■最後のさよなら■ 第25回 | KOZミステリーの部屋

■最後のさよなら■ 第25回

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 今、アパートの部屋に戻ることはさすがに躊躇した。公衆電話からサニャの部屋に電話をかけてみたが留守番電話につながるばかりで、応答は無かった。日が暮れ、気温が下がっていく中、私は部屋に戻ることもできずにコーヒーショップで暖を取り、しばらくしてから電話をかけたが、やはり応答は無かった。
 私は仕方なく伏木のところに電話をかけた。
 受付の女性が出たので、伏木はいるかと訊ねた。保留音が途切れ、伏木は慌てて受話器を掴み、開口一番、大声を出した。「おい、草薙。お前いったいどこにいるんだ」
「ブロードウェイのコーヒーショップだ。それがどうした」
「どうしたってのは何だ。お前、知らないのか」
「何をだ」
「警察から電話があったぞ」
 首筋がざわざわと粟立った。
「彼女が死んだ」伏木が言った。海の底へ沈み込んでいくような暗い声だった。
 私の頭の中が真っ白になった。「彼女って・・・」
 伏木が言おうとしていることが予測でき、私はそのまま電話を切ってしまいたい衝動に駆られた。
「コットンキャンディでピアノを弾いていた彼女だ。お前が連れ出した彼女だよ」
 私は息を吸うのもできないほど、胸が締め付けられた。
「さっきコットンキャンディから電話があった。強盗に襲われて路上で撃たれたそうだ」
「バカな・・・」
 私はリッカルドにかかってきた電話のことを思い返した。写真は回収した、と言っていた。分かっていたではないか。写真のネガフィルムを持っていたのは彼女なのだ。
「誰か身内を知らないか、と訊いてきた。俺は知らないと答えたが、お前、彼女から何か聞かなかったか」
「いや・・・知らない」
 サニャはそうしたことは話さなかった。私が知っているのは、サラエボからニューヨークにやってきた今の彼女だけだった。
「彼女は今どこに」私は訊いた。
「市警の第六分署だそうだ。ダウンタウンの方らしい」
「分かってる」
 そう、私は知っていた。私が知っている市警はそこだけだったにもかかわらず。
「分かってるって、おい、草薙・・・」
「これから行ってみる」私は言った。
「俺も行きたいところだが、今ちょっと手が離せないんだ」伏木はすまなそうに言った。「昨日のシティホールの狙撃事件が、大統領選にどんな影響を及ぼすのかって記事をあと小一時間でまとめなくちゃいけないんだ」
「そうか」
「調査会社が行った緊急世論調査で、オニール議員の支持率が急上昇している。狙撃の直後の記者会見でテロに対抗する決意を表明したことで、強さを印象づけたんだな。共和党支持者の間だけでなく、全有権者の間で支持率が上がっている。今まではただのダークホースだったが、この状況を考えると大逆転もあり得るぞ」
「そうか・・・」私はバートの言葉を思い出していた。一番得をしたのはオニールだ。
「なんだ、興味が無いのか」 
「いや・・・」
「無理もないな。知り合いの女性が殺されたんだ」
「いや・・・」
「そういえば、こんな時に何だが、お前から預かってた写真に写ってた人物が誰か分かったぞ」
 私の胸は高鳴った「誰だったんだ」
「右側の軍人は、ジャンカルロ・バリゴッツィ。退役時の階級は陸軍大佐だったそうだ。九二年から九五年までNATO軍にいたそうだ。今は退役してD.C.で政治コンサルタントをしているらしい」
 私は息ができなくなった。オニール議員のインタビューに同席していて初めて会った時には写真の人物とは気が付かなかった。軍服姿からスーツ姿に変わり、髪型から風貌までずいぶん違ってしまっていたため、分からなかったのだ。
「・・・よく調べたね」私はやっとそれだけ言った。
