■最後のさよなら■ 最終回 | KOZミステリーの部屋

■最後のさよなら■ 最終回


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<28>



 

 三月も半ばを過ぎ、昼の時間が少しずつ長くなり始めていた。寒さは峠を越えたようで、相変わらずコートは手離せなかったが、マフラーを外して歩いても凍え死ぬことはなくなった。聖パトリックデーのお祭りがあり、アイルランド人が緑色のシャツを着て緑色のシルクハットをかぶって五番街を練り歩き、グリニッチヴィレッジのアイリッシュパブでも頬に四つ葉のクローバーを描いた学生たちがビールグラスを片手に大騒ぎをしていた。連中にとっては、騒ぐ口実になれば、どの国のお祭りだろうと関係なかったのだ。
 大統領選の前哨戦となる予備選は山場を越し、民主党は副大統領のジェフリー・ゴードンが他候補を圧倒して党の指名を確実なものにした。一方の共和党は、最大票田であるカリフォルニア州の予備選で同州のレナード・スタイン知事が圧勝したことで踏み止まり、オニール上院議員の攻勢をかろうじてかわしていた。しかし、最初は南部が中心だったオニール人気は、ニューヨーク市庁舎での狙撃事件以来、今や全米規模で広がりつつあり、スタイン知事が敗北宣言を出すのは時間の問題と大半のマスメディアは決めつけていた。
 そんなある日、アパートのドアを誰かがノックした。
 私がドアを開けると、そこにはカリフォルニアで訪れた楊老人の店にいた楊暁文という名前の青年が立っていた。暖かいカリフォルニアからやって来たにもかかわらず、冬物のコートを着て、首にはマフラーを巻き、手袋をはめていた。
「楊叔父・・・言ったので・・・来ました・・・ここまで」暁文はでたらめな文法の下手くそな英語で言った。「カメラ・・・あなたに返す・・・言いました」
「なるほど。よく来てくれたね」私は頷き、彼を部屋に招き入れた。
 私がソファを勧めると、暁文はコートを着て手袋をしたままの格好でちょこんと座り、部屋の中を見回した。
「もう、腕はいいのかい?」
 私がそう訊くと、忘れていたというように左手で右手をさすった。
「大丈夫・・・治った・・・痛くない・・・です」
 彼は大きな鞄の中からニコンを取り出すと、コーヒーテーブルの上に置いた。私が手紙と一緒に楊老人に宛てて送ったジョニーのカメラだった。「壊れてる・・・カメラ・・・使えない」
「そうだね。でも、このカメラはぼくの友人がとても大切にしていたものなんだ」と、私は言った。
 暁文は頷いた。
「彼とぼくはサラエボという街で初めて会ったんだ。その街では戦争をしていて、隣に住んでいた人がそのまた隣の人を殺していた。彼はそのカメラを使って、その戦争を止めようとしていたんだ。真実を伝えたいと、彼は言っていた」
 暁文はまた頷いた。
「何か飲むかね」と、私は訊いた。
「いらない」と、暁文は言った。
 私は立ち上がって、本棚のところに行き、雑誌を手に取ってペラペラとめくった。
「わざわざ持ってきてもらったが、そのカメラは君のものだ。ぼくには必要ない。持っていってくれ」と、私は言った。
「もらえない・・・大切・・・あなたのもの」暁文は子供のように首を振った。
「何を言っているんだ。最初から君のニコンだぜ」
 私がそう言うと、暁文は凍り付いた。
 視線が部屋のあちこちを彷徨い、何をしゃべるべきか吟味するように言葉を選んでいた。「あなた・・・言ってる・・・私・・・分からない」
「下手な演技は止めておきたまえ、ジョニー」
 私はそう言って、星条旗の前で水着の女性がフレンチカンカンを踊っている表紙のプレイボーイを手に取り、彼の前に広げた。「そこに写っているのは君だろ」
