■最後のさよなら■ 第23回 | KOZミステリーの部屋

■最後のさよなら■ 第23回

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 翌日の新聞には、シティホールでの狙撃事件の様子と、犯人の捜査状況が詳しく書かれていた。
 当初、東洋系の男が拳銃を発砲したという目撃情報があったとされたが、そもそも目撃者が見つからず、実際には東洋系の銃を持った男を見たという証言も無いと、報じられていた。ただ、昨日の報道の結果、既に一部のアジア系住人を罵倒したり、投石をする事件が起きており、新聞は市民に対して冷静になるよう呼びかけていた。
 ほかの右翼系の新聞は、事件直後にオニール上院議員が行った「感動的な演説」を絶賛する社説を載せ、「今こそアメリカは一つにまとまり立ち上がらなければならない」と興奮気味に結んでいた。
 私は新聞を畳み、部屋を出た。昨日、村井領事には何も関わるなと言われたが、約束をしたわけではなかったし、厄介事を起こすつもりもなかった。その時まではそうだったのだ。
 私は地下鉄に乗ってチャイナタウンに向かった。何人かの警官は見かけたが、思ったほどその数は多くはなかった。しかし、いずれも拳銃と警棒にすぐに手を伸ばせるような格好で歩いていた。
 私は九龍飯店の前で数秒逡巡してから、店のドアを押した。梅鈴と黄賢の姿は見えなかった。若い給仕が、今日はマダムはお休みすると連絡があった、と教えてくれた。
 九龍飯店を出て、メインストリートのマルベリー通りに出た。何をしようという考えがあったわけではないのだが、梅鈴をつかまえることができなければ、今はすることがなかった。梅鈴と話をしようと思っていたのだが、当ては外れてしまった。
 あのような事件があった翌日にもかかわらずマルベリー通りには観光客やら買い物客が繰り出していた。狭い道に沿って、いくつも露店が出ていてブランド物のバッグや、高級腕時計などが売られていた。もちろん模造品だ。プラダのバッグやロレックスの腕時計が十ドルで買えるわけがない。キューバ産の葉巻を一箱二十ドルで売りつけようとするのを断ると、五ドルまでまけてきた。アメリカと国交の無いキューバ葉巻が箱単位五ドルで手に入るはずがないのだ。彼らの前を警官が通り過ぎていったが、何も言わずに歩き去っていった。油に群がる蟻のように捕まえても捕まえても湧いて出てくるので、追い払うのに飽きてしまったようだった。
 怪しげな品物を売りつけようとするアラブ系の商人を追い払い、キャナル通りを越えてリトルイタリー側に入った。通りを一本越えただけで街の雰囲気がガラリと変わり、イタリアレストランが軒を連ね、イタリア語の看板があちこちにかかる街並みに変わった。けれどもチャイナタウンはキャナル通りを越えてリトルイタリーを浸食し始めており、イタリアン・レストランが並ぶ通りの所々に虫食いのように漢字で店名を書いた看板が掛かっていた。以前なら考えられなかったことだ。中国人の勢力は一層広がっていたのだ。
 途中の道を一本右に入ってしばらく行った角に、イタリア・マフィアの若いドンが暗殺されたレストランがあった。周りには警官の姿は無かった。事件が起きてから一週間以上経っていた。現場検証はとうに終わっているのだろう。しかし、店の中は噴き飛ばされた時のままで、砕け散ったテーブルや椅子、カウンターなどが片づけられないまま、瓦礫となって積み上げられていた。市警が野次馬の立ち入りを禁止するために貼った黄色いテープの一部が剥がれて、パタパタと風にはためいていた。
 ルイス警部は、イタリア・マフィアの跡継ぎが射殺され、手下も含めて爆死したと言っていた。これはジョニー・リーが殺されたことに対する報復だったのだろうか。
 辺りを見回して、誰も関心を払っていないのを見計らって、私はテープをくぐって瓦礫の山となったイタリアンレストランに入り込んだ。二階建ての木造の建物で、噴き飛んで二つに折れた扉が入り口の辺りに置きっ放しになっていた。爆発の衝撃で天井が壊れて大きな穴が開き、そこを通して二階の屋根が覗けた。壁や天井の板が剥がれ、柱がひしゃげており、ビールを冷やしていた大型のクーラーが倒れて台無しになってしまっていた。床にはたくさんのビールやワインの瓶が割れて中身がこぼれ出したまま乾いていて、夜が明けた街のゴミ捨て場のような臭いがした。