「有能な助手がいてね。彼女が調査会社を通して退役軍人協会に当たってくれた。飛行機代やら彼女へのメシ代やら高くついたぞ」
「すまなかった。後で請求してくれ」
「まあ、それはいい。後の二人は意外な人物だ。興味深いと言った方がいいかもしれないな」
「誰だ?」
「この前、リトルイタリーで殺されたマリオ・ロッソと、もう一人の太っちょはロッソ・ファミリーの幹部のアレッサンドロ・モレッティとかいう男だそうだ。こいつは市警の知り合いが教えてくれた」
 私は声を失った。オニールとロッソ・ファミリーはバリゴッツィを通じてつながっていたのだ。だから写真を手に入れたがった。
「便箋に書いてあったメモの内容はよく分からないが、銃弾とか自動小銃か何かの型番みたいだぞ。武器の取引の走り書きなんじゃあないのか。数字は金額みたいだ。こいつは俺の知り合いの武器オタクに聞いたんだが、アメリカ軍の公式銃器らしい。それと、印が入った便箋はブリュッセルのホテル・バンドームのものだそうだ」
 ジョニーは、NATO軍内で行われていた不正行為の事実を掴んだのだ。オニール議員がどこまで関わっていたのかは分からないが、少なくとも彼の今の右腕であるバリゴッツィが絡んでいるのは確かだ。サラエボからニューヨークに帰り、オニール議員が大統領選に立候補したのを機に、ジョニーはオニールかバリゴッツィにその写真を突きつけたのだろう。それで彼は消された。辻褄は合う。
 私が押し黙ってしまったのを気にして、伏木が訊いた。「どうした。意外な答えだったか?」
「いや・・・ありがとう。本当に助かった」
「それで、連中は一体何をしようとしているんだ。マフィア絡みの武器取引かも知れないぞ。そんなのに関わり合って大丈夫なのか」
 伏木にこれ以上話さない方が良いような気がした。伏木はバリゴッツィがオニール上院議員の選挙参謀であることはまだ知らない。知らない方が良いのだ。連中は私を殺そうとし、サニャの命を奪った。しかも、現職のFBI捜査官が少なくとも一人は取り込まれていた。伏木は気がつかないうちに危険を冒しているのかもしれない。彼にはこの街に家族がいる。これ以上巻き込むのは危険だった。
「ありがとう。真実がちゃんと分かったら、真っ先に話をする。だから、この件はもう忘れてくれ。誰かから、何か訊かれても知らないと言うんだ。すべてはぼくに話して、君はもう何も知らない。調べてくれた助手や調査をしてくれた人物にも伝えてくれ。いいな」
「どうしたんだ、おい。この写真はどうするんだ」
「ぼくのアパート宛てに郵便で送ってくれ。もし郵送するまでに、ぼくに何かあったらシュレッダーをかけて処分するんだ」
「おい、草薙。ちょっと待て。お前、何を掴んだ・・・」
「頼んだぞ」私は伏木の怒鳴り声が聞こえてくる受話器を戻し、電話を切った。
 コーヒーショップの外に出ると、ひどくよそよそしい街が目の前にあった。陽が落ち、摩天楼にまた夜がやってきていた。家路を急ぐ人々が私の横を早足に過ぎ去っていった。ビールの形をしたネオンサインがチカチカと瞬いていた。企業名を示すアルファベットと株価のティッカーが途切れることなく電光掲示板の上を流れていった。株価は天井など存在しないように上がっていた。その隣のビルの電光掲示板では、この国が今抱えている財政赤字が毎秒数十ドルずつ増えていることを示す数字が延々と途切れることなく変わり続けていた。地上のあらゆることを犠牲にして、都合の悪いことからは目を塞ぎ、この国は狂ったように繁栄を貪り続けているのだ。目の前のブロードウェイを、数え切れないほどの黄色いタクシーがクラクションを鳴らしながら一つの方向に流れていき、ムートンのコートを着た婦人警官が笛を吹きながら交通整理を続けていた。防寒服を着て耳当てをした女性が自転車で目の前を走り抜けていった。
 風が吹き始め、赤や青や黄色のネオンが凍ったように止まり、やがて再び瞬き始めた。時間が止まってしまったようだった。多分、私の時間が止まってしまったのだ。
