■最後のさよなら■ 第28回 | KOZミステリーの部屋

■最後のさよなら■ 第28回


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 私は後ろ手に縛られたまま、真っ黒なトーラスに押し込められた。この町では、声を上げても何の役にも立たないだろう。第一、銃を突きつけられていては、声を出すことは躊躇わざるを得なかった。
 二人の男は後部座席に両側のドアから入ってきて私を挟み込んで座り,顎髭の男が私のジャケットの内ポケットから封筒を探り出して、中身を改めた。バリゴッツィとマリオ・ロッソ、モレッティが写った写真を確認すると運転席に座っていた男に頷きかけた。運転手はアクセルを思い切り踏み込み、タイヤを軋ませて発車させた。
「ぼくをどこに連れていくんだ」
 男たちは私に銃を突きつけ、一言もしゃべらなかった。一度だけ、右隣の顎髭の男が携帯電話を取り出し、どこかに電話をかけた。彼がしゃべったのはイタリア語で私には全く理解できなかった。
 車は往きに私が運転してきた高速道路を北に上がっていき、空港を越えて半島の先端にあるサンフランシスコの市内に入っていった。南の方ではあんなに降っていた雨が嘘のような良い天気で、車の中から湾向こうのバークレイを鮮やかに望むことができた。
 倉庫街が広がり始めたところで、車は高速道路を降り、スペイン語で波止場を意味するエンバカデーロ通りを走っていった。建築中の野球場を横に見てベイブリッジをくぐり、数字の付いた波止場がいくつも現れてきた辺りを左に曲がった。
 狭くて急な坂道を途中まで上ると、街並みが急に赤や金色の極彩色で塗りたくった建物に変わり、漢字混じりの看板が広がり始めた。街の丘陵の東斜面に広がるサンフランシスコのチャイナタウンだ。
 トーラスは大華楼という立派な店構えの中華料理店で停まった。すぐ前には車三台分くらいを無理矢理つなげたストレッチ・リムジンが駐車スペースを無駄に使っていた。
 拳銃を私の横腹に押しつけ、顎髭の男が車から降りるように英語で言った。なぜ、彼らが中華料理屋に私を連れてきたのかは分からなかったが、今の状況では彼らに従うしかなかった。
 白人の観光客が何人か通りかかったが、私にはまるで気が付かず、談笑しながら歩き去っていった。
 真っ赤な髪の若い男が私の肩を掴み、早く店に入れと強く押した。扉には閉店中の札がかかっていて、私はそのままドアを押して店に入った。一階のテーブル席には客は一人もおらず、入ってすぐのところにラテン系の顔立ちの男が二人立っていて、店の奥の方から怖々と顔を覗かせている中国人の店員を見張っていた。
 私は銃で背中を押され、急な階段を上がるように促された。そのまま二階に上がると個室がいくつか並んでいて、私は手前にある大きめの部屋に連れていかれた。
 中には男ばかり十数人の人間が一つの大きな円卓を囲んでいて、部屋の四隅には黒服のボディガードが手を後ろで組んでいた。
 一番奥にいたのはライアン・オニール上院議員で、その左右には選挙参謀のバリゴッツィと、税務官僚のような小男が座っていた。その隣にはジャンニ・ロッソの屋敷で見かけたモレッティという太った男と、同じように目つきが鋭いラテン系の中年男が三人座っており、私が入ってきた扉の近くには中国人の老人が三人座っていた。
「やあ、ミスター・クサナギ。よく来てくれたね」オニール議員は席を立ち、にこやかに笑って私を出迎えた。政治家の笑いだった。「そこに君の席を用意しておいた。座りたまえ」
 私は中国人の老人と、イタリア人らしき中年の間に一つだけ空いていた椅子に座らされた。ひどく居心地が悪い席だった。
