ」影のように老人の横に寄り添っていた男が初めて大きな声を張り上げた。蝋人形ではなかったのだ。
 リッカルドは私の腕を掴むと、赤い死の部屋から引きずり出した。「ほら、早く来な。立ち止まるんじゃあねぇ」
 前を見ると、反対方向から廊下の幅いっぱいを塞ぐように男が急ぎ足で歩いてきた。男は私の顔を見ると、少々驚いた表情を浮かべ、次いで口元に薄ら笑いを浮かべた。
 私はその人物をどこかで見た気がしたが、思い出せなかった。
「おい、リッカルド、その日本人が例のあれか」
「はい、シニョール・モレッティ」かしこまった口調でリッカルドは直立姿勢を取った。
「写真は見つかったのか」
「いえ、これから取りに行かせます」
 モレッティは私をジロジロと観察すると、リッカルドの方を向いて真顔に戻った。「親父はどうした。また発作を起こしたと、あのヤブ医者が言ってきたぞ」
「はい・・・。今、酸素吸入をしているところです」
「そうか・・・。それで、親父は何か言っていたか」
「delenda est Carthago、と」
 モレッティは口をあんぐりと開き、目を丸くした。「親父はそう言ったのか。おい、本当だな」
「う、嘘なんかじゃありません。シチリアのお袋に誓って本当だ」
「そうか・・・」呆然としたまま、モレッティはリッカルドを突き飛ばし、ジャンニ・ロッソのいる赤の部屋へ幽鬼のようにフラフラと向かった。
 その後ろ姿をぼーっと見つめているリッカルドに私は言った。「おい、あれはいったい何のことだ。どういう意味だ」
 はっと振り向くと、リッカルドは私を睨み付けた。「お前の知ったことじゃあねぇ」
「彼は何をしようとしているんだ」
「貴様、今ここで死にてぇか」リッカルドが銃を抜いた。
 この狂犬を止められる者がいない今、私は黙らざるを得なかった。
「さあ、写真を取りに行くぞ。とっとと案内しな」


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■最後のさよなら■ 第22回

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 アパートに戻って二階に上がると、煙草を廊下で吸っていた隣人が私の顔を見るや否や、部屋に入り、ドアをバタンと閉めた。急に悪意と猜疑心がこの街を覆ってしまったようだった。
 テレビをつけるとケーブルテレビから地上波まで、子供向け番組専門局を除くあらゆる放送局が臨時ニュースを放映していた。
 CNNは記者会見の様子を写していたテレビカメラの映像を流していた。アントニオ・ビエリ市長が歳費の削減とニューヨーク市の経済状況について話しているところだった。イタリア系移民からニューヨーク市長にのし上がり、不法移民対策や治安維持に力を入れて、市民の多くからは評価され、一部の市民からは毛嫌いされている人物だった。市長の後ろにいたライアン・オニール上院議員が背後に立っている男に声をかける様子がカメラにとらえられていた。後ろにいたのはオニール議員から先ほど選挙参謀として紹介されたバリゴッツィだった。
 やがて市長の演説が終わり、オニール議員が紹介されて、二人が演台に並んだ時に銃声が鳴り響いた。
 画面の中で、「きゃー」「逃げろ」「助けて」という悲鳴に続き、「あいつだ」「あっちに逃げたぞ」という声が聞こえ、オニール議員とビエリ市長はボディガードに守られ、シティホールに入っていくところで映像は終わっていた。画面はスタジオに切り替わり、現在の市長と上院議員の様子を伝えた後、市警が緊急配備をしたにもかかわらず現行犯でスリを二人と、観光客相手に詐欺まがいの販売行為をしていたイラン人グループなどを捕まえただけに終わったことなどを真面目な口調で報じていた。 
 グリニッチヴィレッジ周辺も、警備が厳しくなっているのは分かり切っていたため、今日は食事に出るのを止め、同じ記者会見の映像を数十回見ているうちに、ソファで眠ってしまっていたようだった。部屋の外でパトカーのサイレンがいやに何度も鳴っているなと思っていたが、それはドアのベルを鳴らす音だった。
 寝惚けた頭を振りながらドアを開けると、どこかで見たことがある顔の男が立っていた。神経質そうな細面の顔に銀縁の眼鏡をかけ、髪は短めに刈っており、バーバリーのレインコートを着て、地味なチェックのマフラーを首に巻いていた。どこで会ってもおかしくない平凡な日本人の顔だった。どこで会ったのか思い出そうとしている私の表情を見て、男は先に名乗った。村井というニューヨーク領事館の領事だった。
 部屋の外を見ると、彼がベルを何度も鳴らしたためか、隣人がドアを薄く開けてこちらを盗み見ていたので、私は村井を部屋に入れざるを得なかった。
 部屋に入ると、村井はコートを脱ぎ、入り口で突っ立ったまま静かな声で言った。「草薙さん。今日の事件はご存じですね」
「どの事件のことですか。ブルックリンの川が凍ってアヒルが凍死したっていうのが事件というのなら、今朝の新聞で読んだ」
「ふざけないでください」村井は真顔だった。