 そこには特集記事があり、大統領選挙への出馬を表明した各党候補の主張をまとめたもので、有力候補が一ページずつ写真と今までの経歴と併せて紹介されていた。ライアン・オニール上院議員のページでは、NATO軍の中将だった際にどこかの席で撮影された写真が小さく紹介されていて「ボスニア情勢についてインタビューに応じ、撮影に快く応じるオニール中将(当時)」という説明が書かれていた。小さな写真だったが、オニール中将はカメラを持ったアジア系の男性の肩に手を乗せ、笑っていた。
「九三年の年末の写真だ。君は当時ブリュッセルにいた時にオニールと一緒に撮られていたじゃないか。新進気鋭のカメラマンとして紹介されているぜ」
 暁文は諦めたようにふうっと息を吐いて立ち上がり、コートを脱いでソファの背にかけ、再び座って脚を組んだ。「一緒に写真を撮るのなら、見栄えのいい女を選んだ方がいい。写真は本人よりもずっと後まで残るからね」
 私は彼の向かい側に座った。「写真は嘘をつかない。いつだって真実を写すんだ。そう言ったのは君だよ、ジョニー」
 手術で新しい顔は手に入れられても、目の光までは変えられなかった。ジョニーは意志の強そうな目で私を見据えた。「こうして話をするのは久しぶりだね、ケイスケ。また会えるとは思っていなかったよ」
 ジョニー・リーはそう言うと、手袋をはめたままテーブルの上のニコンを取り上げ、穏やかな表情で壊れたカメラを手に包んだ。「いつから分かっていたんだ」
「大華楼でクッキーを配った時さ。君はぼくに気取られないように左手を使っていた。不自然だったよ。ほんの少し前に顔を会わせていたんだ、いくら洋服を替えていても分かる。バートが助けに来てくれたしね。彼に頼んで、ぼくを見守ってくれていたんだろ」
「大華楼にいてくれて良かったよ。二階だけで済んだからね。店の親父はさんざん文句を言っていたが、小切手を掴ませたら店ごと建て替えられるって喜んでたよ。君がイタリア料理屋に連れていかれてたら、店全部を噴っ飛ばさなければならなかった」
 ジョニーは立ち上がって冷蔵庫から瓶ビールを二本取り出し、一本を私に差し出した。私は首を振った。
「チャイナ・ブルーを飲みたいところだが、仕方がない」と、ジョニーは言った。
「整形をしても、君は君だな」
「シリコンバレーの医者は優秀だ。闇医者でも高い料金を払えば、完璧な仕事をする。包帯もすぐに外れたよ」
 そう言って、手袋をしたままの手で頬を触った。髪は黒々としており、頬の醜い傷跡はなく、顔の形も全く違う別人だった。しかし、目の光の色はジョニーのものだった。
「指も治したんだな。シリコンの義指か」
 ジョニーは手袋の上から自分の指を見つめた。「今まで治さなかったのは戒めだったんだ。自分の軽率さに対する戒めだ」
「なぜニューヨークに戻ってきたんだ」と、私は訊いた。「梅鈴は捕まったよ。移民法違反の容疑だ。もう容疑じゃ済まないだろう」
「知ってる。やり手の弁護士を頼んだ。金ならいくらでもあるんだ」
「そうみたいだな。君はいろいろ非合法のものを売って荒稼ぎしたみたいだ。FBIや市警の連中が君のことを知りたがっていた。税務署の連中もきっと同じ気持ちだろう。それで今度はオニールに選挙資金を提供し始めたのか」
 ジョニーは左手で栓を開け、吹き出した泡に口を付けた。「ライアンはずるがしこい政治屋だが、使い道はある。ぼくは彼の尻尾を掴んでいるんだ。彼とは停戦したよ。彼が大統領になれば、ぼくは思った通りにできるようになる。彼としてもぼくのことを使い道があると思ったみたいだ、イタ公よりはね」
「それで奴と手を組んだのか。あんなに殺し合いをしていた間柄なのに」
「彼と殺し合いをしていたわけじゃあないよ。ぼくらとイタリア人の問題だ。これは政治の問題なんだよ。彼は今まではロッソと組んでいたが、ジャンニももういなくなってしまった。ぼくと組んだ方が役に立ちそうだということに気が付いたんだ」
「君がロッソ・ファミリーをつぶしたから、マンハッタンでまた殺し合いが始まる」と、私は言った。
「そうはならないよ。言ったろ、これは政治なんだ。殺し合ったって、何の利益も出なければ意味が無いんだ。力があるものが牛耳るのが政治なんだ」
「なぜ、彼らを殺したんだ」
