■最後のさよなら■ 第22回 | KOZミステリーの部屋

■最後のさよなら■ 第22回

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 アパートに戻って二階に上がると、煙草を廊下で吸っていた隣人が私の顔を見るや否や、部屋に入り、ドアをバタンと閉めた。急に悪意と猜疑心がこの街を覆ってしまったようだった。
 テレビをつけるとケーブルテレビから地上波まで、子供向け番組専門局を除くあらゆる放送局が臨時ニュースを放映していた。
 CNNは記者会見の様子を写していたテレビカメラの映像を流していた。アントニオ・ビエリ市長が歳費の削減とニューヨーク市の経済状況について話しているところだった。イタリア系移民からニューヨーク市長にのし上がり、不法移民対策や治安維持に力を入れて、市民の多くからは評価され、一部の市民からは毛嫌いされている人物だった。市長の後ろにいたライアン・オニール上院議員が背後に立っている男に声をかける様子がカメラにとらえられていた。後ろにいたのはオニール議員から先ほど選挙参謀として紹介されたバリゴッツィだった。
 やがて市長の演説が終わり、オニール議員が紹介されて、二人が演台に並んだ時に銃声が鳴り響いた。
 画面の中で、「きゃー」「逃げろ」「助けて」という悲鳴に続き、「あいつだ」「あっちに逃げたぞ」という声が聞こえ、オニール議員とビエリ市長はボディガードに守られ、シティホールに入っていくところで映像は終わっていた。画面はスタジオに切り替わり、現在の市長と上院議員の様子を伝えた後、市警が緊急配備をしたにもかかわらず現行犯でスリを二人と、観光客相手に詐欺まがいの販売行為をしていたイラン人グループなどを捕まえただけに終わったことなどを真面目な口調で報じていた。 
 グリニッチヴィレッジ周辺も、警備が厳しくなっているのは分かり切っていたため、今日は食事に出るのを止め、同じ記者会見の映像を数十回見ているうちに、ソファで眠ってしまっていたようだった。部屋の外でパトカーのサイレンがいやに何度も鳴っているなと思っていたが、それはドアのベルを鳴らす音だった。
 寝惚けた頭を振りながらドアを開けると、どこかで見たことがある顔の男が立っていた。神経質そうな細面の顔に銀縁の眼鏡をかけ、髪は短めに刈っており、バーバリーのレインコートを着て、地味なチェックのマフラーを首に巻いていた。どこで会ってもおかしくない平凡な日本人の顔だった。どこで会ったのか思い出そうとしている私の表情を見て、男は先に名乗った。村井というニューヨーク領事館の領事だった。
 部屋の外を見ると、彼がベルを何度も鳴らしたためか、隣人がドアを薄く開けてこちらを盗み見ていたので、私は村井を部屋に入れざるを得なかった。
 部屋に入ると、村井はコートを脱ぎ、入り口で突っ立ったまま静かな声で言った。「草薙さん。今日の事件はご存じですね」
「どの事件のことですか。ブルックリンの川が凍ってアヒルが凍死したっていうのが事件というのなら、今朝の新聞で読んだ」
「ふざけないでください」村井は真顔だった。
 私は肩をすくめ、ソファに座るように勧めた。時計を見ると七時を回っていたので、ビールを勧めたが、彼は勤務中なので、と断った。私は近くの酒屋で買ってきたボストン産のラガービールの瓶を手に取り、彼の向かいに座った。
「本来なら、あなたとこうやって接触するのが正しいのかどうか、私には分からない」と、村井は言った。
「まるで病原菌扱いですね。ゴム手袋をして、ピンセットを持ってきたらどうです?」
 村井は私の言ったことを無視した。「来月帰任するんです。急遽決まったんです」
 彼が何を話そうとしているのか、私には予想がつかなかったので、「それは残念でしたね」と言っておいた。
「いやいや却ってホッとしていますよ」村井は苦笑した。それで、私は彼が笑えることを初めて知った。「外務省の連中は総領事から副領事まで、毎日のパーティのことと週末のゴルフのこと、日本から来た政治家にゴマをすることしか考えていない」
「そうした愚痴を言うのは公務員の守秘義務違反ではないんですか? 外務省の重大な秘密を漏らしているようだ」
「なるほど。では私にもビールを一本いただけませんか? 酒の席の愚痴なら言い訳になる。今日は業務終了としよう」
 冷蔵庫から私と同じサミュエル・アダムズを一本取って村井に渡した。瓶の蓋を手で回して外し、口を付けてから村井は言った。「失礼だが、あなたの日本での活動履歴を調べさせてもらった。大学の専攻内容から、取っていた授業やゼミ、あなたの身内に関する情報、職歴と辞めた理由、思想や信条などなど」