 テーブルの上には料理の大皿がいくつも置かれており、見たこともないような精巧を極めた彫刻のような飾りを施した料理が並んでいた。料理はオニール議員とイタリア人たちの側はほとんど残っていなかったが、三人の老人の前の箸と取り皿は使われずにきれいなままで、料理にも手がつけられていなかった。
「君とはよくよく縁があるようだね。東だけでなく、西海岸でも顔を合わせるとはね」オニール議員が口の端に皮肉な笑いを浮かべた。
「来たくて来たわけじゃあない。あんたがぼくを拉致してきたんだ」
「おいおい、人聞きが悪いじゃあないか。せっかく君を食事に招待したのに」そう言いながら両手を広げ、食べ残しの料理が乗った皿を示した。「君が来るのがあまりに遅いから、待ちくたびれて先にいただいてしまったよ。私も次の用事があるのでね。カリフォルニアはなかなかタフな州だ。力を入れて遊説しないといかんからな」
「せっかくだけれど、腹は空いていない。辞退させていただけるとありがたい」
「それは残念だ。だが、少しならいいだろう」オニール議員は笑顔で言った。仮面が笑ったような作り笑いだった。「君にはどうせ大して時間は無いんだ」
 やがて、私が後ろ手に縛られていることに気が付くと、「おや、そのままじゃあ料理に手も伸ばせないだろう」と、口元を緩ませた。
「おい、アントニオ、そいつの縄を外してやれ」モレッティが顎をしゃくった。
 顎髭の男が無言のまま、私の背後に立ち、鋭利な刃物か何かで縄を切った。
「ミケーレ、アントニオ。お前らはその辺に立って待ってろ」
 顎髭のアントニオと赤毛のミケーレは何も言わず、入り口の脇に下がっていった。
「さて、話を先に済ませてしまおうか」オニール議員は中国人の老人に目を向けた。「今まで話した通り、私としてもあなた方中国人とこちらのイタリア人がいつまでもいがみ合っているのを見放しにはできない。ニューヨークのチャイナタウンには頑迷な老人が多いようでね。私としても遺憾に思っているんだよ」
「御意」一人の老人が頭を下げた。
「そこへいくと、西海岸のあなた方は開明的で、極めて賢明な選択をされた。民族的、人種的な違いを乗り越え、中国人とイタリア人がお互いに手を結べば、この世界を動かすのも思いのままだ。ここにいるモレッティ君は私の知り合いのジャンニ・ロッソ氏の使者としてニューヨークからわざわざご足労願った。どうかね、ここは一つ、私に免じて西と東が手を結ぶということにしては」
「あんたはいったい、何を言っているんだ」私は声をあげた。「何が狙いだ」
「すまんが、少し静かにしていてくれんかね。君をゲストとして呼んだが、口出ししていいとは言っていない」
 後ろからアントニオが近づき、肩越しに銃の腹で頬を叩いた。
「ジャンニ・ロッソも高齢だ。残念ながら、彼の跡を継ぐべきマリオ君は亡くなった。彼の子供はまだ幼齢で、このモレッティ君が後見人としてファミリーを守っていくと言っている。私は彼に協力しようと思っている。あなた方、西のチャイナタウンが彼らと手を結んでくれれば一安心なんだがねぇ。私としても選挙に専念しなければならん。西のあなたたちが協力してくれれば、怖いものなしだ」
 老人の一人がゆっくりと話し始めた。「わしらはこの国の安定のために協力することはやぶさかではない。じゃが、同胞を納得させるにはそれなりに理由は必要じゃ」
「その通りですな。あなた方の気持ちはよく分かる」オニールは大きく頷いた。「ところで、移民局の人間から聞いた話だが、最近はこの辺りもずいぶん中国人が増えたようですな。ビザの発給件数以上に中国系の住人が増えていると聞いている。国勢調査の結果を見れば良い話だが、カリフォルニアではあなた方中国人はヒスパニックと並んでマジョリティになっているようですな」
「それではお困りとおっしゃるか」