 私は肩をすくめ、ソファに座るように勧めた。時計を見ると七時を回っていたので、ビールを勧めたが、彼は勤務中なので、と断った。私は近くの酒屋で買ってきたボストン産のラガービールの瓶を手に取り、彼の向かいに座った。
「本来なら、あなたとこうやって接触するのが正しいのかどうか、私には分からない」と、村井は言った。
「まるで病原菌扱いですね。ゴム手袋をして、ピンセットを持ってきたらどうです?」
 村井は私の言ったことを無視した。「来月帰任するんです。急遽決まったんです」
 彼が何を話そうとしているのか、私には予想がつかなかったので、「それは残念でしたね」と言っておいた。
「いやいや却ってホッとしていますよ」村井は苦笑した。それで、私は彼が笑えることを初めて知った。「外務省の連中は総領事から副領事まで、毎日のパーティのことと週末のゴルフのこと、日本から来た政治家にゴマをすることしか考えていない」
「そうした愚痴を言うのは公務員の守秘義務違反ではないんですか? 外務省の重大な秘密を漏らしているようだ」
「なるほど。では私にもビールを一本いただけませんか? 酒の席の愚痴なら言い訳になる。今日は業務終了としよう」
 冷蔵庫から私と同じサミュエル・アダムズを一本取って村井に渡した。瓶の蓋を手で回して外し、口を付けてから村井は言った。「失礼だが、あなたの日本での活動履歴を調べさせてもらった。大学の専攻内容から、取っていた授業やゼミ、あなたの身内に関する情報、職歴と辞めた理由、思想や信条などなど」
「ぼくが禁煙した理由も分かりましたか」
 村井はぽかんと口を開け、首を振った。「それは分からなかった」
「死んだ妻が嫌いだったんです。洋服が臭くなると言ってね」
「そう言えば、奥さんは亡くなっていましたね」
「それで、ぼくのことで何か分かりましたか」と、私は訊いた
 瓶に口をつけて一口飲むと渋そうな表情をした。あまり酒は飲まないようだ。
「大したことは分かりません」村井はスーツのポケットから黒革の手帳を取り出した。「大学を卒業後、新日本新聞に入社。地方支局で勤務した後に本社に戻って社会部に配属。政治部に異動して与党政治家の汚職をスクープして新聞協会賞を受賞。退職後はフリーのジャーナリストとして活動しており、いくつかの著作もある。両親ともに亡くなっていて、子供が一人。義理の父親は元国会議員。思想的・政治的な背景は特になし。犯罪履歴は駐車違反で反則切符を切られたのが三回、公務執行妨害で一度、留置場に入れられており、暴力団事務所に殴り込んだ傷害事件では不起訴処分になっている」
 感情を一切排した口調だった。私は出来の悪い通信簿を厳格な教師に読み上げられている生徒のような気分だった。
「もう十分です。でも、酔って交番の横で立ち小便をしたことはバレていないようだ」
「リストに載せておきます」村井は面白くもなさそうに私をじっと見つめた。「あなたはどうしていつもそんな軽口を叩くんですか」
「アンディ・カウフマンほどじゃありませんよ」と、私は言った。「彼には敵わない」
「まあいい」彼はパタンと手帳を閉じた。「私が今日来たのは、あなたと早死にしたコメディアンの話をするためじゃあない」
 私は肩をすくめた。カウフマンを知っているのに、くすりとも笑わないのだから、よほどのへそ曲がりか、笑うことが嫌いなのだ。仕方なく私は本題に入ることにした。「あなたは前に市警で会った時、警察庁の出身だと言っていたが、本当は公安調査庁なんじゃないですか?」
「まあそんなところです」村井は一口しか飲んでいないビール瓶をテーブルに置いた。「分かっているなら話が早い。なぜ、私があなたのことをこうして気にかけているか分かりますか」
「ぼくがジョニー・リー爆殺に関わっていると思ったからですね」 村井は首を振った。「そうじゃありません。あなたが彼を殺したとは思っていない。この国の警察当局もそうは思っていません。あなたが容疑者だったら、今頃は裁判所で有罪の評決が出ているか、何かの手違いで審理が遅れているならあなたは高い弁護士費用をどうやって工面するか頭を悩ましているところですよ。この国はそうしたことにかけてはやることが早いですからね」
「では、どうして・・・」
「あの時の事件で死亡した李祥榮という人物とずいぶん前から知り合いのようですね」
「サラエボ以来です。ボスニア内戦の取材で知り合ったんです。九四年だった」
「なるほど」村井は手帳を開いて、メモを取った。「それ以来の仲というわけですね。彼がどんな人物かはご存じでしたか」
「どういう意味です? ニューヨーク・タイムズの契約カメラマンだったが、サラエボで負傷して、帰国した後は父親の仕事を継いだということくらいしか、ぼくは知らない」
「なるほど」再びメモを取る。「それでは、貿易会社の経営者という表の顔のほかに、非合法組織を率いていた裏の顔はご存じない?」
 私は何と答えるべきか言葉を失っていた。ジョニーの態度から薄々は想像していたが、面と向かって他人から指摘されるのは、友人の零点の答案用紙を目の前に突きつけられたように気分のよいものではなかった。