 店にあったものはちょうど中心部辺りから外部に向かって飛び散っていて、爆発の激しさを物語るように、一枚板のテーブルの脚が砕け、天板が半分に割れて、床に転がっていた。どうやら爆弾はテーブルの上か下で爆発したようだった。店内を見ると、ペンキを撒いたように赤黒い血飛沫が壁にこびりついたままになっていた。
 私はサラエボで多くの市民を噴き飛ばした砲弾の爆発を思い出した。ジョニー・リーが巻き込まれた青空市場の爆発では砲弾が弾けて六十人に上る死者が出た。人は簡単に死んでいく生き物なのだ。
 人は死に慣れるんだよ、サラエボでジョニー・リーはそう言っていた。しかし、いつまで経っても私は人が死ぬことに馴染むことはできそうもなかった。
「おい、あんた」
 誰かが私の肩を強く掴んだ。
 振り返ると、そこに立っていたのは、ジョニー・リーが爆死した夜、私の部屋にやってきたFBIのクラーク捜査官だった。あの時と同じように真っ黒なコートを着ていて、人を見下したような表情を浮かべていた。この前と違ったのは、一緒にいるのがシュミットという名の初老の捜査官ではなく、若いラテン系の顔立ちの男だったことだ。
 そちらの男は鷲と星条旗を組み合わせた派手なデザインのジャンパーを着て、首には金の太いネックレスを巻いていて、メッシュを入れた金髪を撫で上げていた。その格好はどう見てもFBIの捜査官とは思えなかった。どちらかと言えば、FBIに捕まったチンピラといった方がお似合いだった。
「ビル、あんたの知り合いですかい」
 若い男が薄ら笑いを浮かべながらクラークに近づいてきた。
「ああ、リッカルド。前に話をした日本人だ」クラークはリッカルドという名の若い男に向かって言った。
「ミスター・クサナギだったね。ここは立ち入り禁止だ。市警が貼ったテープが目に入らなかったわけじゃあないだろう」
 私は肩をすくめた。「すみませんでした。テープが切れていたみたいだ。きっと腹を空かせた教会のネズミが食いちぎっていったんだと思います」
「困るね。ふざけていい状況じゃあないだろう。ここは捜査現場だというのは分かっているはずだ」
 クラークは私を睨み付けながら、隣の若い男に言った。「リッカルド、彼と話がしたいと思わないか。きっと彼も話しがしたいと思うはずだ」
 私は早々に退散すべきだった。「申し訳ないが、用事を思い出した。帰っていいかな」
「そうは行かねぇよ」リッカルドと呼ばれた男が言った。「あんたにはいろいろ聞きたいことがある。公務執行妨害で引っ張ったっていいんだぜ」
「そういうわけだ。ちょっと来てもらおう」と、クラークが言った。「手間は取らせないが、抵抗するなら罪状の十や二十は考えてやる」
 理知的なシュミットという初老捜査官がいない状況では、あまり抵抗しない方がよいように思えた。
「いいか、お前が知っていることをしゃべるんだ。誤魔化しが利くと思うなよ」リッカルドが凄んだ。凄むことばかりに慣れている男だった。ロクな人間ではなかった。
「君たちは何が知りたいんだ」
「あの死んだ中国人のことさ。お前は奴と知り合いだそうだな」
「忘れたよ」
 そう言った瞬間、私の目の前で火花が散り、頭がぐらぐらした。リッカルドが拳骨を私の頬に叩きつけたのだ。
「なめた口をきいてるんじゃねえぞ、エテ公。俺はビルみたいにお優しくねぇんだ」
 私は口の端を手の甲で拭った。唇がビリビリと痺れていた。
「チンピラみたいな口をきくんだな。FBIというのはいつからチンピラも雇うようになったんだ。エドガー・フーバー長官が始めたのか」
「糞野郎」
 リッカルドが再び拳を叩き込もうとするのを避け、私は彼の腹を蹴り上げた。
 ぐへぇと蛙がつぶれたような声を出してリッカルドが呻いた。
「チンピラなら、チンピラらしくかかってきたらどうだ」
