KOZミステリーの部屋 -2ページ目

■最後のさよなら■ 第20回

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<19>


 翌朝、私たちは雲の切れ間から久しぶりに太陽が顔を覗かせるまでベッドの中にいた。ベッドで隣に女性が眠っているのも久しぶりだった。
 私が完全に目を覚ました時には、彼女はTシャツ姿でパンを焼こうとトースターと格闘しているところだった。
 私たちは何事も無かったようにトーストとコーヒーとオレンジの簡単な朝食を取り、何事も無かったように洋服を着てアパートを出た。ブルージーンズに革ジャンパーという姿でサニャは写真の学校に行くと言い、私はインタビューの時間が決まったら電話をすると言った。
 サニャはバスの停留所がある十二番街の方向に向かい、私は地下鉄に乗る前に銀行に寄らねばならず十番街に向かった。
 キスも抱擁も無かった。ロマンチックな気分というのはいつまでも続かない。私はアメリカ人の離婚率が高いのはそれが原因だろうと考えた。
 摩天楼の上には久しぶりに日差しが出ていたが、靄に覆われたままの弱々しい光で、寒さは永遠に去らないように思えた。吐いた息は冷凍庫の氷から上がった湯気のように白く、道路のマンホールからは下水を流れる温水に温められた白い蒸気が噴き上がっていた。きっとマンハッタンは悪さをした罰で、冷凍庫に押し込められているに違いなかった。
 銀行で現金を引き出してからアパートに帰った時に、誰かに出迎えられるとは思いもしなかった。私の部屋の一つ隣のドアの前で、中年の女性が腕組みをして煙草を吸っていた。生地が透けたピンクのナイトガウンを着ていて、髪を上げている様は女性そのものだったが、下着から突き出した脚にはすね毛が覗いていて、うっすら無精髭が生え出した様子を見ると、男だったのかも知れなかった。
「あんたねえ、引っ越しだか片づけだか知らないけれど、夜中は止めてちょうだい。おかげで寝不足だわ」
 煙を脇に吐きながら、私の顔を睨み付けた。
「物音がしましたか」嫌な予感がした。
「したわよ。朝方までガサガサやってるから、警察を呼ぼうと思ったくらいよ」
「すみませんでした。飼っていたネズミたちがオリンピックでも始めたのかも知れない」
「あら、ずいぶん大きなネズミなのね。ペットは禁止よ」彼女は皮肉っぽい調子で言い、私を睨んだ。
「ミッキーとミニーっていう名前なんです」
 彼女の怒声に耳を塞ぎ、私は部屋のドアの前に立った。
 鍵を開けて部屋の中に入ると、床一面に嵐の後の海岸のようにあらゆるものが撒き散らされていた。後ろ手にドアを閉め、まだ誰かいないか狭い部屋の中を確認したが、すっかり荒らされた後だった。錠前は二つとも、こじあけられたり壊された跡は無かった。しかし、プロの手にかかれば、どんな錠も開けられないものはないのだ。
 プロの空き巣だろうか。それにしてはタイミングが良すぎる。私がサニャの部屋に泊まったことを知っていて、侵入したのだ。
 私がサニャのところに泊まると知っていたのは誰だろう。サニャはともかく、誰が私と彼女が一緒にいるところを見ていただろう。伏木とコットンキャンディという店にいた女性たち。そして私たちを襲った男。
 あの強盗は何と言っていた?。写真? 何の写真だ。あの男は最初から襲っているのが私であることを知っていた。誰に頼まれたのだ。私がニューヨークに来てからは写真など一度も撮っていない。もちろん、ジョニーだ。
 だが、何の写真だ。伏木に調べてもらうために渡した写真、現像に出したままのフィルム。私が知らない写真がほかにあるのか。何の写真だ。
 本棚から落とされたナショナルジオグラフィック誌を拾っている時に、ペンギンの親子が踊っている表紙の一冊に何かが挟っていることに気が付いた。
 それはすっかり変色してしまった英文の新聞記事の切り抜き数枚で、何の新聞かは分からなかったが、NATOがボスニア内戦の終結を早めるためにクロアチア共和国南部のクライナ地方に集結しているセルビア人勢力の出撃拠点の空爆を検討しているというニュースだった。記事には年号が入っていなかったが、ボスニア内戦で被害が拡大し始めた時期のようだった。