「李祥榮という人物に対しては国外での武器密輸やヨーロッパや中国などとの麻薬取引に関わっていた疑いが持たれていました。こうしたことはご存じですか」村井は意図してかどうか、能面のような無表情で私をじっと見つめていた。
 私は首を振った。「いえ、知りませんでした。彼とはそうした話はしなかった。彼が殺されたのはそれが理由なんですか?」
「分かりません。ただ、その可能性は高い。彼の組織はイタリア人のマフィア組織と抗争状態にあった」
「彼の組織はまだ存続しているんですか」
 村井は頷いた。「当局は彼の組織が報復に出ないか憂慮している」
「彼らは何をしようとしているのですか」
「分かりません」
「さっきの狙撃事件は彼らの仕業ですか。東洋系の男が現場から逃げたとテレビで言っていた。彼らは何が目的なんですか」
「分かりません。私もすべての情報を持っているわけじゃあない。だが、あなたらしくないですね。常に疑うのが正しいジャーナリストというものではないのですか」
「ぼくもすべての情報を握っているわけじゃあない。ほとんど部外者なんです」
「その通りです。でも、だからこそ問題なんだ」彼は公安の人間らしく、もったいぶって謎めいた話し方をした。それでも彼にしてみれば、ずいぶんいろいろなことをしゃべっている方なのだろう。
 村井はビール瓶を持ち上げ、胴回りに貼られた青いラベルを眺めた。サミュエル・アダムズという文字の下で、泡があふれたビアジョッキを持ち上げている男の絵が描かれていた。「草薙さん、ご存じでしたか? このサミュエル・アダムズという人物は一七七三年にボストンで事件を起こして、この国が独立のためにイギリスと戦争を始めるきっかけを作った男なんですよ」
 私は首を振った。「知りませんでした。歴史にずいぶん詳しいんですね」
「ボストン港でイギリス人が運んできた紅茶の箱を海に投げ捨てたんです。もったいないことをしたものだ」
「きっとムシの居所でも悪かったんでしょう」
 村井は瓶に口を付けず、持ち上げていたボトルをテーブルに戻した。「だが、きっかけはそんなことでも、歴史は大きく動いた。突くところを間違えなければ岩山でも動くものです」
 私は彼が何を話そうとしているのか分からなかった。
「あなたは、ぼくにどうして欲しいのですか」私は訊いた。
「何も」と、村井は言った。「何もしないでいただきたい。彼の組織があなたに接触する可能性がある。あるいは彼の知り合いということでイタリア人側が接触する可能性もある。現にあなたは、彼が借りている部屋に住んでいますからね」
「それで、ジョニーが殺されたすぐ後、あなたが市警にやってきたんですか」
「そういうことです。彼はFBIの捜査リストに危険人物として載っていました。といっても重要度は低かったようですが。あなたが彼と接触しているという情報はFBIから警察庁を通じて、公安調査庁にも入ってきていました。あの日、彼がワシントン広場で爆死し、その現場にあなたがいたという一報が入りました。情報が錯綜していて、私はあなたを調べるようにと日本から命令されたのです。あなたが李祥榮の組織と連絡を取っている可能性があるという情報があったのです。だが、どうやら誤りだったようだ」
「なるほど」私は頷いた。
 FBIの捜査官が私の部屋を訪れたのはそれが理由だったのだ。
 村井は私のまだ散らかったままの部屋を見回した。「そういうことです。ですから、お詫びと挨拶も兼ねて今日伺ったわけです。何があっても、あなたは関わらないでいただきたい。それが日本の国益に適った行動です。本当ならこの部屋をすぐに出て、帰国してもらいたいところです。私の元の上司は何か理由をつけて、あなたを強制送還させるようにしたらどうかと言ってきた」
「そうするつもりはないのですか」
「あなたは一般の市民だ。しかも悪いことにジャーナリストだ。それに、無理強いするのは私の望むところではありません。公安は国民の評判が悪いですからね。これ以上悪者にはなる必要はない。第一、私は今ニューヨーク領事館に出向中なんです。私が帰任するまでは、厄介事を起こしてもらいたくない。そういうことです」
「帰任してからなら、かまわないんですか」
「公安の人間とはいえ、ただのサラリーマンですからね。そんな先のことまで面倒は見切れない」
「分かりました」私は頷いた。「でも、どうしてぼくにそこまで話してくれるんですか」
「どうしてでしょうね。」村井は表情を崩した。笑いたいのか、泣きたいのか、それとも怒っているのか判断しかねる表情だった。「朝から晩まで他人を疑っている仕事をしていると、たまには人間らしい会話がしたくなるものだ」
「それなら、ぼくは一番不適当な人間だ」
「そうかも知れません」笑っているのかも知れなかった。「だが、もうどうでもいいんです」
 村井は立ち上がり、手を差し出した。アメリカに長い間暮らしていると日本人同士でもつい手が出るものだ。
 私は彼の手を握った。温かくて冷たい奇妙な感触だった。機械のようになろうとしてなれなかった手のようだった。
「御機嫌よう」と、彼は言った。「もう会うこともないでしょう」