「貴様、殺してやる」
 リッカルドが腰に手をやり、後ろのベルトに入れた拳銃を取り出そうとするのを見て、クラークが慌てて止めた。「何をやっているんだ。バカなことは止めないか」
 リッカルドが今にも発砲しそうになるのを押さえつけ、クラークはFBIのバッジを前と同じようにちらりと見せ、私に言った。「公務執行妨害だ。君を拘引する」
 彼はポケットから手錠を取り出し、私の両手にきつくはめた。
 次の瞬間、リッカルドの拳が先ほどとは反対の頬を襲って、私は瓦礫の山に吹っ飛んだ。
「何をしている。いい加減にしないか」クラークが怒鳴った。
 私はクラークに手錠の鎖を掴まれて立たされ、ふらふらになった頭を左右に振った。無駄に抵抗しても事態は好転しそうもなかった。
 二人に前後を挟まれて店を出ると、私は彼らに連れられて、近くの駐車場に向かった。駐車場に停められた白いアコードの後部座席に乗せられ、横にはリッカルドが座った。クラークは黙ってエンジンをかけ、アコードを走らせた。私はどこに向かうのかと聞いたが二人とも何も答えなかった。そのアコードには無線機も備え付けられておらず、車内に用意されているはずの赤色灯も見えなかった。彼らは本当にFBIの捜査官なのだろうか。彼らの態度はあまりにも常軌を逸していた。しかし、一度車に乗ってしまった以上、簡単には降ろしてもらえそうもなかった。
 アコードはマンハッタンからブルックリン側に渡り、街の一角に停まった。最初にニューヨークに到着した日、ジョニーと一緒に食事をしたレストランの近くのようだった。そこはちょっとした豪奢なヨーロッパ風の石造りの建物だったが、FBIの建物のようには見えなかった。
「降りてもらおうか」
 リッカルドが私を促し、私は車から降りた。
 クラークは窓ガラスを降ろすと、私をちらっと見て、リッカルドに「協力できるのはここまでだ」と言い、走り去ってしまった。
 私はその場で逃げ出すべきだったのかも知れなかった。石造りの建物の入り口の脇には男が二人立っていて、私のことを虫けらでも見るような目で見ていた。
 どう見ても彼らがFBIの捜査官であるはずはなかった。
「ここはいったいなんだ。どこに連れてきた」
「ふん」リッカルドは鼻で笑い、建物に入るよう顎をしゃくった。
「手錠を外せ。帰らせてもらう」
「そうはいかねぇんだよ」リッカルドは私の肩を掴み、腰に堅いものをぐりぐりっと押しつけた。
 私の背筋を冷たいものがすーっと落ちていった。
「ロッソさんがお待ちかねだ。さあ来な」
 私は抵抗しないことを示すために、手錠をはめられた両手を肩の辺りまで上げた。「お前は殺されたマリオ・ロッソの仲間なのか」
 次の瞬間、私は息ができなくなって床に跪いた。リッカルドが私のみぞおちに拳を叩き込んだのだ。
「口のきき方に気をつけろ。ロッソさんはドン・マリオの父君だ。本来なら、お前のような虫けらが会えるようなお方じゃあないんだぞ」リッカルドはチンピラのような口調で、チンピラのような台詞を吐いた。
「むかつく日本人だ。俺は今、腹が減っているんだ。怒らせるなよ」
 私はリッカルドの脚につかみかかって押し倒し、上にのしかかった。だが、振り上げた拳を叩き込む前に、建物の入り口にいた二人の男に私は動きを封じられてしまった。
 立ち上がらされてリッカルドに頬と腹を殴られ、息がつけなくなったまま、私は手荒に引きずられるように建物の中に連れこまれた。
 私は大きなミスを犯したようだった。今さら後悔しても手遅れだったが、取り返しがつかないほど大きなミスのようだった。
 薄暗い照明の廊下を引きずられて、私は一番奥の部屋まで連れていかれ、ドアの前に立っていた別の男が私たちを制止した。私は身体のあちこちを探られ、何も隠していないことを確認されると、ドアを開けてリッカルドと共に部屋に入れられた。
 その部屋はかなり広く、壁だけでなく天井まで深紅に塗られていて、絨毯は赤黒く、カーテンも血が固まったような色のビロードが引かれたままになっていた。照明はひどく薄暗く、空気は重苦しかった。まるで、エドガア・アラン・ポーが描いた部屋のように死の匂いが色濃く漂っていた。