「・・・北大西洋条約機構のうち、英仏両軍は、戦闘機、爆撃機などによるセルビア人勢力の出撃拠点となっているウドビナ空軍基地を空爆することを検討していることを明らかにした。これに対して米軍は空爆により内戦が激化すると憂慮しており、英仏首脳に対して空爆を思いとどまるよう進言した模様。情報部のライアン・オニール米軍中将は『空爆により戦闘地域が拡大する可能性が高く、軍需物資の輸送に支障を来す可能性がある』との懸念を表明している。ボスニア内戦に対してNATO諸国間に不協和音が生じていることで、国連防護軍の活動に影響が出るのではないかとの見方も出始めている・・・」
 新聞記事はほかにもあった。
「・・・ソ連邦崩壊により、国際政治への影響力を失いつつあるロシア共和国が人種的に近いセルビア人勢力への支援を打ち出していることに対して、NATO軍は対応策の協議に入った。情報部のライアン・オニール中将はBBCのインタビューに応じ、『ロシアの出方次第では湾岸戦争以来の危機に発展する可能性もある』と述べている・・・」
 ライアン・オニール中将、NATO軍情報部の情報将校を務め、現在のアメリカ合衆国の上院議員であり、共和党の大統領候補の一人・・・。なぜ、ジョニーはオニール議員について記事を残していたのか。
 私は部屋の荷物を片づけながら、その理由を考えていたが、解答は何も見つからなかった。
 部屋の中のモノは撒き散らされていたが、部屋を壊されてしまったというわけではなかった。夜中に侵入した賊は遠慮がちに捜し物をしたらしい。大家やら警察やらがやってきて騒ぎが大きくなるのを恐れたからに違いなかった。
 ジョニーはこの部屋では生活をしていなかったため、それほど多くの持ち物を持っておらず、片づけるのは一日もあれば何とかなりそうだった。
 私ははっと気が付いて、ジョニーが大切にしていたカメラの備品が入ったジェラルミンのケースを探した。リビングの壁際に置かれていたはずだったが、そこにあったのはソファのクッションと雑誌が数冊だけだった。侵入者が誰だかは分からなかったが、ジョニーが撮った写真に興味があったのは間違いなさそうだ。一度も中を覗いたことはなかったが、そこに何かジョニーが殺された理由を示す何かがあったのかも知れない。そう思うと私は自分の愚かさ加減に怒りを覚えた。みすみす証拠になるかも知れないものを奪われてしまったのだ。
 私は床に座ってため息をついた。これでジョニーの死んだ本当の理由を解きほぐすことはできなくなってしまった。
 ふと、私の視線が黒光りするモノを捉えた。ソファと本棚の間にジョニーの壊れたニコンが転がっていて、プレイボーイ誌のヌードグラビアが被さっていた。背中をこちらに向けた金髪のプレイメイトがパンと張ったヒップと、グレープフルーツを押し込めたようなバストを強調して振り返りながら造り笑いを浮かべている写真だった。レンズが割れて本体もひしゃげたニコンを拾うと、雑誌がパタンと閉じた。表紙は星条旗の前で水着姿の女性たちがフレンチカンカンよろしく脚を高く上げている写真で、「プレイメイトを大統領に!」と、グラビアのタイトルが書いてあった。
 私は、あちこちの塗装が剥げたニコンを手に取り、シャッターが切れるかどうかを試してみたが、ウンともスンとも言わなかった。この有様では修理をするのも無理だろう。フィルム入れが開けっ放しになっていて、侵入者は中にフィルムが入っていないことを確認して、放り投げていったということが分かった。
 何かが見つかるかも知れないと思った私はがっかりしてソファに座り、ひしゃげたレンズを左手で支えた。ピントを合わせられるかどうかを試そうとしたが、レンズの胴が折れ曲がっていたことと電池が切れていたせいで、オートフォーカスのレンズはぴくりとも動こうとしなかった。赤いリリースボタンを押してレンズを外そうとしたが、カメラ本体がねじれていたせいか、ミシッと音を立てたきり回らなかった。