「誤解してもらっては困る。私は人種差別主義者ではない。しかし、国家の安定のためには、望まれない人々の流入も防ぐのも政治家の責務ですからな。最大多数の最大幸福。私はいつもそう思っていますよ。これから、スタイン州知事と面会の予定が入っている。場合によっては口をきいてあげられるかも知れない」
 オニールは彼の持つ政治力を武器に、彼らの降伏と、自分への服従を迫っているのだ。不法移民問題はこの国にとって大きな社会問題であり、政治問題だ。もし彼が大統領になった時、これを問題として取り上げ、チャイナタウンを集中的に捜査するようにし向けたらどうなるか、彼はそうやって脅しをかけているのだ。
 それは逆に、オニールが彼らを畏れている証左でもあった。カリフォルニアを中心とした西海岸は中国人を始め、アジア系住人が極めて多い地域だ。彼らの支持が得られなければ予備選だけでなく、大統領選の勝利はおぼつかなかった。
 オニールの隣にいたバリゴッツィが口を開いた。「上院議員もこうおっしゃっている。忙しいスーパーチューズデイの今日、この地であなた方と長い時間を割いておられる、その意を汲んでいただきたいものですな」
 やがて、老人の一人が静かに口を開いた。「御意のままに」
 三人の老人はテーブルに額を擦り付けるほど深々と頭を下げた。
「懸案の事項は一つ片づいた」オニールは満面に笑みを浮かべた。「大佐、これでいいかね」
「将軍、完璧ですな。わざわざ西海岸に来た甲斐があった」
 モレッティが大きな口を開けて笑った。「これで、東のイタリア人と、西の中国人は兄弟だ。何か困ったことがあったら、俺たちが助けてやるぜ」
「では、わしらはこれで」最高齢の老人が言った。
 中央に座った老人が立ち上がると、両脇の二人も同じように立ち上がり、上院議員に向かって深々と頭を下げ、ゆっくりと後ろを向いて部屋を出ていった。
 彼らが部屋を出て行くのを見届け、モレッティがグラスのビールを飲み干し、「辛気くせぇ爺ぃだぜ」と、蔑むような口調で言った。
 オニールは私に目を向けた。蛇が獲物を見据える目だった。「さて、君の番だ。ミスター・クサナギ。モレッティ君から聞いたんだが、君はずいぶん私のことを調べていたみたいだねぇ」
 小細工は使えそうもなかった。私は覚悟を決めた。「誰がぼくの友人の死に責任があるのかを調べている」
「友人?」
「ジョニー・リーという中国人です。あなたはご存じのはずだ」
 オニールは目を細めた。「いつかのインタビューの時にも、君はそんなことを言っていたね。君はその青年の死が私に責任があるというのかね」
「正直なところ、分かりません」私は頭を振った。「だが、少なくともあなたにはボスニア内戦で不当に利益を得た罪に対する責任はあるはずだ」
 上院議員は私を見つめたまま子供のように親指と人差し指で唇をつまみ、何も言わなかった。脳神経を活性化させ、、どうやって対応するのが最適かを考えているのだ。
 代わりにバリゴッツィが口を開いた。「君はどうも、上院議員について何か誤解しているみたいだ」にこやかな表情をしていたが、目は笑っていなかった。
「銃を突きつけて連れてきて、誤解も何も無い」私は言った。
「おい、君」バリゴッツィが立ち上がりかけた。
「大佐、もういい。彼も覚悟を決めているようだ」オニールはテーブルに両肘をついて手を組み合わせ、その上に顎を載せた。「君が何を話しているのか分からない。少し説明してくれんかね」
「あなたがNATO軍の情報将校だった時、ボスニアの内戦を利用して、軍需物資を横流しして売りさばいていた。ジョニーの父親であるデビッド・リーが作った闇ルートを使って。違いますか」
 バリゴッツィがオニールの耳許で何かを囁いた。
 オニールが口を開いた。「なるほど。面白いね。それで君はどうしようというのかね」