 この街には私の居場所など、どこにも無かった。


 サニャは屍体安置所にいた。台の上に寝かされ、ほかの多くの遺体と同じように眠ったように死んでいた。
「彼女を知ってるかね」
 ルイス警部は私の肩に手を乗せた。彼と初めて会ったのは、やはり同じ屍体安置所だった。今日の彼はひどく優しかった。
 私は頷いた。「サニャ・ストヤノビッチ。正確なことは分からないが、国籍は多分、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国です。家族がいるのかどうかは知らない」
「うむ」ルイス警部が頷いた。
 彼女の顔からはすっかり血の気が引き、唇が濃い紫色に変わっていた。それでも彼女は眠っているようだった。食肉工場の冷蔵庫の中で凍えて青ざめたまま眠ってしまったような感じだった。
 ジョニーの遺体は黒く炭化していて、人の形をほとんど残していなかったが、彼女は違った。目をそっと閉じ、微かに息が漏れてくるくらいの隙間を開けて唇を閉ざしていた。その表情は笑っているようにも、悲しんでいるようにも、怒っているようにも見えた。おそらく、なぜ死んだのか分からず戸惑っているのだろう。
 彼女は服を脱がされ、裸の上から白いシーツがかけられていて、鎖骨から上が覗いていた。私はシーツをそっとはぎ取った。彼女はもう誰に裸を見られても恥ずかしがる必要がないのだ。
 形の良い乳房から小さな乳首がツンと突き出ていた。左の乳首の少し内側に小指の先ほどの暗くて深い穴が開いていて、周辺に赤黒い血がこびりついていた。
「これから監察医が検視を行う」と、ルイス警部が言った。
 私は頷いた。
 へその周りの産毛がキラキラと照明に反射していた。手をそっと彼女の胸に触れてみると、アラスカの氷河のように冷え切っていた。私は彼女の茶褐色の恥毛の上辺りに手を乗せた。ルイス警部は困ったような表情をしていたが、何も言わなかった。
「ここにジョニーの子供がいたんです」私は言った。「彼女は子供を欲しがっていた」
「そうか」と、ルイス警部が言った。
 手をどけてシーツをかけると、彼女は再び静かに眠りに就いた。
 涙は出なかった。私の心は凍り付いてしまっていた。いつだって一番泣きたい時に涙は出てこないものだ。
 白衣を着た年老いた監察医がゴムの手袋をはめながらモルグの奥から現れた。
「行こうか」ルイス警部は私の肩を叩いた。
 私は頷いた。


 階段を上がってドアを開けると、またいつもの警察署の喧噪が戻ってきた。スリや売春婦がカウンターの前に列を作っており、もっと重大な犯罪者は両手に手錠がかけられていた。
 私は前に来た時と同じソファに座らさせられた。
「彼女を殺した犯人の見当はつくかね」ルイス警部が訊いた。
 私は首を振った。ロッソ・ファミリーの可能性が高かった。もし、そうなら私は自分の手で始末をつけたかった。
「財布が盗まれていた。彼女が悲鳴を上げ、男が走り去るのが目撃されている。物盗りの犯行かも知れん。さっき現場検証が終わったところだ」
 どこまで話すべきか分からず、私は躊躇した。私はジャンニ・ロッソに会い、彼らの手の中から逃げ出した。リッカルドは携帯電話を受けて「写真は必要なくなった」と言った。ロッソの仕業なら彼らはなぜ彼女が写真を持っていることを知っていたのか。簡単なことだ、バリゴッツィだ。あの男はオニールと一緒にいた。市長とオニールの記者会見にもあの男はいた。彼女が死んだのは私のせいだ。
「デーレンダ エスト カルターゴー」私は呟いた。
 あの時、ロッソ老人が口走った言葉だった。
「なんだって?」ルイス警部が怪訝な表情を浮かべた。
「正確な発音かどうかは分かりません。意味も知らない」
 警部は首を傾げた。「英語じゃあないようだな。それがどうした」