「さよなら」私は言った。
 部屋から村井を送り出し、私は彼がほとんど口をつけなかったビールを流しに捨てた。ラベルに印刷されたサミュエルは茶色いベストを着ていて、にこやかに微笑んでいた。私はなぜだか、ジョニー・リーの顔を思い出した。

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■最後のさよなら■ 第21回

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<20>


 翌日はみぞれのような冷たい雨が降った。冬の雨は雪よりも始末に負えない。
 私は紺色のスーツにエンジ色のネクタイを締め、爪先の革が剥げたプレーントウを履き、レインコートを着込んだ。冠婚葬祭に出かけても恥ずかしくない格好だ。約束の二時まではかっきり一時間あったが、この雨ではイエローキャブをつかまえるのが難しいかも知れず、早めに出ることにした。サニャとは二時十分前にウォルドルフ・アストリアのロビーで待ち合わせることになっていた。
 手袋を探し出して、部屋を出ようとした瞬間、誰かがドアをノックした。ドアの覗き穴から見ると、ニューヨーク市警のルイス警部とスミス刑事が立っていた。ルイス警部は黒いフェルトのソフト帽をかぶっていてひどく不機嫌そうな顔をしていたので、私は居留守を決め込もうかと思ったが、何度もドアを叩かれ、根負けして応対することに決めた。あまり放っておくと、隣人にまた文句を言われかねなかったからだ。
 努めて笑顔を浮かべながら、ドアを開けたが、私の努力は実を結ばなかった。ルイス警部は太めの腹を揺すりながら、むすっとした表情のまま部屋に入ってきた。スミス刑事は新米の警察官のように警部の後についてきた。
「どうしたんです? そろそろ出かけるところなんですがね」
「何の用かね。こんな天気の日にパーティでもあるのか」ギョロッとした目で私の格好を見て、ルイス警部は言った。
「ご機嫌斜めみたいですね。天気のせいですか」
「なめた口をきいているんじゃないぞ、日本人」
 ルイス警部はフェルト帽を取り、パタパタとはたいた。板敷きの床で水滴が玉になった。
 どうやら本当に怒っているようだった。
「何かあったんですか。あと十分で出かけないと間に合わない。あまり時間が無いんだ」
「知っていることを全部話せと言ったはずだ」
「だから何の話ですか?」
 訳が分からなかった。
「FBIから依頼があったよ。あんたが何をしようとしているか、調べてほしいとな」
「FBI?」
 ジョニーが死んだ日にやってきた捜査官だろうか。
「そうだ。FBIがあんたに興味を持っている。極秘で調べて欲しいと言ってきた」
「極秘?」
 私の部屋を訪ねてきて、どこが極秘の調査なのだろう。第一、私が何をしたというのだ。
「俺はFBIのやり方は好かん。それに、あんたが何かをしでかそうとしているとは思っていないんだ。だからこうしてやってきた。だが、何かを隠しているんじゃあないかとは思っている。あんた、何を隠しているんだ」
「何の話か分からない。警部と会ってから、友人と酒を飲みに行ったし、女性とも食事をした。それが法律に触れるとは思えない」
 どうやら、誰も彼もが私が何か素敵なモノを隠しているに違いないと思っているようだった。おそらく私は自分が知らないようなとてつもない財宝を隠しているのだ。誰もが探していて見つからないもの、きっとそれほど素晴らしいものに違いなかった。私はため息をつき、ろくでもないことを考えるのは止めにした。
 ルイス警部は散らかったままの部屋を見回していた。そしてテーブルに置いてあったプレイボーイを取り上げ、ペラペラをめくると、パンパンと叩いて、コーヒーテーブルの上に放った。
「最近、リトルイタリーにはいつ行った?」
「リトルイタリー?」私は首を傾げた。「ニューヨークに来てからはまだ一度も行っていませんね。イタリア料理は好物だが、食うなと言うなら少しは節制してもいい。毎日食べてるピザを三日に一度に減らしても構わない。ジェラートを食べるのも止めよう。あなたが、ちゃんと理由を教えてくれるならですが」
 ルイス警部は私の言うことなど聞いていないようだった。
「いいかね。今後この街で中国人とイタリア人には一切関わるな。この街にまだいるつもりなら、俺の言うことを聞くことだ」
 中国人というのは王老人や梅鈴たちのことだろうか。だが、イタリア人というのはいったい何のことだ。警部は何かを誤解しているに違いなかった。
 私は腕時計に目をやった。一時二十分になっていた。
「ウォルドルフ・アストリアまで行かなければならない。もう行ってもいいですか?」
「まあいいだろう。こっちも捜査がある。こんな天気なのに、次はハーレムまで行かにゃならん」
「どうせ車で移動するなら、ホテルまで連れていってくれませんか? 美人と待ち合わせなんです」
 嘘ではないが私はますます彼らの心証を悪くしたようだった。ルイス警部とスミス刑事はじろりと私を睨むと部屋から出ていった。