「ぼくにできることは何も無い」私は言った。「写真はさっき奪われた。ほかに証拠は無いし、ぼくのような外国人が何かを言ったとしても動く国じゃあない。あなたは安泰だ」
「では、君はなぜそんな愚にも付かないことをしているのかね」
「そのために、ぼくの友人が二人も死んだ。あなたの犯罪を隠すために。ぼくは彼らとボスニアで初めて会った。彼らはあの内戦をなんとかしようと必死だった。だが、あんたはそれを止めもせずに、火に油を注いでいたんだ」
 オニールの口から出てきた言葉は私の予想しないものだった。
「いいかね。戦争というものは情報を制したものが常に勝利するものなんだよ」オニール上院議員は勝ち誇ったように笑った。「私はNATOにいた時にそれを学んだ。ボスニア紛争は誰が加害者で、誰が被害者かなど、簡単に割り切れる戦争ではなかった。あれは戦争ですらなかったんだ。単なる内輪の争いだよ。その内戦に国連からアメリカからNATOまでもが巻き込まれたんだ。君はなぜそんな事態になったと思うね」
「PRがうまい奴がいたんだろう」
「どうやら君は物事が少しは理解できているようだ。その通りだよ。あの内戦で、セルビア人勢力がムスリムやクロアチアに残虐行為を繰り返していると報道をさんざん流したから、セルビア人は悪者になったんだ。いいかね、同じような行為はムスリム人だってクロアチア人だって行っていたのだ」
「だからアメリカは介入しなかった」
「考えても見たまえ。世界中では毎年何十万、何百万人もが迫害を受けて虐殺されている。一つの村が消えてなくなるなど、当たり前のように起こっているんだ。なぜ、ボスニアだけを特別扱いしなくちゃならん。我が軍は警察ではない、ましてや正義の味方ですらない。我が国の財産を守るために戦っているだけだ」
「それが、あんたの言う正義って奴なんだな」
「チャップリンは、一人殺せば殺人だが、百万人殺せば英雄だと、映画の中で独裁者に言わせたが、それは正しくない。何万人も殺されているのを見せられると、人は何が起きているのか理解できなくなるんだ。感覚が麻痺してしまうのさ。だからいいかね。ドキュメンタリーでも何でも、テレビ番組には何十万人という主人公など出ては来ない。たった一人の悲劇の方がよほどドラマチックだからね」
「だからと言って、戦争や内戦を放っておいてよいわけじゃないだろう」私は感情を抑えながら言った。
「分かってないね、君は。湾岸戦争をきっかけにアメリカの戦争は変わったんだ。戦争には大義名分がなくちゃあならない。湾岸戦争前の戦争は人を殺すための大義名分が必要だったが、今は違う。アメリカ人が一人でも死んだ時に国民を納得させられるだけの大義名分が必要なんだ。それがなければ、議会も予算を付けてはくれない。いいかね、戦争には金がかかるんだ。それが理解できない政治家は二流だよ。それを理解しようとしないジャーナリストは三流だ」
「あんたは一流だっていうわけか」
 オニールはその質問には答えなかった。再びバリゴッツィがオニールの耳許で囁き、オニールが口を開いた。「アメリカ政府は国民を守る義務がある。しかし、国民を守るためには軍隊も武器も必要だ。武器は使わなければ錆びついて役に立たなくなる。常に使い続けることが必要なんだ。それがこの国を強くし続けるコツなんだ」
「だから、あんたは内戦を利用して、東西冷戦が終わってダブついていた武器や兵器をセルビアとクロアチア両方に売りさばいていたんだ。火に油を注ぎ続けていた・・・」
 そう言って、私は恐ろしい考えに思い至り、背筋がぞっと凍り付いた。「まさか、武器の横流しはあんただけの考えじゃないというのか。軍全体の意志だとでも・・・」