 厚いファイルを何冊も抱え、コーヒーカップを二つ持って、スミス刑事がルイス警部の横に座り、私の前にカップを一つ置いた。
「そりゃあラテン語ですよ。delenda est Carthago。カルタゴは滅ぼさねばならない、って意味です」スミス刑事が事も無げに言った。
「なんだそりゃ」と、ルイス警部。
「ローマ帝国の政治家が元老院で演説して締めくくる時に必ず言っていた台詞ですよ。大カトーだったかな」
「なんだってそんなこと知ってるんだ」ルイス警部は疑わしそうな表情でスミス刑事を見つめた。
「大学でラテン語を専攻してたんです。文学部でしたからね。言いませんでしたっけ?」
「文学だあ?」ルイス警部は目を丸くした。
「ひどいなあ。ぼくだって少しは勉強をしたんです。alea jacta est、骰子は投げられた、ってね」 スミス刑事は腰に手を当てて演説するように言った。
 あの老人は自分を古代ローマの政治家だと妄想していたのかも知れなかった。それだけの意味なのかも知れなかった。
「だいたいカルタゴってのはなんだ」ルイス警部が言った。
「カルタゴってのは古代ローマ帝国と対立していた貿易国家ですよ。三度ローマと争って敗れて、最後には街が完全に焼き尽くされて、人が住めないように塩が撒かれたそうです。ひどい話ですよね」
「お前は、警官じゃあなく、歴史のお勉強を続けてた方がよかったんじゃあないのか」
「そりゃあないですよ、警部」
「それで、あんた、そのカルタゴがどうしたんだ」ルイス警部が訊いた。
「いえ、何でもありません」私は首を振った。
 だが、私はその言葉が気になっていた。「もしかしたら・・・」
 私は立ち上がった。
「なんだ、どうした」
「何でもありません」私は上着を手に取った。「ちょっと行くところがある。すみませんが、このまま行かせてもらいます」
「おい、こら、ちょっと待たんか」
「うわっ」
 スミス刑事がのけぞった。ルイス警部が立ち上がったせいで、テーブルの上のコーヒーがこぼれ、持ってきていた調書を濡らしてしまったのだ。「馬鹿者。早く拭くものを取ってこい」
「了解」
「馬鹿者が、何をやっておるか・・・」
 二人が泡を食っている間に私は足早に立ち去り、娼婦や客引きの合間を縫って第六分署から飛び出した。
 私の想像が間違いである可能性の方が高かった。そんな愚かしいことが起きてよいはずはなかった。しかし、私の胸騒ぎはどんどんと高鳴っていた。悪い予感という奴だ。
 警察署を出て、私は走った。凍るような空気が肺を冷やし、私は走りながら咳き込んだ。氷のように冷え切ったサニャの顔が目の前にちらつき、私は吐きそうになった。道を行く人たちが私を見て、ある人は可哀想にというような表情で首を振り、ある人は怯えたような表情で道を空けた。
 パトカーが走り抜けていった。私を追ってきたわけではなさそうだった。私は再び咳き込んだ。
 チャイナタウンはいつもと何も変わらない夜を過ごしていた。ディナータイムが終わり、いつものように店員が後片づけをしている風景がそこにはあった。私は立ち止まり、息を整えた。肺の中はすっかり冷え切っているのに、身体は汗をかいていて背中と胸に水をかけたように汗が落ちていった。私は額の汗を拭い、安堵の吐息を漏らした。どうやら杞憂に過ぎなかったようだ。
 私は九龍飯店の前に立ち、「閉店」の札がかかったドアを押した。店には既に客は誰もいなかった。レジの上にかかっていた時計に目をやると十一時を回っていた。
 店員の女性が私の顔を見て、中国語で何かを言った。もう店は閉まっているとでも言っているのだろう。私はそれを無視して中に入っていった。
 厨房の方から、皿を乗せるトレイを持って黄賢が出てきた。私に気が付くと、驚いたように口を開け、やがて厳しい目つきに変わった。「何の用だ」
「マダムは・・・彼女はいるか。梅鈴は」