「復讐さ。奴らは父親と産まれるはずだったぼくの子供を殺したんだ。あんなことがなければ、ぼくはカメラマンになって梅鈴と普通の生活を暮らしていたはずだ」
 彼の台詞はひどく空しく聞こえた。
「今まで待っていたのは、マリオ・ロッソがシチリアから帰ってくるのを待っていたのか」
「そうさ。奴の親父が死にかけてたからね、戻って来ざるを得なかったんだ。ぼくとマリオは犬猿の仲だ。奴と同じ町では暮らせない」ジョニーは組んでいた脚を外し、身を乗り出した。「ねえ、ケイスケ。ぼくと一緒に来ないか。ぼくには本当に信頼できる仲間が必要なんだ、君みたいな」
 彼の問いかけには答えず、私は訊いた。「ワシントン広場で、君の身代わりになった男は誰なんだ?」
 ジョニーは悪戯を問い詰められた子供のように俯いた。「つまらない奴さ。大陸から密入国してきたんだ。ビザが無いからちゃんとした仕事に就けず、いつも下っ端仕事ばかりさせられて文句を言っていた。腸詰め工場でこき使われた挙げ句に右手の指を機械に挟んでミンチにしちまった。保険にも入っていないし、生きていても仕方のない奴だったんだ。ぼくが五十ドルやるって言ったら、喜んでジャグァーの鍵を持っていったよ」
「君が姿をくらますために爆弾を仕掛けたんだな」
「そうじゃあない」ジョニーはそれを否定した「最初に時限爆弾をしかけたのはマリオ・ロッソだ。バリゴッツィとの関係を消し、自分の地位を安泰にするためにぼくを殺そうとしたんだ。ぼくはそれにちょいと細工しただけさ」
「君の仲間がやったのか」
「連中の爆弾は子供の花火みたいなもんさ。解除も簡単だった。ぼくの仲間に爆弾のプロがいるんだ。彼がちゃんと分量や爆発する範囲を計算して新しいのをセットしたんだ」
「それで、身代わりの仲間を噴っ飛ばしたわけだ」
「あいつは仲間じゃあない。ただ仕事を探してた半端者だ」
「それだって生きていたんだぜ。君と体型が似てるってだけで殺されちゃあ浮かばれない」
 ジョニーは肩をすくめた。「ぼくが殺したんじゃあないよ。イタ公のやつらさ」
「歯の治療カルテを交換しておいたのは、ずいぶん用意周到じゃないか。最初から計画的だったんだろ」
「そうじゃない、あれはたまたまさ。ぼくらの仲間に歯医者がいて、奴を治療させ、記録を作ったんだ」
「それを計画的だって言うんだ。君たちの言葉ではどういうのか知らないが」
 ジョニーは黙り、私の膝の辺りを見つめていた。叱られた中学校
の生徒のようだった。
「君はなんでぼくをニューヨークに呼んだんだ。目撃者なんて誰だってよかったはずだ」
「分からないよ。ただ、君に会いたくなったんだ。サラエボでは、ぼくらはいろいろ話をしたじゃないか」
「それでわざわざ写真を残していったのか。君はぼくにどうして欲しかったんだ。イタリア・マフィアを退治してもらいたかったのか。オニールの犯罪を暴いてもらいたかったのか」
「分からないよ。特に考えていたわけじゃあない。成り行きでこうなったんだ」
「ぼくが来なければ、サニャは巻き込まれなかったし、死なずに済んだ。彼女は家族を欲しがっていた。彼女は妊娠していたよ、君の子だ」
 ジョニーは呆然として私を見つめていた。「まさか、そんな・・・知らなかった」
「そうだろうね」と、私は言った。「もう終わったことだ。成り行きだからな。それに君にはどうでもいいことのはずだ」
 ジョニーは俯いて、手袋の上から新しくなった人工の指をいじっていた。まるで、失った指を探しているようにも見えた。彼はサラエボで、指と共に大切なものを失くしてしまっていたのだ。
「サラエボの市場を噴き飛ばしたのも君だね。NATOにいたオニールから頼まれたのか。それとも君が持ちかけたのか。あの重そうなカメラバッグに爆弾を入れて運んだ時の気持ちはどんなだったんだ」