 二人が部屋を出てから、かっきり二分だけ待って、私は部屋を出た。ドアの鍵を閉めていると、隣人がドアをペーパーバックほどの隙間を開けて、私に声をかけた。
「あんた、いったい何をしたの。いい加減にしてちょうだい」彼女はこれから勤めに出るところだったのか、濃いマスカラをしていたが、無精髭が伸びたままだった。
「すまなかった。これから大統領と会食なんだ。髭を剃っていたところだ」
 私がそう言うと、彼女はバタンとドアを閉めた。どうやら私は頭がイカレているとでも思っているらしかった。
 警官をからかって喜んでいるのだ。確かにイカレていたのかも知れなかった。


 イエローキャブはアパートの前ですぐに捕まったが、雨のせいで道が渋滞しており、パーク街とレキシントン街という二つの大通りに挟まれたウォルドルフ・アストリアに到着した時には、一時五十分をとうに過ぎていた。私はホテルの中のエスカレーターを駆け上り、ロビーで大きなカメラバッグを肩から提げ、当惑した表情で立っているサニャの手を掴むと、そのままエレベーターホールに向かい、上りボタンを押した。
 ほかの客と一緒にエレベーターに乗り込むと、サニャが私の耳許で囁いた。「どうしたの、遅かったわね。そんなに息を切らせて大丈夫?」
 私は深呼吸をしながら笑いかけた。「大丈夫だ。でも未来の大統領になるかも知れない人物だ。敬意は払わないとね。ホワイトハウスに招待してもらえなくなる」
 私がそう言うと、サニャではなく、エレベーターに乗っていたほかの客がひそひそと話し始めた。私はまた余計なことを言ったようだった。
 額の汗を拭い、コートを脱いでいると、サニャが私の首元に手をやり、曲がったネクタイを直してくれた。これで戦闘態勢は整った。私は大きく息を吸った。
 指定された部屋がある階はすべてスイートばかりのようで、ドアの数が極端に少なかった。正確に二時ちょうど、私はドアをノックした。
 ドアを開けたのは黒いスーツにサングラスをかけた軍人のような体格の男だった。ジョニーの葬儀の時にも上院議員の横についていた男かも知れなかったが、彼らはみんな似たように見えるため区別はつけられなかった。
 男は無言で私とサニャを部屋に入れると、ドアのすぐ内側の廊下で制止し、荷物を渡すように言った。男のすぐ後ろには、もう一人、同じような体格の男が腰に手を当てて立っていて、私たちを無表情にじっと見つめていた。
 私は男に鞄を渡し、ペンとノートしか入っていないことを改めさせた。それから上着と靴を脱がされ、金属探知器で全身くまなく調べられた。財布は中身をクレジットカード一枚ごとに調べられ、コイン入れの小銭まで確認された。私は自分が丸裸にされたような気がしてきた。
 続いてサニャの顔を見て、男は困ったような表情を浮かべた。私は写真を撮影するのが女性とは伝えていなかったのだ。しかし、すぐに元の無表情に戻り、彼女が持ってきた鞄の中身をひっくり返して、カメラだけでなく、フィルムを一本ずつ改めていった。彼女の身体に手を触れることはしなかったが、代わりにやりすぎと思えるくらい、彼女の身体の隅々まで金属探知器で調べ回した。サニャはじっと立ったまま、拳を握りしめ、下唇を噛んでいた。
 身体検査は十分以上かかった。ようやく満足したのか、男は無言のまま私たちをスイートのリビングに連れていった。ニューヨークのホテルにしては天井が高く、中央からシャンデリアが下がっていて、ロココ調の家具が置かれていた。続き部屋の寝室の扉は閉ざされていて、リビングには、数人がいた。ボディガードと思しき男たちが四人、リビングの四隅に立っていた。私たちを身体検査した男と、それを見守っていた男を入れると六人。バーカウンターのストゥールには丸眼鏡をかけた小柄な男が腰掛けていた。頭をぺったりと撫で付け、細身のアタッシェケースを大切そうに抱えていた。会計簿をチェックしている税理士のような雰囲気の男だった。税理士から一歩離れてバーカウンターにもたれかかっている背の高い女性がいた。眼鏡をかけて、髪を後ろにまとめ、真っ赤なスーツを着ていた。化粧っけが無いのが妙に違和感を感じさせた。彼女は近づいてきて、秘書のアン・オコナーだと自己紹介した。
 私は彼女の顔を見つめた。機械ではなかったのだ。
 部屋の中央には過度に装飾を施したソファが置かれ、私たちに背を向けて男が一人座っており、その横にもう一人男が座っていた。
「上院議員」
 真っ赤なスーツのオコナー女史が口を開くと、私たちに背を向けていた男が肩越しに振り返って私の顔を見た。男はソファから立ち上がると、満面に笑みを浮かべて近づいてきた。ライアン・オニールその人だった。「やあ、よく来てくれたね」
 上院議員は大仰な身振りで両手を広げ、私の両肩をパンパンと叩き、自ら握手を求め、私の手を堅く握りしめた。ぬめっとした感触の大きな手だった。そのまま抱きつかれるのではないかと身構えたが、彼はそうはしなかった。顔は笑っていたが、目は決して笑っていなかった。政治家になるために生まれたような人物だった。