 オニールは人形のような目で私を見ていた。すぐ隣にいたバリゴッツィが蛇のような笑いを口元に浮かべ、わざとらしく左手を上げて、腕時計に目をやった。
「ニューヨークでの狙撃事件もあんたたちの狂言だったんだな」私は喉から声を絞り出すように言った。
 やがて、オニールはゆっくりと口を開いた。「ドン・ロッソに聞いた話だが、イタリアにはこういう諺があるそうだ。英語で言うと『最後に笑う者が一番よく笑う』というんだな。私にこそふさわしいと思わんかね」
「そうやって有権者を騙し続けていられると思うな。国民は馬鹿じゃない」私はそう言ったが、声に力を込めることができなかった。
 この闇はいったいどこまで深く、どこまで続いているのだろう。私は夜の帳をわずかに開いて、はるか彼方にまで広がっている暗闇に恐る恐る足を一歩踏み入れただけだったのかも知れなかった。
「騙しているなんて心外だね。彼らは騙されたいんだよ。テレビに映っている私を見ただろう。ひどく魅力的に見えないかね。政治家は信条だけではない、魅力的な演技も重要なんだ。どうやら君は分かっていなかったようだな。まあいい、君にとっては最後の食事だ。楽しみたまえ。私のおごりだ」
 バリゴッツィがオニールの耳許で何かを囁いた。
 するとオニールは急に子供のような表情になり、バリゴッツィに微笑みかけた「どうだね、大佐。こんな感じでいいかね」
「上出来ですよ、将軍。知事との面会でも同じ調子でお願いします。いいですね」
「分かったよ、大佐」上院議員は微笑んだ。「ありがとう」
 私は突然気が付いた。オニールではなかった。彼は人形だ。すべての糸を後ろで操っているのはバリゴッツィなのだ。ロッソたちが写真を手に入れたがっていたのは、オニールとロッソ・ファミリーとの関係を明らかにされたかったからではなく、バリゴッツィとの関係を知られたくなかったからなのだ。本当に手に入れたかったのは、彼らとバリゴッツィが写っていた写真、私が伏木に渡して調べてもらった写真の方だったのだ。彼らは今日、目的を達したのだ。
バリゴッツィは自信満々の表情を浮かべて、オニールに話しかけた。「上院議員。そろそろお時間です」
「そうか。そうだったね、バリゴッツィ君」
 そして、オニールは再び政治家特有のひどく魅力的に見える笑顔を浮かべた。「さて、おしゃべりがすぎたようだな。楽しかったよ、クサナギ君。なかなかこうした話はできなくてね。私と彼はそろそろ行かなくちゃあいかん」
 バリゴッツィが口を開いた。「シニョール・モレッティ。後は頼んだよ。上院議員はお忙しくてね。そろそろ出ないと州知事との面会に遅れてしまう」
 モレッティがタプタプとした腹を揺らした。「FBI長官には何とぞお口添えをお願いしたいですな。ドン・ロッソもそれを望んでいます」
 オニールが頷いた。「長官も、ドン・ロッソのご健勝を祈っているとおっしゃっていた」
「ありがとうございます。写真はちゃんと処理しておきますよ。それからこいつもね」そう言いながら、私に視線を投げた。
バリゴッツィはニヤリと笑った。「これで、全部済んだようだ」
「そうだな、大佐」オニールが笑みを浮かべた。
 私はひどい悪寒に襲われていた。この国を動かしている力学は、私のような小さな力で太刀打ちできるものではないのだ。頂上が無い壁が私の目の前に立ちふさがっていた。
 バリゴッツィとオニール議員は立ち上がり、一言も口を開かなかった税務官僚のような男を従え、四人のボディガードとともに部屋を出ていった。
 モレッティは脂の乗ったチキンの手羽にかぶりついて、口の周りをテカらせながら、ニヤニヤと笑った。「ジャンカルロと俺はシチリアの兄弟なんだ。俺は奴を助け、奴は俺を助ける。それがシチリアの流儀だ。ドン・マリオが殺られて、ドン・ジャンニも虫の息だ。ファミリーを継ぐのは俺しかいない。オニールの奴が大統領になりゃ、ロッソ・ファミリーは安泰だ」