 ジョニーは押し黙り、やがて言葉を探すようにゆっくりと話し始めた。「あのとき、アメリカは内戦で優勢だったセルビアを牽制したがっていた。セルビア人とロシア人は人種的に近いんだ。湾岸戦争以来、アメリカはロシアを囲い込むことに力を割いていて、ヨーロッパへの玄関口になるバルカン半島にロシアの熊どもが乗り出してこないようにするためには、セルビア人を抑えておく必要があったんだ。けれども国連軍の多国籍軍が駐留していたから、アメリカ軍は公式には手は出せない。だから、当時NATOの情報部にいたオニールがぼくに白羽の矢を立てたってわけさ」
「ジャーナリストの肩書きなら、戦場の街にやってくるのは簡単だからね。それで君は爆弾を抱えて国連軍の飛行機でサラエボに乗り込んだってわけだ」
「国連軍の飛行機には簡単に乗れたよ。全部オニールが手配したんだ。情報部の彼の手にかかれば、それくらいは簡単なことだった」
「青空市場で爆弾を爆発させたことも簡単なことだったのか。あの爆発で六十人以上が死んだんだぜ」
 ジョニーは表情を曇らせた。「オニールの奴に騙されたんだ。あいつは爆弾の量を少なくしてあり、ケースの中に入ったままだから、それほど被害は広がらないと言っていた。ただ、ちょっとした爆発が広場で起こって市民が巻き込まれて、それがセルビア側の仕業だとなれば、ボスニア政府側に同情が集まる。ぼくはその瞬間を写真に撮れる。奴はそう言った。断るのは難しい誘惑だった」
「それで君は魂を売ったのか。君がほかに売ったのはなんだ、カメラマンとしてのプライドと人間としての尊厳か」
「ぼくの中には天使と悪魔が同居している。君が知っているのは天使の方かも知れない。あの日サラエボで爆弾が破裂した時、ぼくの中の天使は死んだんだ。人間には二つの心はいらないよ。二つもあるとお互いに喧嘩ばかりしているからね。だから、悪魔に魂を売ってせいせいした。良心の呵責なんて余計なものに悩まなくてもよくなったんだからね」
「それならなぜ、部屋にニコンと写真を残しておいたんだ。ぼくに見てもらいたかったんだろう。サラエボのあの写真は悪魔の心を持った人間には撮れやしないぜ」
 ジョニーは黙りこくった。だが、彼が私の主張を受け入れることはなかった。「爆弾を仕掛けてカメラケースを建物の陰に隠した時、子供が見ていたんだ。ぼくの忘れ物だと思ったらしい。あるいは盗んでいこうと思ったのかも知れないな。気が付いた時には手遅れだった。その子はカメラケースを肩から提げたまま広場を駆け抜けようとして噴っ飛んだ。本当は、オニールはぼくも一緒に噴き飛ばそうとしてたんだ。でもそうはならなかった。ぼくは生き延びたんだ」
 私はグリニッチヴィレッジに残されていた四枚の写真のうちの一枚を思い出した。子供がカメラバッグを肩から提げ、逃げようとしている写真だ。
「ぼくは慌ててシャッターを押したんだよ。傑作だろ。ピュリッツァー賞を取ったっておかしくない写真だ。もちろん、あの事件はぼくのせいさ。でも、考えてみろよ。あの爆発があったおかげで世論はボスニア政府側に味方するようになったんだ。砲撃も止んだ。戦争で何千人も撃ち殺されるところが、たった六十人の犠牲で済んだんだ。ぼくは彼らを救ったんだよ」そう言うと彼は押し黙った。私の同意を求めているように、私をじっと見つめた。
「君の父親は武器商人だった。君は父親の仕事を継ぎたくないって言っていた」私は言った。
「そうさ。でも、親父がぼくをオニールに紹介したんだ。ぼくはカメラマンとしていい仕事ができるかも知れないと思ったから、ブリュッセルに行ったんだ。親父が考えていたのとは違う理由だった。親父はぼくに親父の仕事を継がせたがっていたんだ。でも、オニールの奴が望んでいたのも違う仕事だった。オニールはセルビア人が勢力を広げると、ロシアマフィアが出張ってきて密売ルートを荒らされるんじゃないかと恐れていた」
「君は前に言ったね。男はくたびれているとおしゃべりになるって。だが、後ろめたい男は言い訳が多くなるようだな。それでオニールと手を組んだのか」