 私の観察はあながち間違いではなかった。部屋をぐるりと囲んだ本棚の間に大きな机と革張りの椅子があり、その少し横にこの部屋には不釣り合いな安楽椅子が置かれていて、老人が死んだように座っていた。膝には肌触りが良さそうなキャメルの毛布が掛けられていて、その上で両手が組まれていた。指先が時折ぴくぴくと痙攣したように動いたので、その老人がまだ生きていることが分かった。
 老人の横には彼が死ぬのを待ち構えている死神のように真っ黒なスーツを着た中年の男が立っていた。時折瞬きする以外はほとんど身動きもせず、まるで蝋人形が飾られているようだった。
「ドン。ロッソさん。お話しした日本人野郎をお連れしました」リッカルドが先ほどの威勢はどこに行ったのか、声を震わせ、小さな声で老人に声をかけた。
 すると、老人の隣にいた蝋人形のような男が腰を曲げて、老人の耳許で何かを囁いた。
 老人はぴくりと身体を揺さぶり、安楽椅子が前後に揺れた。ジャンニ・ロッソはいつ死神が迎えに来てもおかしくないほどひどく年老いていた。頬の肉が垂れ、目蓋が瞳を覆い隠していて起きているのかどうか分かりかねた。腹の周りに余分な脂肪が付きすぎて動くのに難渋している様子で、ゆっくりと安楽椅子の中で身体を揺すった。太りすぎのマーロン・ブランドが年老いたような雰囲気だった。この死にかけた老人は、息子のマリオ・ロッソに自分の地位を譲るまではリトルイタリーの裏社会を動かす一人だったのだ。
 ジャンニ・ロッソの脇にいる男が再び耳許で何かを囁いた。
「あんたがあれかね」老人の声はひどく疲れていて、古い井戸の底から沸き起こってくるようだった。「息子のマリオのことを知っておる中国人というのは」
 脇の男がロッソの耳許で何事かを囁いた。
 ロッソはそれを聞きながら、分かっているというように、煩わしげに毛布の上で手を振った。「中国人だろうと日本人だろうとかまわん。マリオが死んでしまったことには変わりはないからな」
「ぼくはあなたの息子のマリオとは面識はありません」私は言った。
「なら、なんであんたが連れてこられたのかな」
 男が再びロッソの耳許で囁いた。
「ほう。リーのところの倅と知り合いか。ならば、王老人とも知り合いかな」そう言うと、老人は激しく咳き込んだ。
「王大人をご存じですか」
「知っておるかだと? 知っておるとも、昔からな。あの男にも困ったものだ。死に損ないのくせに相も変わらず邪魔ばかりしおる」
「向こうもあなたのことをそう思っているかも知れない」
 私の背中を何か堅いものが襲い、私は床に崩れた。
「手荒な真似はよさんか。この部屋にいる間はわしの客人だ。この部屋にいる間はな」老人は私を殴り倒したリッカルドを諭すように言った。
 穏やかな声だったが、威厳に満ちていた。食事の注文をする時も、誰かを殺す命令を下す時も同じようにしゃべるに違いなかった。
 リッカルドは言葉を発せずに、私の脇に手を入れて立ち上がらせた。私は彼が小刻みに震えていることに気が付いた。部屋の中は涼しいくらいだったが、彼からは汗の匂いがした。怯えているのだ。
 ロッソは眠っているように腫れぼったい目蓋を微かに持ち上げながら言った。「それで、あんたはマリオが誰に殺されたのかを知っておるというわけかな」
「ぼくには心当たりはありません」
「隠し事はよくない」
「本当に何も知らない」
「まあよい。あの中国人どもの仕業であることは分かっておるのだからな」
 ロッソの横にいる男が耳許で囁き、ロッソが何事かを囁き返してから、私を向いた。「写真があるそうじゃな。マリオが写っているとかいう」
「何のことを言っているのか分からない。ぼくは写真なんか撮影しない。カメラマンじゃあないんだ」
 私はジョニーの部屋にあった封筒の中の写真を思い出した。
 リッカルドがロッソに許しを請い、部屋の隅に置かれていたジェラルミンのカメラバッグを引きずり出してきた。ジョニーの部屋にあったバッグだ。留め金を外して蓋を開けると、中にはカメラとレンズ、フィルター類や小型のストロボなど、カメラ用の機材が入っていた。