 私は震えが止まらなかった。死の恐怖というよりも、手も足も出ないことに対する無力感から来るものだった。
 モレッティが私のその様子を見て、薄笑いを浮かべていた。「どうした、寒いのか。せっかくの食事だ。ご馳走になったらどうだ。食卓では歳を取らないというからな。健康のためには食事は重要だ」
 私はもちろん、食事などが喉を通るような気分ではなかった。
「お前は余計なことに頭を突っ込みすぎたのさ。自分の愚かさを恨むんだな」
 私の後ろに立っていたアントニオが肩甲骨の辺りに銃口を押しつけた。私はぎゅっと目をつぶった。
「まあ、待て。デザートくらいは食わせてやろうじゃないか。四月は甘い眠りの月っていうじゃあねぇか。穏やかに眠る前にはデザートが必要だ」
 アントニオが私から離れていくのが感じられたが、私の震えは治まらなかった。
 やがて、帽子を目深にかぶった給仕が、私たち一人一人の前に三日月を力を入れて折り曲げたような形のフォーチュンクッキーを置いていった。
「幸運とは皮肉だな。お前にもう運なんて残っていないんだからな」モレッティが太い首を振りながら言った。
 私は、目の前の固焼きクッキーを手に取って割り、自分の運を試すように中から小さな紙片を引っ張り出した。
 私は、それを私の目の前に置いた給仕を探した。彼は既に部屋を出ようとしており、後ろ姿しか見えなかった。
 そこにあったのはいつもの気の利いた警句や、ロトくじで番号を決めるのに使う幸運の数字などではなく、ボールペンのようなもので数語の漢字が手書きされていた。
「今すぐその部屋を出ろ」そんな意味の言葉だった。
「お前の幸運も尽きたようだな。見ろ、俺のは、今までやってきたことはすべて許されるだろう、だとさ。神様万歳だ」太った首の肉をタプタプと揺らしながら、モレッティは笑った。
 先ほどの給仕がワゴンを押して戻ってきた。
「店主からのサービスです」そう言いながら、大きなデコレーションケーキを円卓の上に乗せ、部屋から出ていった。
 スポンジの上に白いクリームが塗りたくられてイチゴが周辺に飾られており、中央には赤い文字で「神のご加護を」と書かれていた。
「こいつはすごいぜ。誰か誕生日の奴はいるか。お祝いしてやるぜ」
 彼の野卑な笑いが収まるのを待って、私は目を伏せたまま言った。「トイレに行かせてくれないか。ぼくは甘い物が苦手なんだ」
「いいだろう。アントニオ、ミケーレ、連れてってやれ。最後の望みだそうだ。逃げようとしたら撃っちまっていいぞ。ただし止めは刺すなよ。そいつはデザートの後のお楽しみだ」
 私は銃口を前に、短気なアントニオとミケーレを刺激しないようにゆっくりと立ち上がった。二人のイタリア人が私の脇腹に向けて左右から拳銃を向けており、胃の辺りがキリキリするように痛んだ。部屋を出る時、モレッティが満足そうに大きな身体を揺すりながら笑い、残りのデザートを持ってくるように調理場に向かって大声で喚いているのが聞こえた。
 廊下に出て、奥の方に行ったところに便所のドアがあった。個室に入ろうとする私の腕をアントニオがきつく掴み、つぶれた声で凄みを利かせた。「鍵は閉めるなよ。いいな、下手な真似しやがったら、ドアごと撃ち抜いてやる」
 私は何も言わず、個室に入りドアを閉めた。短気な連中に撃ち殺されないよう、鍵はかけずに手で押さえた。
 個室には、黄ばんだ便器と枯れた花が入った小さな花瓶が棚に置かれているくらいで、役に立ちそうなものは何も無かった。壁に窓はあったが、猫でもなければ窓枠に身体がつかえてしまうような小さな窓だった。しかも、三十センチ先には隣の建物の壁が迫っていて、とても脱出口になりそうもなかった。