「奥様はいない。早く帰れ」短く英語で言った。
「彼女と話がしたいんだ」
 間違っているかも知れないが、彼女には伝えておいた方がいい、私はそう思っていた。
「帰れ、帰れ」トレイをテーブルに置き、黄賢は私の胸を押した。
「待ってくれ。彼女に話をしたらすぐに帰る」
「駄目だ。帰れ」
 私が黄賢と押し問答している姿を他の店員が遠巻きに見ており、店の中にざわざわと中国語で満ちていった。
「何をしているの。どうかした?」
 私たちの声を聞いたのだろう。深紅のチャイナドレスを着た梅鈴が奥から顔を覗かせた。「まあ、あなた」
 驚いたような表情だった。もう二度と私がここに来るとは思わなかったのだろう。「何しに来たの」
「聞いてくれ」
「黙れ」黄賢が中国語で梅鈴に話しかけた。私の言うことなど聞くなと言っているのだ。
「待って、黄賢」梅鈴が諭すように言った。「何の話かだけでも聞いてあげなさい。追い返すのはそれからでもいいわ」
 私が口を開こうとした時だった。
 ボンッという小さな破裂音がどこからか聞こえてきた。
「なんだ」黄賢が訝しげに辺りを見回した。
「それで何の用事なの」梅鈴は腕を組んで私を見つめた。怒っているようにも戸惑っているようにも見えた。「お店の片づけで忙しいの。あなたの相手をしている暇は無いわ」
「気を付けてくれ。当分の間、店やチャイナタウンの警戒をしてもらいたいんだ」
「どういう意味?」
 その時、外から大きな声が聞こえてきた。「火事だあ、火だぞぉ」
 遅かった。一瞬で私の汗が凍り付いた。
 私は困惑した顔の梅鈴と黄賢をその場に残して、店を飛び出た。見上げると、チャイナタウンの上空があちらこちで緋色に染まり、揺らめいていた。
 カルタゴは滅ぼさねばならない、きれいさっぱり燃えちまえばいいんだ、様々な声が私の頭を駆けめぐった。人がまだいる、こんな時間に火を放つとは予想していなかった。悪い予感が当たった。もしかするととは思ったが、早めに警告をすれば未然に防げるかも知れないと思っていたのだ。私がやろうとすることはいつも手遅れか、間違いばかりだ。
 私の後ろから梅鈴と黄賢が店から追って出てきた。梅鈴が悲鳴をあげた。
「早く九一一に電話をしろ。消防車を呼ぶんだ」私は黄賢に怒鳴った。
 火の手の回りは早く、既に何軒かの料理店に火が燃え広がり、チャイナタウンの空を焦がしていた。
 梅鈴が呆然とした表情で私を見つめ、やがて何かに気が付いたように私の肩を掴み、中国語で叫んだ。
「落ち着いて。何を言っているか、分からないよ」私は彼女の肩を揺すった。
 梅鈴が首を振って、自分を落ち着かせようとしていた。「子供たちがいるの。昨日着いたばかりで、倉庫に隠れているの」
「なんだって」
 私は彼女の腕を掴んだ。「どこだ、どこにいるんだ。早く連れていってくれ」
 梅鈴は子供のように何度も頷いた。
 火は信じられない早さであちこちを包み、時折、破裂するような音が聞こえてきた。
「こっちよ」梅鈴は私の手を握り、半袖のチャイナドレスのまま、裾を捲り上げて走り出した。
 バケツを持った町の人たちが店から飛び出してきていた。水が出ていないホースを握ってどうしていいのか分からず右往左往している人もいた。
 私は呆然と辺りを見回している中国人の男性を捕まえ、肩を掴んで揺さぶった。「君がここの指揮を執れ。とにかく水を出して火が広まらないようにするんだ」
 男は私を不思議そうな顔で見ていたが、やがて真顔で頷いた。
 次にバケツを持って近づいてきた女性を捕まえた。「君はみんなを避難させるんだ」
 女性が動き出したのを見て、私は梅鈴を促した。「どっちだ」
「こっちよ。早く」
 梅鈴は私の腕を掴み、入り組んだチャイナタウンの町並みを縫って走った。車が通れないほど細い道を抜けて、裏道のような通りを駆け抜けた。どう考えても消防法違反の建造物が立ち並んでいた。