 少々頭に来て、思い切りレンズと本体をひねった。ガシッと金属同士が噛み合う音がして、レンズがパカッと外れた。その拍子に中から何かが飛び出してきて、床に落ちた。拾い上げると、筒のように丸めて輪ゴムをかけたネガフィルムだった。
 私は息を呑み、部屋の中を見回して誰もいないことを確認してから、ゆっくりと輪ゴムを外した。クルクルに巻かれて癖がついたフィルムを直しながら、窓の外の明かりに透かして見ると、白黒反転したフィルムの中に人物が写っていた。このままでは誰が写っているのか分からなかったが、ジョニーがわざわざ見つからないように壊れたカメラの中に隠したネガフィルムなのだから、何か理由があるに違いなかった。
 フィルムを隠すならカメラの中。当たり前のことだ。これが部屋に押し入った人物が欲しがっている写真なら、街中のドラッグストアで現像に出すのは危険かも知れなかった。サニャに相談してみよう。写真学校に通っているなら、何かよい方法を知っているかも知れなかった。
 ほかに何か見落としているものがないかを探すためにベッドルームに行った。こちらはベッド以外にほとんど何も置かれていないせいもあってリビングほど被害はひどくはなかったが、シーツはもちろん、ベッドカバーからベッドパッドまで剥がされ、ひっくり返されていた。
 片づけをしながら、部屋を見回していると、床にひっくり返っている留守番電話のランプが赤く点滅していることに気が付いた。慌てて私は電話機をベッド横のテーブルに置き、再生ボタンを押した。
「メッセージは一件です」という合成された女性の声に続いて、同じように機械的な女性の声がしゃべり出した。
「オニール上院議員の秘書のアン・オコナーです。インタビューの日程が決まりました。急ですが、明日午後二時に、パーク街にあるウォルドルフ・アストリアに来てください。部屋番号は・・・」
 インタビューが取れた。本来なら喜ぶべきことなのだが、私はなぜか釈然としなかった。昨日依頼したばかりのインタビューだ。そんなに簡単に時間が取れるほど、オニール議員が暇を持て余しているとは思えなかった。
 私は受話器を取り上げ、留守番電話に残っていたアン・オコナー女史の番号に電話をかけ、明日の予定を確認した。「はい」「OK」「分かりました」という三つの言葉しか彼女は発しなかった。私は機械と会話をしている気分になっていた。あるいはオコナーという名前の秘書は本当には存在せず、実は機械だったのかも知れなかった。どちらでもよいことだ。少なくともオニール議員は生きた人間のようだったから。
 次にサニャのところに電話をかけると、彼女は出かけたまま留守だった。私は明日二時前にウォルドルフ・アストリアのロビーで待ち合わせをしたいとメッセージを残して電話を切った。
 次にかけたのは、昨日ニューヨーク・タイムズのキャシーに紹介してもらった契約カメラマンのボブ・ローガンだった。ローガン自身はいなかったが、彼の秘書だという女性が出て、何の用事だと無愛想に訊いてきた。私が彼に訊きたいことがあると説明し、仕事の依頼ではないことが分かると、ますます無愛想な声になって、今日の午後は撮影のスケジュールは無いので、いつ来てもらっても構わないと言った。三時に伺うというと、いつでもかまわないと繰り返し、電話を切られた。これで給料をもらっているというのが不思議だったが、アメリカ人の秘書は給料の額によって愛想笑いのランクが決まってくる。おそらくよほど安い給料でこき使われているのに違いなかった。
 私は部屋の片づけを五分ほどして、ドラッグストアに出しっぱなしになっていたネガフィルムを取りに行くことを、片づけを後回しにする言い訳にして、部屋を出た。
 ドラッグストアでプリントとネガを受け取り、タイムズスクエアのあちらこちらににあるスターバックスのうち、一番近い店に入って、シアトル風のコーヒーを飲みながら、写真を確認した。いずれもサラエボで撮影した写真で、やせこけた少年たちが路地裏で遊んでいる写真やブルカ姿のムスリム女性がライフル銃を持っている写真などがあった。私に見覚えがあったのはサッカースタジアムに立ち並んだ墓標の前で葬儀をしている家族の姿だった。しかし、どの写真を見てもなぜこの写真のネガを部屋にわざわざ残しておいたのかは分からなかった。