 部屋から出てどうしろというのだろう。私がメッセージの意味を考えながら、ここから抜け出す算段をしている時だった。
 巨大な爆発音と振動が店を揺らし、人間のものとは思えないような絶叫が聞こえた。床がグワッと盛り上がり、手で押さえていたドアの蝶番がガクンと外れて倒れ込んできた。アメリカには地震は無いと思われがちだが、サンアンドレアス断層が南北に貫くカリフォルニアは今までに何度も大地震に見舞われてきた。八九年の大地震では二百人以上が死亡して、サンフランシスコにかかったベイブリッジが崩れ落ちた。私はトイレの中が地震の時は一番安全と子供の頃に教わったことを思い出し、ひっくり返りそうになりながら壁に手を付いて身体を支えた。
 大きな音がトイレの外で起こり、壁とドアがグラグラと揺れた。
「な、なんだぁ」
「ひゃあぁ」
「おい、どうしたんだあ」
「てめぇ、何だあ」ドアの外でアントニオとミケーレがヒューヒューと甲高い声をあげた。
 その揺れも一瞬で収まり、何かが崩れ落ちるような音の中でプシュプシュと空気が抜ける音が聞こえ、短い呻き声と何かがバタンバタンと床に落ちる音が聞こえた。
 私は倒れ込んできたドアを支えながら、息を潜めて何が起きたのかを考えていた。
「いつまで隠れているんだ。さっさと出てきたらどうだ」ドアの外から微かに笑いを含んだ声が聞こえてきた。
 私は観念して、壊れたドアの隙間から顔を覗かせた。
 そこには、消音器を付けた拳銃を握っているバート・キングが立っていた。薄手の黒いコートを着ていて、相変わらず真っ黒なサングラスをかけており、全身黒づくめだった。消音器の先からは紫がかった煙がうっすらと上っていた。
 彼の足下には、銃を握ったままのアントニオとミケーレが倒れていて、身体の下で血だまりがゆっくりと広がっていた。
「さて退散するとしよう」
 バートは手袋を付けたまま焼けた消音器を銀色のシートでつまんで外し、そのままシートを巻き付けてコートのポケットに落とし込んで、反対側のポケットには自動拳銃を突っ込んだ。
「どうして君が・・」
 私の問いかけに、バートは応えなかった。
 バートの後を追って倒れている二人を跨いで、先ほどまでいた部屋を覗き込んだ。テーブルの上で爆発が起きたようで、円卓が中心部から木片を周囲に撒き散らし、部屋の中央には一切の物が無くなっていて、あらゆるものが周辺に叩きつけられていた。テーブルに置かれていた料理の残りは部屋中に撒き散らされ、辺りにデコレーションケーキのスポンジやクリームが飛び散って甘い匂いが漂っていた。円卓の周りに座って凄んでいたイタリア人たちは爆発の衝撃で赤黒い肉塊になって、料理と混じって部屋中にばらまかれていた。天井にこびりついていた塊から血が滴り落ち、トロッとした薄茶色の豆腐のようなものが壊れた円卓に降ってきた。髪の毛がついていたので、それが脳漿だということに気付き、私は吐き気を催して口元を手で押さえた。
「こんなところで戻さないでくれよ。料理人に失礼だ」バートはクックッと鳩のように喉を鳴らした。笑っているのだ。「さて、長居している時間は無い。行くぞ」
 バートは壁が崩れて塞った階段を、障害物を跨いで降りていった。
 私も彼を追って柱や壁を崩さないように狭い階段を降りた。一階に降りると二人のイタリア人が床に倒れていて、赤黒い液体が床に広がっていた。厨房の奥から料理人たちが怖々と顔を覗かせていた。
 大したものだ。あれだけの爆発を起こしながら、どうやら一階にはほとんど被害は無かったようだった。爆発は通常、下から上へ、そして横方向に向かう。うまく調整すれば一階を巻き込まずに二階だけを噴き飛ばすことも可能なのだ。