 ようやく消防車のサイレンが聞こえてきた。どこかで爆発が起きた。前の建物の二階辺りから火が吹き出していた。
 私はジャケットを脱いで梅鈴の肩にかけ、火の粉を避けながら走り抜けた。
 古い造りの建物が燃えていた。すぐ隣の料理店の火が燃え移ったようで、煙を吹き上げていた。どこかから消火用のホースを引っ張ってきた男が料理店に水をかけていた。辺りには何人も住民がいて、おろおろと火の手が強まるのを見つめているだけだった。
「大変」梅鈴が悲鳴をあげた。
 彼女が指をさしたのはその古い建物で、火が出ていなくても、その古さでは、いつ崩れ落ちてもおかしくなかった。
 私は辺りを見回した。この道の狭さでは消防車が入ってくるのは無理だ。消火用の放水ホースを引き伸ばしてくるのにはかなり時間がかかりそうだ。しかも、あちこちで火が燃え広がっている状況では、ここの火がいつ消されるか分からない。
「なんであんな建物にいるんだ」
「古くて建て替えられる予定だから、誰も使っていない家なの。ほかの町に送り出す間、少しだけ隠れ家に使っていたの」
 炎は一階から二階へと上がっていくのが見えた。
 二階の窓から女が顔を出し、中国語で悲鳴をあげていた。
「早く火を消さないと」梅鈴が私にしがみついた
「分かってる」
 私は男の手からホースをひったくり、水を屋根の上の方に向けた。しかし水圧が弱くて、水が火にかかるだけで、少しも火勢は弱まらなかった。
「何人いるんだ」
「大人が四人、子供が五人よ」
「水を上の方からかけ続けるんだ」
 男にホースを渡すと、男は分かったというように頷いた。
 おろおろと火を見つめている梅鈴をその場に残し、私は燃えている反対側の家に向かった。ドアが開け放たれたままになっていて、私は勝手に上がり込んで、入り口の脇にあるクローゼットを開けた。ハンガーにかかった大きめのレインコートを引っ張り出し、キッチンに行って蛇口から勢いよく水を流し、コートを突っ込んで表裏とも水で濡らした。次にバスルームに向かい、バスタオルを取ると同じように水で濡らして絞り、頭からかぶった。その上から水浸しのレインコートを着込むと私は家を出た。家人が私が家から出てきたのを見咎め、中国語で何事か怒鳴った。火事場泥棒だと思ったのだろう。私は彼らを無視し、火の手が上がった建物に近づいた。
 玄関のドアを蹴るともろくなった蝶番が揺れ、数度蹴っているうちにドアが外れた。その途端、外の空気が吸い込まれ、私は玄関脇にへばりついた。炎が怒ったように飛び出してきて、また引き込まれていった。バックドラフト現象だ。火がくすぶっているところに新鮮な空気が入って爆発的に燃焼が広がったのだ。私は引き込まれていく火を追いかけるように建物に飛び込んだ。
 一階はそのままリビングになっており、壁の木の板がくすぶっており、天井を火が這っていた。私は大声で呼んだが、何の返事も無かった。一階の奥は煙がくすぶっていたものの火は出ていなかった。廊下の奥に緑色のドアがあった。私は木の扉に手のひらを当て、熱くないのを確認してから、ドアを開けた。部屋の中では、床の上に何人かが毛布をかけて寝入っていた。私は誰彼かまわず蹴りつけた。
 親と思われる男女が二人、眠そうな目をこすりながら毛布から顔を覗かせ、私の風貌を見てぎょっとしていた。無理もない。タオルを頭から巻き、水浸しのレインコートをかぶっている怪しい人物が突然現れたのだ。
「火事だ、早く逃げろ」私は怒鳴った。
 しかし、二人は訝しげな表情を浮かべ、私を見つめていた。英語が分からないのだ。
 私は彼らを立たせ、部屋の外から入ってくる煙を指さした。二人の目が丸く見開かれ、隣の毛布にくるまっていた子供を叩き起こした。子供は二人いた。私は彼らを部屋から出し、火の手が少し収まったところで、子供を抱えさせ、建物から追い出した。