 オニール議員は私の後ろに隠れるように立っていたサニャに気が付くと、今度は作り物ではない笑顔を浮かべた。「これはこれは、素敵なレディだ。あなたのような美しい女性に写真を撮られるとは光栄だ」
 上院議員は私にソファを勧め、オコナー女史に飲み物を持ってくるように頼んだ。
「紹介しよう」
 先ほどまで議員と話していた男が立ち上がり、私たちに一礼した。
「私の古くからの友人なんだ。ジャンカルロ・バリゴッツィ君だよ。彼は私の選挙参謀を務めてくれていてね、インタビューの前にちょっとした相談をしていたところなんだ」
 バリゴッツィは紺色のソフトスーツを着たがっちりとした体格の男で、鋭い目つきと大きなわし鼻を持っていた。ボディガードでも税理士でもなさそうで、強いて言えば大企業の副社長といった雰囲気だった。
「どうぞ、私のことは気にせんで続けてくれたまえ」バリゴッツィは大袈裟な身振りでソファにふんぞり返り、堅太りした脚を組んだ。
 ボディガードの男たちやオコナー女史が見つめる中、サニャは持ってきたライトのセッティングを始めた。部屋の暖房のせいで、彼女はうっすらと額に汗をかいていた。
 私はライアン・オニール上院議員の向かいに座り、メモ用紙を準備した。彼の要求でインタビューの録音は禁じられていたため、彼の言葉のメモを取らなければならなかったのだ。
 私は用意していた質問を未来の大統領になるかも知れない男に投げかけた。
 彼は、なぜアメリカが強くなくてはならないのか、アメリカが強いことで世界はどう変わっていくのかという自説を滔々と語った。時に大きな身振りで、時にジョークを交え、彼は決して魅力的な笑顔を絶やさずに私の質問に答えていた。
 立て板に水という奴だ。分厚い想定問答集が用意されていて、どんなに鋭い質問を投げかけられても当たり障りなく応えられる術を彼らは身につけているのだ。
 つやつやした毛足のグレーのスーツに青と緑のレジメンタルタイを結び、堂々と語りかけるその姿は、八割方は演技が混じっていたとしても、十分に彼の支持者を満足させるものだった。伊達に上院議員を何年も務めてきたわけではない。支持者だけでなく、犬や猫でも彼の演説に参ってしまいそうだった。
 サニャがシャッターを押す度にフラッシュがたかれ、オニール議員はにっこりと微笑んだ。まるでマネキンに話しかけているみたいだ。私はそう思った。彼は何を語るべきかを知っていた。しかし、それはまるでロボットが人間の問いかけに正確に反応しているのと変わりはなかった。
 インタビューを始めて、二十分ほどが経った頃だろうか。バリゴッツィが上院議員に目配せをして、両手をパンと叩き合わせた。「さて、インタビューはこれでお終いだ」
 オニール議員はソファ越しにオコナー女史とボディガードの方を振り向いて言った。「君たちは少し外していてくれないか。私は彼と話したいことがあるんだ」
 私とサニャが当惑して、対応できずにいる間に、ボディガードの男たちとオコナー女史、カウンターでちびちびとグラスに口を付けていた小男は最初から心得ていたように部屋を出ていった。隣のソファに座っているバリゴッツィだけがニヤニヤしながら、私たちの当惑した表情を眺めていた。
「上院議員、いったいどういうことですか」私は彼に問いかけた。
「オコナー君は、インタビューを受けるのは三十分だけだと話したと思うがね」今まで、人形のように私の質問に答えていた男は突然、狡賢なキツネに変わったようだった。まるで元の人間に戻るのが嬉しくてたまらないと言うような笑みを口元に浮かべていた。
 テーブルの端に置かれていた葉巻入れを開けて、口を切っていない真新しい葉巻を取り出し、葉巻切りを使って端を切り取った。バリゴッツィが金色のライターを取り出し、火を点けるのを助けた。
「それで君たちの目的は何なんだね」オニール上院議員は、葉巻の煙を肺いっぱい吸い込み、大きな息とともに吐き出した。
 サニャが写真を撮るのを止め、カメラを抱くように持ったまま、私の隣に座った。彼女の鼓動が聞こえてきそうな距離だった。
「何のことですか」私は用心しながら口を開いた。
「とぼけなくていい。本当はインタビューにかこつけて、私と話をしようということだったのだろう。ボディガードと秘書は外させた。バリゴッツィ君には残ってもらったがね。話を聞こうじゃないか」
 私は長い間、疑問に思っていたことを口にした。「ジョニー・リーとはどのような関係だったんですか」
「ジョニー?」
「あなたは彼の葬儀に来ましたね」
 上院議員は狡猾そうな光を目の端に浮かべ、口元に薄い笑いを浮かべた。「そうか。君は彼の知り合いだったか」
「友人でした。サラエボで彼と知り合った。ここにいるサニャはサラエボで生まれ育ちました」
「ほう、それはそれは」
 彼の頭の中で猛烈な勢いで何かが計算されているようだった。どう答えるべきかをシミュレーションしているのだ。
「いろいろ大変な想いをされたみたいだね」値踏みをするようにサニャのことを観察していた。
 続いて彼の口から出てきたのは、当たり障りのない言葉だった。「彼の父親と私は一時期、仕事をしていたことがあるのだよ。その縁で彼のことは知っていてね」