 バートは店の扉を開けて店内を覗き込んでいる中国人やカメラを下げた観光客などの野次馬を掻き分けて外に出た。私も後を追った。
 バートは早足に店から離れていった。やがて、消防車のサイレンが聞こえてきた。後からは誰も追いかけては来なかった。
 私は烏のように黒づくめのバートを追いかけながら声をかけた。「待てよ。いつから尾けてた」
 私の問いには直接答えなかった。
「あんたは偏食すぎる。不味くても、出された機内食はきちんと食べないとな」振り返りもせずにバートは言った。
「ニューヨークからずっと尾けていたのか・・・」
 私は言葉を失った。全く気が付かなかった。「なぜ、ぼくを助けたんだ。君はジョニーのボディガードだった。ぼくには義理は無いはずだ」
 急に立ち止まり、バートは振り返った。「ああ、そのことか。あんたはマイルス・デイヴィスがお気に入りだと言ったろ。マイルスは俺の師匠だったんだ。師匠のファンを見殺しにはできない」
「それだけか」
「それだけさ」
「君には二度も助けられた」
「三度目は無い。礼には及ばん」バートは大きな肩を揺すった。「さて、これで俺の仕事はお終いだ。後は勝手にやってくれ。いいかね、これは忠告だが、今日はリトルイタリーでミートボールを食おうなんて考えないことだ。奴らの仲間はまだ残っているかも知れないからな」
 私は、真っ赤な肉塊となったイタリア人の姿を思い出して、再び吐き気を催した。それでも負け惜しみを言わないと気が済まなかった。「あんたこそ、チャイナタウンで飲茶をしようなんて思わない方がいい」
「俺は中華料理は嫌いだ。こんな仕事はもう願い下げだ」
 バートは坂道に停めてあった、彼の身体に似合わない赤くて小さな日本車のドアに鍵を差込み、私を振り向くと苦々しげに言った。「手違いだったんだ。空港でレンタカー屋がこんな車を出して来た。どうして日本人はこんなに狭苦しい車に乗っているんだ」
 中でチークダンスが踊れるほど広大なリンカーンに乗り慣れている彼にしてみれば、そのコンパクトカーは拘束衣みたいなものだったのかも知れない。
「君がでかすぎるんだ。そんな小さな車を選ぶ方が悪い。車のせいじゃあない」
 私がそう言うと、バートは再び鳩のようにクックックと喉を鳴らした。頭を屈めながら窮屈そうに車に乗り込むと、ドアをバタンと閉め、窓から顔を出した。サングラスの奥で義眼がキラリと光った。
「あんたも早いところ、サンフランシスコから出るんだな。さっきの爆発であんたは死んだことになってる。さっさと自分の国に帰ることだ。第一、ひどい雨になりそうだ」
 見上げると、あんなに晴れ渡っていた空はすっかり曇っていて、ポツリポツリと水滴が落ちてきていた。サンフランシスコ名物の霧のせいだったのかも知れなかった。
 私はため息をつき、さよならと言った。「助けてくれてありがとう」
 バートはフンと鼻で笑い、エンジンをかけると、左手でサングラスを外した。義眼でない方の右目でウインクしたように見えたのは思い過ごしかも知れなかった。
 真っ赤な日本車はタイヤを軋ませて白煙を上げながら坂道を上っていき、やがて私の視界から消えた。取り残された私は辺りを見回し、ぶるっと震えた。太平洋から流されてきた冷たく湿った霧がチャイナタウンを覆い始めていた。
 消防車のサイレンが近づいてきた。何人もの野次馬が私の横を駆け抜けていった。
 バートがいなければ、死んでいてもおかしくない状況だった。オニールは「最後に笑う者が一番よく笑う」と言っていたが、私は笑う気にもなれなかった。なるほど、確かに人生はどっちに転ぶか分からなかった。
 冷たく湿った霧が身体にまとわりつき、私はもう一度小さく身震いをした。



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