「ぼくが禁煙した理由も分かりましたか」
 村井はぽかんと口を開け、首を振った。「それは分からなかった」
「死んだ妻が嫌いだったんです。洋服が臭くなると言ってね」
「そう言えば、奥さんは亡くなっていましたね」
「それで、ぼくのことで何か分かりましたか」と、私は訊いた
 瓶に口をつけて一口飲むと渋そうな表情をした。あまり酒は飲まないようだ。
「大したことは分かりません」村井はスーツのポケットから黒革の手帳を取り出した。「大学を卒業後、新日本新聞に入社。地方支局で勤務した後に本社に戻って社会部に配属。政治部に異動して与党政治家の汚職をスクープして新聞協会賞を受賞。退職後はフリーのジャーナリストとして活動しており、いくつかの著作もある。両親ともに亡くなっていて、子供が一人。義理の父親は元国会議員。思想的・政治的な背景は特になし。犯罪履歴は駐車違反で反則切符を切られたのが三回、公務執行妨害で一度、留置場に入れられており、暴力団事務所に殴り込んだ傷害事件では不起訴処分になっている」
 感情を一切排した口調だった。私は出来の悪い通信簿を厳格な教師に読み上げられている生徒のような気分だった。
「もう十分です。でも、酔って交番の横で立ち小便をしたことはバレていないようだ」
「リストに載せておきます」村井は面白くもなさそうに私をじっと見つめた。「あなたはどうしていつもそんな軽口を叩くんですか」
「アンディ・カウフマンほどじゃありませんよ」と、私は言った。「彼には敵わない」
「まあいい」彼はパタンと手帳を閉じた。「私が今日来たのは、あなたと早死にしたコメディアンの話をするためじゃあない」
 私は肩をすくめた。カウフマンを知っているのに、くすりとも笑わないのだから、よほどのへそ曲がりか、笑うことが嫌いなのだ。仕方なく私は本題に入ることにした。「あなたは前に市警で会った時、警察庁の出身だと言っていたが、本当は公安調査庁なんじゃないですか?」
「まあそんなところです」村井は一口しか飲んでいないビール瓶をテーブルに置いた。「分かっているなら話が早い。なぜ、私があなたのことをこうして気にかけているか分かりますか」
「ぼくがジョニー・リー爆殺に関わっていると思ったからですね」 村井は首を振った。「そうじゃありません。あなたが彼を殺したとは思っていない。この国の警察当局もそうは思っていません。あなたが容疑者だったら、今頃は裁判所で有罪の評決が出ているか、何かの手違いで審理が遅れているならあなたは高い弁護士費用をどうやって工面するか頭を悩ましているところですよ。この国はそうしたことにかけてはやることが早いですからね」
「では、どうして・・・」
「あの時の事件で死亡した李祥榮という人物とずいぶん前から知り合いのようですね」
「サラエボ以来です。ボスニア内戦の取材で知り合ったんです。九四年だった」
「なるほど」村井は手帳を開いて、メモを取った。「それ以来の仲というわけですね。彼がどんな人物かはご存じでしたか」
「どういう意味です? ニューヨーク・タイムズの契約カメラマンだったが、サラエボで負傷して、帰国した後は父親の仕事を継いだということくらいしか、ぼくは知らない」
「なるほど」再びメモを取る。「それでは、貿易会社の経営者という表の顔のほかに、非合法組織を率いていた裏の顔はご存じない?」
 私は何と答えるべきか言葉を失っていた。ジョニーの態度から薄々は想像していたが、面と向かって他人から指摘されるのは、友人の零点の答案用紙を目の前に突きつけられたように気分のよいものではなかった。
「李祥榮という人物に対しては国外での武器密輸やヨーロッパや中国などとの麻薬取引に関わっていた疑いが持たれていました。こうしたことはご存じですか」村井は意図してかどうか、能面のような無表情で私をじっと見つめていた。
 私は首を振った。「いえ、知りませんでした。彼とはそうした話はしなかった。彼が殺されたのはそれが理由なんですか?」
「分かりません。ただ、その可能性は高い。彼の組織はイタリア人のマフィア組織と抗争状態にあった」
「彼の組織はまだ存続しているんですか」
 村井は頷いた。「当局は彼の組織が報復に出ないか憂慮している」
「彼らは何をしようとしているのですか」
「分かりません」
「さっきの狙撃事件は彼らの仕業ですか。東洋系の男が現場から逃げたとテレビで言っていた。彼らは何が目的なんですか」
「分かりません。私もすべての情報を持っているわけじゃあない。だが、あなたらしくないですね。常に疑うのが正しいジャーナリストというものではないのですか」