「あんたがいる部屋にあったそうじゃな。写真は見つからんかった」ロッソが目をつぶったまま言った。 
「ジョニー・リーのものです」私は頷いた。隠す意味はなかった。
「クラークの話じゃあ、何やらこそこそ調べ回ってるらしいです」リッカルドが声を震わせながら言った。「この前も日本の新聞社に入っていったらしいです」
 私が伏木に会いに行った時のことを言っているようだった。
「いいかね、あんた、これはビジネスの話だ。時代も変わった。もうわしらもマシンガンやらピストルを振り回していていい時代じゃあない。いくらなら写真を譲ってくれるかね。それを欲しがっている人がおる。欲しいものは欲しい人の手に、それが資本主義というものじゃあないかね」老人はひどくゆっくりと、私を諭すような口調で言った。
「それは命令ですか。それとも依頼ですか」
「ロッソさん、面倒です。殺っちまいましょう。写真は後から見つければいい」リッカルドが焦れったそうに言った。
「黙っておれ!」突然、ロッソが目を大きく開き、リッカルドを睨み付けた。どこにそんな生気が残っているのか分からないほど凛とした声音だった。「お前のような若造に指図されるいわれはないわ」
 そう言うと、老人は再び激しく咳き込み、近くに控えていた白衣を着た貧相な顔立ちの男が駆け寄った。
 リッカルドはびくんと身体を震わせて小さく縮こまった。
 医師が口の周りの泡をタオルで拭くと、老人は小さな子供を見るような表情を浮かべた。「リッカルド、いい子だ。その客人の手錠を外しておやり」
「でも、ロッソさん・・・」
「わしは二度は言わん」厳とした岩のような声だった。
 不承不承、震える手でリッカルドはポケットから鍵を取り出し、私の手から鋼の戒めを外した。私を睨み付ける目が、いつか殺してやるとでも言わんばかりだった。
 私は手首に付いた鋼の跡をさすりながら、老人に礼を言った。少なくとも手錠を外してもらえたのは彼のおかげだった。
「ロッソさん。あなたは王老人のことを話していた。あなたは王老人に似ている。眠っているようで、一度目を覚ませば誰も何も言えない」
 老人はクックックッと笑い声を漏らした。「若いの。あんたは恐れを知らん、面白い男だ。確かにわしは王と似ておるかも知れん。殺し合いを続けているうちに、お互いに似通ってきたのかも知れんな。昔、中国には清という国があってな、わしの父親がよく話してくれたものよ。誰もがあの国を恐れていて、眠れる獅子と言われておった。じゃが、イギリスに蹂躙されても、あの国は起きなんだ。ずっと眠ったままだったのだよ。王も寝たまま生き続けるじゃろうて」
「あなたはどうなんですか」
「わしか。わしはもう疲れた。わしももう長くはない。この期に及んで人の血を見たくはないさ。そうしたことは若い者のやることだ。あんたを殺してイーストリバーに捨ててこさせるのは簡単だ。この街では、何人もそうやって消えていくんだからな」
 老人は、垂れ下がった目蓋の下から見上げるように私を眺め、薄ら笑いを浮かべた。「じゃが、外国人のあんたをそうやって消すのは面倒なのさ。市長にも迷惑がかかる」
「李祥榮の父親を殺したのもあなたですか」
「リー?」老人は怪訝そうな顔をした。「おお、あの小倅の父親か。人は簡単に死ぬものさ。あんたは蟻をつぶしたことはあるかな」
「子供の頃なら」私は答えた。
「わしは大人になってからも、たかってくる蟻をつぶしてきた。噛み付こうとする蟻はみなつぶしてきた。そうやってわしは生きてきた」目蓋の下から、老人は私をじろりと見つめた。亡者のような目だった。死神に魅入られている男の目だった。私の背筋が凍り付いた。
「なぜ、彼らと手を結ぼうとしないのですか。あなた方が手を結べば、この国を思い通りにすることもできるはずだ」
 老人は咳き込むように笑った。「あんたは面白い男だな。わしにそんなことを言った者は初めてだ。わしの故郷にはこんな言葉がある。蝉は蝉に親しく、蟻は蟻に親しい、というてな。違う者が混じり合うのは難しいものじゃ」
「だから、李祥榮や彼の父親を殺した」