 小さな建物で、一階には他に部屋はなさそうだった。私は火が壁を這い上がっているのを見上げ、恐怖に駆られた。二階に向かう階段の天井は既に火が回っていたのだ。私は目をつぶって三つ数え、勇気が萎えないうちに階段を駆け上った。
 階段の上の天井は焼け落ちていて、私は火を避けながら廊下を駆け、火の手が弱い方のドアを叩いた。中から悲鳴が聞こえていて、どんどんとドアを叩いていた。ドアは熱くはなかった。ドアは部屋の内側に押すようになっていたが、中にいる連中が内側から押しているためドアを開くことができなかった。パニックに陥っているのだ。内側に引っ張ることなど考えもつかないのだろう。私はドアノブを回したまま身体を思い切りドアに押し当て、靴をドアと壁の間に挟み、中の中国人にドアを引っ張れと怒鳴った。五回ほど怒鳴っているうちに、ようやく理解できたのか、ノブを引いてドアを開けた。十代の若い男と女と赤ん坊。
 私は彼らにレインコートをかけ、赤ん坊の身体に濡れたタオルを巻き付けて一階まで降りていき、コートを取り返した。
「他の子はどうした。あと二人いるはずだ」私は幼い顔をしている女の方に怒鳴った。
 私は指を二本立て、二人と示した。女は今までいた二階を示し、上だ上だと中国語で言いながら、赤ん坊を抱えて逃げ出した。
 私はもう一度、二階を見上げ、息子の航平の顔を思い出し、神様にお祈りをしてから、タオルを顔に巻き、煙を吸わないように階段を駆け上った。先ほどより火の手は激しさを増していた。若い親子がいた部屋の二つ先のドアに火が燃え移っていて、炎が燃え上がる音に混じって、中から弱々しい声が聞こえてきていた。薬品が燃えるような匂いがしてきて、頭がクラクラした。板張りの壁のペンキか何かが不完全燃焼を起こしているのかも知れなかった。
 私は火のついたドアの中央を蹴飛ばした。しかし、燃えてもろくなった部分に穴が開いただけで、ドアそのものは開かなかった。今度はドアノブをコートで掴んで回し、思い切り蹴飛ばした。
 ボンという音とともにノブが外れて、ドアが内側に開き、龍が火を吐き出すように炎が飛び出してきて、私は尻餅をついた。炎が顔を舐め、眉毛がチリチリと焼ける音がした。
 部屋の中では壁が燃えて、天井を焦がしていた。十代前半の少女ともっと小さな男の子が部屋の中央にいて、少女が男の子を抱きかかえて炎から守ろうとしていた。姉弟なのだろう。私は二人に声をかけたが、意識が朦朧としているのか私の声に反応しなかった。やせこけた少年の方はちょうど航平と同じくらいの年齢だった。
 私は女の子を起きあがらせ、男の子を抱きかかえて、部屋の外に出ようとしたが、二階の廊下は既に炎に包まれていた。壊れかけたドアを閉め、私は咳き込みながら、窓ガラスに向かった。窓枠は燃え落ちる寸前で、私は窓枠の中央を蹴ってガラスごと外に落とした。
 建物全体が燃え始めていた。外側の壁を火が這い上がり、屋根がいつ燃え落ちてもおかしくなかった。廊下のドアから煙が入ってきて、少女が激しく咳き込んだが、腕の中の少年はぴくりとも動かなかった。下から上がってくる炎を避けながら窓の下を見ると、道には何人もいて、一人の男がホースから力の無い水を壁に叩きつけていた。焼け石に水とはこのことだ。私は頭痛がする頭でそんなことを考え始めていた。部屋に一酸化炭素が充満しているのかも知れない。早くしないと私も意識を失いそうだった。
 道の脇の方からは、黒地に黄色の縞が入った防火服を着た消防士が、どこからか放水ホースを延ばしながら走ってきて、水を撒き始めた。建物の前の道が狭すぎて消防車やはしご車は入ってこれないのだ。数人の消防士が、道路の向かい側の家から大きな布団のようなものを引っ張り出してくるのが見えた。煙で涙が出てくるのを拭きながら見ると、それはベッドのマットレスだった。野次馬たちが手伝い、火の手のすぐ近くまでマットレスを持ってきて、私の方を見上げて手招きをした。上から飛び降りろということのようだった。