「ぼくもすべての情報を握っているわけじゃあない。ほとんど部外者なんです」
「その通りです。でも、だからこそ問題なんだ」彼は公安の人間らしく、もったいぶって謎めいた話し方をした。それでも彼にしてみれば、ずいぶんいろいろなことをしゃべっている方なのだろう。
 村井はビール瓶を持ち上げ、胴回りに貼られた青いラベルを眺めた。サミュエル・アダムズという文字の下で、泡があふれたビアジョッキを持ち上げている男の絵が描かれていた。「草薙さん、ご存じでしたか? このサミュエル・アダムズという人物は一七七三年にボストンで事件を起こして、この国が独立のためにイギリスと戦争を始めるきっかけを作った男なんですよ」
 私は首を振った。「知りませんでした。歴史にずいぶん詳しいんですね」
「ボストン港でイギリス人が運んできた紅茶の箱を海に投げ捨てたんです。もったいないことをしたものだ」
「きっとムシの居所でも悪かったんでしょう」
 村井は瓶に口を付けず、持ち上げていたボトルをテーブルに戻した。「だが、きっかけはそんなことでも、歴史は大きく動いた。突くところを間違えなければ岩山でも動くものです」
 私は彼が何を話そうとしているのか分からなかった。
「あなたは、ぼくにどうして欲しいのですか」私は訊いた。
「何も」と、村井は言った。「何もしないでいただきたい。彼の組織があなたに接触する可能性がある。あるいは彼の知り合いということでイタリア人側が接触する可能性もある。現にあなたは、彼が借りている部屋に住んでいますからね」
「それで、ジョニーが殺されたすぐ後、あなたが市警にやってきたんですか」
「そういうことです。彼はFBIの捜査リストに危険人物として載っていました。といっても重要度は低かったようですが。あなたが彼と接触しているという情報はFBIから警察庁を通じて、公安調査庁にも入ってきていました。あの日、彼がワシントン広場で爆死し、その現場にあなたがいたという一報が入りました。情報が錯綜していて、私はあなたを調べるようにと日本から命令されたのです。あなたが李祥榮の組織と連絡を取っている可能性があるという情報があったのです。だが、どうやら誤りだったようだ」
「なるほど」私は頷いた。
 FBIの捜査官が私の部屋を訪れたのはそれが理由だったのだ。
 村井は私のまだ散らかったままの部屋を見回した。「そういうことです。ですから、お詫びと挨拶も兼ねて今日伺ったわけです。何があっても、あなたは関わらないでいただきたい。それが日本の国益に適った行動です。本当ならこの部屋をすぐに出て、帰国してもらいたいところです。私の元の上司は何か理由をつけて、あなたを強制送還させるようにしたらどうかと言ってきた」
「そうするつもりはないのですか」
「あなたは一般の市民だ。しかも悪いことにジャーナリストだ。それに、無理強いするのは私の望むところではありません。公安は国民の評判が悪いですからね。これ以上悪者にはなる必要はない。第一、私は今ニューヨーク領事館に出向中なんです。私が帰任するまでは、厄介事を起こしてもらいたくない。そういうことです」
「帰任してからなら、かまわないんですか」
「公安の人間とはいえ、ただのサラリーマンですからね。そんな先のことまで面倒は見切れない」
「分かりました」私は頷いた。「でも、どうしてぼくにそこまで話してくれるんですか」
「どうしてでしょうね。」村井は表情を崩した。笑いたいのか、泣きたいのか、それとも怒っているのか判断しかねる表情だった。「朝から晩まで他人を疑っている仕事をしていると、たまには人間らしい会話がしたくなるものだ」
「それなら、ぼくは一番不適当な人間だ」
「そうかも知れません」笑っているのかも知れなかった。「だが、もうどうでもいいんです」
 村井は立ち上がり、手を差し出した。アメリカに長い間暮らしていると日本人同士でもつい手が出るものだ。
 私は彼の手を握った。温かくて冷たい奇妙な感触だった。機械のようになろうとしてなれなかった手のようだった。
「御機嫌よう」と、彼は言った。「もう会うこともないでしょう」
「さよなら」私は言った。
 部屋から村井を送り出し、私は彼がほとんど口をつけなかったビールを流しに捨てた。ラベルに印刷されたサミュエルは茶色いベストを着ていて、にこやかに微笑んでいた。私はなぜだか、ジョニー・リーの顔を思い出した。

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