「それは奴らも同じことよ。おかげでわしも息子を失くした。古い恨みは、消えるのに時間がかかる。昔からの争いを解決する手段はわしには見つけられんかった」
「ぼくをどうするつもりですか」
「それはあんた次第だ。写真を渡せばよし、そうでなければ、あんたの後ろにいる若いのが、なんとかするだろうさ」
 背中に立ったリッカルドが、私の腰の辺りを堅いもので突いた。
 私はふうと息を吐いた。「分かりました。でも、今手元には無い。取りに行かせてもらいたい」
「あの、なんとかいった男はどうした」老人は首を曲げて、隣の男に声をかけた。「ほれ、FBIの何とかいう若造だ」
 中年の男が耳許で囁いた。
「帰った? わしに挨拶もせずにかね。もう一度呼び出しなさい。そう、今すぐだ」
 どうやらクラークという男は本当にFBI捜査官のようだった。
「あんたは不思議がっているようだね」老人は私を見つめて言った。「なぜ、わしがFBIと仲が良いかとな」
 私は黙って頷いた。
「金と力は使いようと言うてな。わしらもいつまでも殺し合いをしているわけにはいかんのでな。それに弱みを持ったものは金か力で動かすのはたやすいものさ」
「FBI以外にも、手懐けているんですか」
「あんたが知る必要はないことさ」
 そう言うと、老人はまたごほごほと咳き込み始めた。身体を折り曲げ、息ができなくなったようにヒューヒューと気管が鳴った。
 白衣の男がコマネズミのように部屋の中を慌ただしく走り回り、看護婦を怒鳴りつけて酸素吸入器を持ってこさせ、マスクを老人の口に当てた。
 ヒューヒューと息を吐き、涙目になりながらも大きな声で叫んでいた。「デーレンダ エスト カルターゴー。デーレンダ エスト カルターゴー」私にはそう聞こえた。英語ではなかった。イタリア語かも知れなかったが、私には分からなかった。
 老人は苦しげに息を吐き出しながら、安楽椅子の上でのたうち回っていて、その上から白衣の男が覆い被さり、老人の身体をそらせて何とか呼吸をさせようとしていた。
「早くその男を連れていけ」影のように老人の横に寄り添っていた男が初めて大きな声を張り上げた。蝋人形ではなかったのだ。
 リッカルドは私の腕を掴むと、赤い死の部屋から引きずり出した。「ほら、早く来な。立ち止まるんじゃあねぇ」
 前を見ると、反対方向から廊下の幅いっぱいを塞ぐように男が急ぎ足で歩いてきた。男は私の顔を見ると、少々驚いた表情を浮かべ、次いで口元に薄ら笑いを浮かべた。
 私はその人物をどこかで見た気がしたが、思い出せなかった。
「おい、リッカルド、その日本人が例のあれか」
「はい、シニョール・モレッティ」かしこまった口調でリッカルドは直立姿勢を取った。
「写真は見つかったのか」
「いえ、これから取りに行かせます」
 モレッティは私をジロジロと観察すると、リッカルドの方を向いて真顔に戻った。「親父はどうした。また発作を起こしたと、あのヤブ医者が言ってきたぞ」
「はい・・・。今、酸素吸入をしているところです」
「そうか・・・。それで、親父は何か言っていたか」
「delenda est Carthago、と」
 モレッティは口をあんぐりと開き、目を丸くした。「親父はそう言ったのか。おい、本当だな」
「う、嘘なんかじゃありません。シチリアのお袋に誓って本当だ」
「そうか・・・」呆然としたまま、モレッティはリッカルドを突き飛ばし、ジャンニ・ロッソのいる赤の部屋へ幽鬼のようにフラフラと向かった。
 その後ろ姿をぼーっと見つめているリッカルドに私は言った。「おい、あれはいったい何のことだ。どういう意味だ」
 はっと振り向くと、リッカルドは私を睨み付けた。「お前の知ったことじゃあねぇ」
「彼は何をしようとしているんだ」
「貴様、今ここで死にてぇか」リッカルドが銃を抜いた。
 この狂犬を止められる者がいない今、私は黙らざるを得なかった。
「さあ、写真を取りに行くぞ。とっとと案内しな」


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