 最後の一枚は、部屋の片隅に置いてあるジェラルミンのカメラケースだった。どうやら彼が泊まっていたホリデーインの部屋らしかった。二つのケースは壁に沿って置かれ、一つは蓋が開けられていてカメラが顔を覗かせており、もう一つは蓋が閉まっていて南京錠がかかっていた。なぜ、こんな写真を撮ったのだろうか。私には理解できなかった。残っていたジェラルミンのカメラケースは持ち去られてしまっており、もはや何が入っていたのかは知ることはできなくなってしまった。
 私から写真を奪おうとしている連中が欲しがっているのは、こんな写真ではないような気がした。壊れたニコンに入っていた写真こそが目的なのではないだろうか。
 ここにあるのは、戦場写真のマニアでもなければ何の役にも立ちそうもない写真ばかりだ。しかし、それらはジョニーが命がけで撮影した大切な写真だった。ピュリッツァー賞は取れなかったが、私やジョニーにとってはそれくらいの価値があるものなのだった。


 約束の三時五分前に、私はカメラマンのボブ・ローガンのオフィスを訪ねた。ニューヨーク・タイムズのビルから歩いて三分ほどのところにある高層ビルの三十七階に彼のオフィスはあった。ドアを開けると、飾り棚に盾やトロフィが数台のクラシックカメラとともに並べられているのが目に入った。どこかの写真雑誌のカメラマン・オブ・ザ・イヤーや、艶めかしい女性のヌードをかたどったトロフィに並んで、女性モデル数人を左右に侍らせ、ヤニ下がっている男の写真が飾られていた。どうやら、ローガン氏は自己顕示欲が旺盛な人物のようだった。
 無人のカウンターに置かれた呼び鈴を鳴らすと、針のように細い身体の事務員がやってきて、ローガン氏は電話中だから、そこのスタジオで待っていろと言って中に戻っていった。
 私が通されたのは、コンクリートが打ちっ放しの広い部屋で、片隅には撮影用のスクリーンが張られ、両脇に照明灯が立っていた。窓全体には暗幕が張られていたが、今は半分くらいが開かれたままで、背の低い建物を眼下に見下ろせた。摩天楼を下に見下ろしながら生活するのはさぞかし気持ちがいいだろうと私は考えた。王様と雲は高いところが好きという言葉があるが、少しばかりの金を手にすると人は高いところに上らないと気が済まなくなるものなのだ。
 壁にはいろいろな女性の水着写真が額に入れられて飾られていた。尻を必要以上に突き出したり、胸を両手で隠しているセクシーなポーズの女性たちが蠱惑的な表情を浮かべていた。照明灯の横のテーブルの下にはカメラのストロボ用の電源があり、テーブルの上には真新しい一眼レフのデジタルカメラが置かれ、その脇には撮影用の衣装なのか、あるいはコトが終わって用済みになったのか、女性の下着が置きっぱなしになっていた。どうやらローガン氏がニューヨーク・タイムズの契約カメラマンというのは大きな誤解だったらしかった。
 私はカメラを取り上げ、その重さを確かめた。最近発売されたばかりのデジタルカメラで、値段が張るものだったが、スタジオに惜しげもなく置いておけるくらいローガン氏はカメラマンとしては成功しているらしかった。あるいはもはやカメラそのものには興味を失ってしまったのかも知れなかった。戦争や事故の現場を駆けずり回って撮る報道写真よりもプレイボーイ誌のヌードグラビアや、ウォルマートのチラシ用に女性モデルを撮影していた方がよほど金になる。写真は金儲けの道具と割り切れば、カメラなど金勘定のための算盤と大して変わりはなかった。
「あんたかい、俺に用事ってのは」
 奥のドアが開いて、隣の部屋から出てきたのは、普通の人間をふくらし粉で三倍に脹らませたような男だった。入り口の写真とは似ても似つかず、よほど上手に修正したに違いない。朝からコークを飲みながらドーナツを五つ食べ続け、食間にポテトチップスを頬張っていれば誰でもなれる体型だった。髪には寝癖がつき、顎に薄く無精髭を生やして、不機嫌そうに私の手からカメラを取り上げた。チューイング・ガムをクチャクチャと音を立てながら噛んでいた。口の中に何かが入っていないと生きていけないタイプの男だった。