「彼の死の原因をご存じなのではありませんか」
「ふむう」上院議員は何かを考え込んでいるようだった。「彼は自動車事故で亡くなったと聞いているがね。そうじゃなかったのかね」
「分かりません。でも少なくとも普通の事故じゃないと、ぼくは思っています」
「なるほど。私に何ができるか分からないが、できる限りの支援をしよう。それでいいかね」彼は支持者に見せる笑顔を私に向けた。
私は何も言えなかった。こんな時は何を言えばいいのだろう。感激して、彼の手を握りしめればよいのだろうか。
 やがて、バリゴッツィが身を乗り出した。「上院議員、そろそろ時間です」
 上院議員の表情が元の人形のそれに戻った瞬間だった。腕の時計にちらりと目をやると、スーツの乱れを直し、すくっと立ち上がった。「さて、諸君。実に有意義な時間だった。すまないが、私はバリゴッツィ君と一緒に出かけなければならん。これから市長と約束があるんだ。記者会見を行わなければならん」
 私とサニャもつられて立ち上がった。
 上院議員は私に手を差し出し、力を入れて握りしめた。サニャの手を握った時、彼の目には奇妙な光が浮かんでいた。「いつかまた、ゆっくりと話ができるのを楽しみにしているよ」と、言った。
 私とサニャを残し、バリゴッツィとともに部屋から出ていく後ろ姿を見ながら、私は背中に汗をかいていることに気が付いた。
 私のスーツの肘の辺りをサニャは堅く掴んでいたのに気が付いたのは、彼らが部屋からいなくなってしばらくしてからだった。
「ごめんなさい。」サニャが謝った。
「なぜ君が謝るんだ」
「分からないわ」サニャは頭を振った。「でもなぜだか怖かったの」
 サニャは震えていた。ライオンに睨まれ、すくんで走れなくなった牝鹿のようだった。
 それは私も同じだった。私自身が震えていることに気が付いたのは、それからさらに時間が経ってからだった。


 私たちはカメラやスポットライトなど撮影用の機材を片づけ、誰もいなくなったスイートルームを出た。
 ホテルのロビーに降りて、私は封筒に入れて持ってきていたジョニーのネガフィルムを彼女に渡した。
「これは?」サニャが封筒を明かりに透かした。
「ジョニーがカメラの中に隠していた写真のフィルムだ。何が写っているのか分からない。でも、見たところ人物を撮影した写真みたいだ。彼はこの写真を持っていたことで殺されたのかも知れない」
 サニャは緊張した面持ちで私を見つめた。
「何が写っているのか知りたいんだ。街のラボで現像してもらわうのは気が進まない。君に頼めないか?」
 考え込むような表情でサニャは俯き、やがて顔を上げて私をじっと見た。「この写真を見て、あなたはどうするつもりなの?」
「分からない」私は首を振った。「でも、ここにはジョニーが殺された真相が写っているかも知れない。彼のために何かできることがあるなら、それが何なのかぼくは知りたいんだ」
「それが彼のためにならないかも知れなくても?」と、サニャは言った。
「どういう意味だい?」
「ごめんなさい」サニャは俯いた。
「なぜ君が謝る?」
「何でもないの」そう言って、彼女は首を振った。
「君はジョニーのことで何かを知っているのか」
 彼女は押し黙り、やがて再び首を振った。「いいえ。ただ、そんな気がしただけ」
「写真に何が写っているか知っているんじゃないのか」
「いいえ」サニャが首を振る「分かったわ。それであなたの気が済むなら」
 サニャは私の手から封筒を手に取った。「現像すればいいのね?」
 私は頷いた。
「これから写真学校に行く予定だから、そこで現像してあげる。今日のインタビューの写真と一緒に渡すわ」
「ありがとう」
 カメラのバッグを肩から提げ、歩いていくサニャの背中を見ながら、なぜだか私は彼女に頼んだことを後悔し始めていた。


 雨があがったので、私は混雑した地上ではなく、地下鉄を使って帰ることにした。マンハッタンの地下鉄はいつ列車がやってくるか予想がつかず、お世辞にも車内はきれいとは言い難かったが、慣れてしまえば使いやすく便利な交通機関だった。チャイナタウン近くの駅で降りて、九龍飯店を覗いてみると「臨時休業」の札がかかっていた。
 しばらくの間、交差点の陰から店を見ていたが、店の中には何の動きもなく、私はアパートに戻ることにした。途中、ハウストン通りの南側にかたまっている絵画のギャラリーを冷やかしながら歩いていると、急に街全体が慌ただしくなり始めた。近くの通りを白と黒に塗り分けられたパトカーが何台も大きな音を立てて、走り抜けていった。パトカーはあちらこちらから集まっていて、まるでマンハッタン中の警察署から呼び出しがあったようだった。
 ギャラリーの中から店員が何人も顔を出し、不安そうな面持ちで何があったのかと噂しあっていた。私は近くに停まった車の運転手に声をかけ、何が起きたのかと訊いた。丸々とした顔の男が私を見て「撃たれた。テロだ」と口の端に泡を吹きながら怒鳴り、アクセルを踏み込んで走り去っていった。