「あのシナリオを書いたのはバリゴッツィの奴だよ。オニールはずるいだけで、賢くはない。オニールはぼくの親父と取引をしていて、ぼくを自分たちの仲間にしようとしていた。ぼくは親父の思惑なんてどうでもよかった。カメラマンになるつもりだったからね。だが、同じ頃、ロッソの奴らがオニールの部下だった同郷のバリゴッツィに近づいていて、密売ルートを手に入れたがっていた。バリゴッツィはオニールを懐柔したんだ。それでオニールの奴はぼくを裏切ったんだ。親父はオニールのことを信用していたけれど、ぼくはそうじゃあなかった。だからイタ公が連中に近づいてきたのを知って、保険のために隠し撮りしたんだ。まさか連中がぼくもろとも吹き飛ばそうとしているとは思わなかったけれどね。あれ以来、ずいぶん用心深くなったよ」
「奴らの思惑に乗って君が自分の意志でサラエボに行ったんだ」
「表の理由と裏の理由の両方から、ぼくをサラエボに行かせたのさ。アメリカ軍も同罪だ」
「父親が殺されて、君は裏社会とのつながりまで引き継いだんだ。ずいぶん黒く染まったじゃないか」
「これもビジネスだよ。生きていくための仕事なんだ」
「君もオニールと同じだな」と、私は言った。「結局のところ、人の命などどうでもいいんだ。自分のための駒に過ぎないんだ」
「何を言っているんだ、ケイスケ。あれは戦争だったんだ。何もしなくたって、毎日誰かが死んでいくんだよ」
「だからと言って君が勝手に殺していいって理屈にはならない」私はジョニーを睨み付けた。「それに君はニューヨークとサンフランシスコで何人も殺してきた。君の代わりに焼け死んだ男は君が直接殺したようなもんだぜ」
「この街だって戦場なんだ。イタリア人が中国人の土地を奪い、白人が黒人を撃ち殺し、ヒスパニックが白人をレイプする。民族同士が憎みあっているんだ。サラエボといったいどこが違うんだ。みんな平静を装ってるだけだよ。たがが外れたらここだってサラエボと同じになる。どこが違うって言うんだ」
「エンパイヤステートビルから狙撃されないし、空爆も無い。道路に地雷も埋まっていない。それが平和ってもんだ」
「ぼくらは本当の平和を作ろうとしているんだよ」ジョニーは両手を握りしめた。「ベルリンの壁が無くなって、ソ連が崩壊し、東西冷戦の構造が無くなったら、きっと国境の無い世界が生まれるんじゃないかと誰もが思っていたんだ。でもそれは間違いだった。今までソ連対アメリカっていう大国のエゴがぶつかりあっていたものが細かく分割されただけだ。民族や宗教っていうもっとドロドロとしたエゴにね。こいつらはちっぽけだけれど、人間の根源に根差したものだから、資本主義や共産主義なんていう上っ面なシステムの争いよりもはるかに激しく、醜い戦争を引き起こす。それがボスニアのあの戦争だったし、この街で起きていることなんだ。ぼくはそこに、ぼくなりの論理を持ち込んだのさ」
「君はマンハッタンを戦場にしたいのか」
「そうじゃない。焼野原を作ってそこにもう一度街を作るんだ。そこは民族的偏見の無い誰もが平等な天国なんだ」
「偏見は無いかも知れないが、代わりに恐怖が支配することになる」
「恐怖が統治に有効だっていうのは人類始まって以来の真理だよ。ヒトラーやスターリンやサダム・フセインがいい例じゃないか」
「君は狂っている」
「正気な方がどうかしているよ」と、ジョニーは言った。「サラエボで、子供たちが狙撃兵に撃ち殺され、砲撃で街が破壊されるのを目の当たりにして、カメラマンなんて所詮、記録屋でしかないことに気が付いたんだ。ぼくの写真が戦争を止めたかい。結局は平和な暮らしにうつつを抜かしている連中の同情を誘うだけで、大勢には何の影響も与えないのさ。くだらないソープ・ドラマと同じだよ。主婦がテレビを見ている間は感動もするし、涙も流すけれども、ドラマが終われば今夜の夕食のことを考え始めるんだ。決して現実の世界を動かすことはないんだよ。だから、ぼくは決めたんだ、こちら側で現実を動かす方に回ろうってね」
「その手段がテロリズムで人を殺していくことなのか。いろいろ考えて出した結論の割にはずいぶん陳腐だな」
 私が言うと彼の目が一瞬鋭く光り、やがて冷めた色に変わった。
「君なら分かってくれると思っていたんだよ。いや、そうじゃないな。君には分かってもらいたかったんだ」