 私はなぜだか急におかしくなって笑い出した。頭がおかしくなりかけていた。煙で咳き込んで死ぬよりは、飛び降りて首の骨を折る方がましだ。
 私は少年を床に下ろしてから、タオルを少女の身体に巻き、少女を抱え上げた。彼女は私が外から投げ出そうとしていることに気が付くと悲鳴をあげて中国語で怒鳴り、私の顔を叩いたが、私はかまわず窓からマットレスに向けて投げ落とした。少女は悲鳴をあげ、手をばたつかながら放物線を描いてマットレスの上に落ちた。すぐに二人の消防士が彼女を助け起こすのが見えた。私は倒れている少年にコートを巻き付けた。コートはすっかり乾いて熱くなっていたが、少年の身体は冷たいようにさえ感じられた。
 後ろを見ると、火勢に押されてドアの周りから白い煙が吹き上がっていた。私は覚悟を決め、少年を抱き上げると窓に向かった。その途端、ドアが爆発して、私は熱い空気に押し出されるようにマットレスに向けて落ちていった。
 大した高さではなかったとはいえ、マットレスは予想よりずっと堅く、ずっと役に立たなかった。私は腰を打って息ができなくなり、少年は私の手を離れてマットの上から道に転がり落ちた。一人の消防士が少年に近づき、抱きかかえて胸に手を当てた。少年は息をしていなかった。消防士が首を後ろに倒して気道を確保し、口移しに息を吹き込んだが、少年の細胞は既に生きることを止めていた。しばらく努力を続けたが、やがて消防士は首を振って私の肩を叩いた。私は彼らから少年の身体を奪い取って立ち上がった。
 消防士たちが少女の肩を抱きながら連れていくのを見守り、そのすぐ近くで梅鈴が立ちすくんでいるのを見つけた。私は少年を抱きかかえて彼女の方に歩いて行き、ひどくやせこけて羽のように軽いその子の身体をコートごと彼女に渡した。腕と脚がだらんと垂れ下がり、顔が地面を向いた。真っ黒に煤けた顔で、梅鈴がその子を抱きしめ、しゃがみこんだ。
 私は彼女の肩にかけたままだったジャケットを取って着ると、近くにあった毛布を彼女と少年の身体に巻くようにかけた。
「謝謝、謝謝」彼女は何度も何度も頭を下げた。
 煤けた彼女の頬に黒い一本の筋が出来ていた。ホースで撒いた水がかかったのかも知れなかった。熱さのせいで汗をかいたのかも知れなかった。しかし、それが彼女の涙であることを私は知っていた。
 ふと見ると、王老人が杖をついて、梅鈴の横に立っていた。小さな身体はますます小さく見え、私を見上げると「日本の方よ、ありがとう」と言った。
 深い皺だらけの表情には苦悶が刻まれていた。
「あなたたちがやっていることが間違いだとは、ぼくには言えない。だが、正しいことをしているとも思えない」私は言った。
 チャイナタウンを燃やしていた炎は下火になり始めているようだった。消防車のサイレンは相変わらず激しく鳴り響いていたが、空を焦がしていた紅い炎は見えなくなり、代わりにいつものようにネオンの青や赤の煌めきが空を染め上げていた。
「あなたに理解してもらおうとは思っておらん」と、老人は首を振った。「じゃが、礼は言おう」
 老人は手帳のようなものを取り出すと、杖を持ったまま震える手で何かを走り書きして、書いた部分を切り取ると私に渡した。カリフォルニアの住所が書かれていた。
「これは?」私は老人を見つめた。
「あなたが知りたがっていたことは西にある」
「どういうことですか」
「真実じゃ。じゃが、知らない方がよいこともある。どうするかはあなたが決めなされ」
 老人は梅鈴の肩を抱くと、彼女を立たせた。
 梅鈴は少年の身体を抱え上げ、人目をはばかることなく泣いていた。黒い涙が彼女の頬を汚していた。間違っているのは私の方かも知れなかった。



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