 近くのコーヒーショップに駆け込むと、あちらこちらから集まってきた客が店の奥に吊されたテレビに釘付けになっており、店員も腕組みをして画面に見入っていた。誰もコーヒーを注文しようとはしていなかった。隙間から覗き込むと、ザーザーとノイズで荒れた画面の中でニュースキャスターの男性が緊張した面持ちで原稿を読んでいた。
「・・・シティホールの正面入り口で行われた記者会見の最中に、・・・が狙撃されました。幸いオニール上院議員とビエリ市長に怪我はありませんでしたが、石畳に跳ねた弾丸が列席していた書記官の腕に当たり、現在・・・病院で治療を受けています。繰り返します・・・本日午後、シティホールで行われた・・・」
「狙撃? テロなのか?」私は近くでテレビをじっと見入っている白人の男性に声をかけた。
 男は私の顔を見ると、急に表情を変えてじっと見つめ、何も言わずにテレビに視線を戻してしまった。ニュースキャスターが続ける。「繰り返します・・・現場近くで拳銃を持った東洋系の男が走り去る姿が目撃されたとの情報が寄せられました。現在、市警が市内全域に緊急配備体制を敷いて捜査を続けています・・・。繰り返します・・・」
 狙撃事件が起きたのはアントニオ・ビエリ市長とライアン・オニール議員の記者会見の最中だったようだ。私のインタビューが終わった直後だ。私はあの時のオニール議員の様子を思い起こしていた。
「新しい情報が入りました。ビエリ市長とともにシティホール内に避難したオニール上院議員が緊急の会見を行う模様です。会見が始まり次第、映像をお送りします」
 私の肩を誰かが掴んだ。「おい、あんた」
 白人の男が私のことを睨み付けていた。「市長たちを撃とうとしたのは東洋系の男だそうだな。あんたがそうなんじゃないのか」
「バカな・・・」取り合うのも馬鹿らしかった。
「おい」
 なおも声をかけてくる男を無視していると、男が私の肩を掴んで振り向かせようとした。
「止めてくれ」と、私は言った。
「なんだと、貴様」
 白人の男が手を振り上げようとするのを、隣にいた黒人が止めた。「いい加減にしろ。証拠も何も無いのに、他人を疑うのはよせ」
「はん、この街が腐りきってるのはこいつらのせいだ。お前もこいつらの味方なのか」
「おい、なんだって、もう一度言ってみろ」
 コーヒーショップの店内に険悪な空気が漂った。人が人を信じられなくなり、ほかの人種、民族を排斥しようとする。人類が数千年前から繰り返してきた愚かしい過ちの縮小版がここでも演じられようとしている。
「おい、見ろ」誰かが声をあげた。
 テレビの画面はいつの間にか切り替わって、オニール上院議員が大写しになっていた。「ニューヨーク市民の皆さん。そして、アメリカ国民の皆さん」厳粛な表情でカメラに向かって話しかけ始めていた。「・・・我々はこのような卑劣なテロ行為に決して屈することはなく、自由を愛しつつ、世界で最も強い国、アメリカを守り抜かなければならない。我々は犯人は必ず追いつめ、この愚かしい行いに対する制裁を受けさせなければならない。そのためには強力な指揮を執ることできる人間が必要であることも忘れないでいてもらいたい。自由の国、アメリカ万歳。私はいつもあなた方とともにいる。卑劣なテロリストには罰を、自由を愛する私たち国民には神のご加護を・・・」
 店内に拍手と歓声が沸き起こった。先ほどまで険悪な雰囲気を漂わせていた客たちが、彼の演説に感動をし、肩を叩き合っていた。
 私は熱く沸き立った渦の中で、一人冷めていた。彼の演説は力強く、感動的に聞こえるものだった。事件の直後で、市民が暴走しそうなほど興奮している中で行われた非常に効果的な演説で、市民一人一人の頭に焼き付く効果を持つに違いなかった。だが、それは一方で一歩間違えば、人々を危険な方向に導く煽動に近いものだった。
 私は興奮の声が沸き上がる店を出た。あちこちで、今行われている上院議員の演説に賛意を表明して、クラクションが鳴らされていた。パトカーがサイレンを鳴らして慌ただしく南に走っていった。
 狙撃事件が起きたシティホールは周囲を高いオフィスビルに囲まれた場所にあり、警備員がいるとはいえ正面の入り口は誰もが出入りできる公共の場だった。逆に言えば、狙撃をしようと考えるなら場所はいくらでもあるはずだった。なぜ、犯人はわざわざすぐに見つかるような場所から拳銃を撃つような真似をしたのだろうか。シティホールはチャイナタウンのすぐ西側だ。犯人は迷路のように細い路地が入り組んでいるチャイナタウンに逃げ込んだのかも知れなかった。もしかすると犯人は中国人なのかも知れない。
 そう考えて、私は首を振った。これでは私も店にいた連中と変わらない。証拠も何も無いのに状況だけで誰かを犯人扱いするのは愚かなことだ。
 今、チャイナタウンに戻るのはよした方がよいだろう。私はアパートに戻ることにした。街角にはあちこちに警官が出ており、何人かは私に身分証明書を見せるように要求し、パスポートを提示すると何度も私と写真を見比べていた。


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