「分からないね。分かるつもりもない」
 ジョニーは寂しそうに笑い、整形で治したはずの頬の傷がうずくのか、表情を歪ませた。やがて意を決したように口を開いた。「ケイスケ、ぼくと一緒に来ないか。ぼくと世界を変えてみないか」熱っぽい口調でもう一度言った。
 私は彼のその表情をじっと見つめた。
「さよなら、ジョニー。もう二度と君に会うことは無いと思うよ」
 彼はふっと吐息を漏らし、静かに首を振った。もう一度口を開いて何かを言おうとしたが、彼の口から言葉が出ることはなく、小さな息を吐き出しながらゆっくりと閉じていった。持っていたニコンを静かにテーブルに置いて立ち上がると、私の顔を見ようとはせずに、くるりと後ろを向いて部屋から出ていった。ドアがバタンと大きな音を立てて閉まり、微かに聞こえていた靴音はやがて聞こえなくなった。
 私はソファに座ったまま、閉ざされたドアを見つめ、テーブルに置きざりにされたニコンを取り上げた。ジョニーの温もりは私の手の中ですぐに消えて、元の冷たいカメラに戻ってしまい、二度と息を吹き返すことはなかった。
 ようやく彼にさよならが言えた。私の中で誰かが囁いた。サラエボの空港で言えなかった別れの台詞は鉄錆を舐めたようにひどく苦い味がした。



<エピローグ>

 それが彼との文字通り永遠の別れになった。一週間後、FBIとニューヨーク市警がチャイナタウンを急襲し、彼の組織との間で銃撃戦になった。彼は最後まで抵抗を続け、警官を何人か射殺した後、拳銃を口にくわえて後頭部を噴き飛ばした。
 同じ日、オニール上院議員がイタリア人のマフィア組織から資金提供を受けていたことを暴露する元側近の告白がニューヨーク・タイムズの一面を飾った。いつも付き従っていた税務官僚のような小男の顔写真入りの記事だった。見た目通り、彼が金庫番だったのだ。彼は選挙参謀のバリゴッツィと反りが合わず、追い出されたことを根に持って新聞社に駆け込んだ。ジョニーがブリュッセルで撮影し、私が新聞社に送りつけた写真は結局使われることはなかった。真実が明らかになるときというのは概してこんなものだ。どうでもいいところから秘密は漏れ出していくのだ。
 それから数日の間、過剰なマスコミの報道の中で、上院議員は大統領選への出馬を断念せざるを得なくなった。スーパーチューズデイの圧勝から、まだ一月しか経っていなかった。
 四月はこの街で一番いい季節だ。冬は唐突に終わり、息吹きすら感じられなかった木々が一斉に芽吹き、緑の衣をまとう。そして夏がやってくる。この街ではすべてのことが突然終わり、そして突然始まる。
 古い物を捨て去るのは時には必要なことだった。ニューヨークという街は、時に捨てたくないものまで無理矢理捨て去ろうとする。私はこの街が好きになり始めていた。
 私はふとサラエボの青く澄みきった空を思い出した。ジョニーは戦火の向こう側に広がるその空を夢見るような表情で眺めていた。空の向こうにあるはずの天国という虚像をレンズ越しに探していたのかも知れなかった。
 その日、摩天楼のビルの隙間から顔を覗かせた空の色はサラエボの空に負けず劣らず青く澄み渡っていた。
 どこかに天国というものがあるとしたら、この街のように罵声とクラクションが飛び交い、白や黒や黄色い顔をした天使たちが急ぎ足で道を横切っているのかも知れなかった。ジョニー・リーの探していた世界は私には見ることができなかったが、今の私にはマンハッタンも十分に天国に近いところにあった。


the end



お読みいただき、どうもありがとうございました。
今回で、「最後のさよなら」は終了いたします。

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                                              著者拝


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