 私は自己紹介をして、時間を取ってくれたことに丁重な礼を言ったが、彼にとってはどうでもよいことのようで、テーブルにあった下着を拾ってカメラのレンズの埃を拭き始めた。
「で、何の用だい」と、ローガンはカメラのボディに息を吹きかけながら言った。
「ジョニー・リーのことを知りたいんです。あなたと一緒に仕事をしていたと聞いた」
 彼はその名前にすぐには反応しなかった。しばらく考えたあげく、ああ、あの男か、と呟いた。「奴がこのオフィスにいたのはもう数年前の話だ。俺は知らんよ。何があったんだ、こそ泥でもして捕まったか。それとも麻薬でもやったか」
「彼は死にましたよ。知らなかったんですか。ニューヨーク・タイムズにも載っていた」
「知らねぇなあ。俺ぁ新聞は読まないんだ。最近のニューヨーク・タイムズは日曜日のアート欄しか興味は無いね。で、奴はなんで死んだんだ?」
「彼はワシントン広場で、爆弾で噴き飛ばされたんです」私は簡単に説明した。あまり詳しく教えない方が得策のように思えたのだ。
 ローガンはカメラをいじりながら、ニヤニヤ笑い始め、空いた方の手でポケットの中を探った。ビスケットでも出てくるのかも知れなかった。「そいつはクールじゃあないか。なあ、おい?」
「何がクールだって」私は胃の上辺りに酸っぱいものが込み上げてくるのをこらえながら訊いた。
「あいつは仕事をくれてやった恩も忘れて、いい気になってたんだ。ここをおん出てからは、親父の遺産で食ってたっていうじゃあねえか。それが爆弾で噴き飛ばされたってんだ。クールじゃねぇか。で、あんた、あいつの何が知りたいんだ」男は牛のように口の中でガムをクチャクチャと反芻しながら言った。
「彼とはいつまで一緒に働いていたんですか?」私は怒りをかみ殺しながら訊いた。
「そうさなあ。湾岸戦争が終わった辺りから、ボスニアに行って奴が噴っ飛ばされるまでの間かな。思えば、奴にとってあの頃がピークだったな」
「どういう意味ですか?」
「あの頃、ニューヨーク・タイムズやほかの雑誌にあいつが撮った写真がいろいろ載ったのさ。マンハッタンの街並みの写真やら、政治家のインタビューやら、事件現場やらいろいろさ。それで鼻高々だったんだな。だが、ボスニアから帰ってきてからは仕事をする気が失せたようだ」
「ブリュッセルには一緒にいったんですか?」
「ブリュッセル? ああ、NATOの仕事か。俺は行かねぇよ。あいつが勝手に仕事を取ってきたんだ。ずいぶん羽振りがよくなってたから、大方NATOの要人のスキャンダルでも撮って脅迫してるんだろうって噂したもんさ」
「彼が誰かを脅迫してたって話があるんですか?」
 ローガンは口をもぐもぐさせながら、記憶を掘り起こしているように見えた。「うーん、そういう訳じゃあないが、まあ何かネタを掴んだんだろうさ。これでピュリッツァー賞は取ったも同然だってわざわざブリュッセルから電話してきたくらいだからな」
「ブリュッセルから?」
「俺たちゃ、それで奴がスキャンダル写真でも撮ったに違いねぇって話したわけさ。大方、オランダの飾り窓の女からそんな話でも聞きかじったのさ」
「相手はライアン・オニールですか?」私は訊いた。
 ローガンはぽかんと口を開けて、それが誰なのかを考えていたが、思いつかずに頭を振った。「知らねぇなあ。誰だ、そりゃ」
「大統領になるかも知れない男ですよ」
 私がそう言うと、ローガンは唇が乾いたかのように舌を出して舐め回した。
「そいつぁクールだぜ。おい本当かよ」ゴシップ誌にでもネタを売り込もうとでも考えているに違いなかった。「おい、あんた写真でも持ってるんじゃねぇのか。どんな写真だ。見せてみろよ」
「さてね。あなたが知ったことではない」
「おい、俺に任せてみねぇか。いいルートがあるんだ。うまく売り込んでやる。取り分は六・四でどうだ」
「ぼくは写真なんか持ってない」
「誤魔化すなよ。七・三でもいいぜ。あんたが七で、俺が三だ。どうだい、いい条件だろ。ジョニーの奴、そんな写真を持ってたのか、クールだぜ」どうやら彼は何も知らないようだった。
 その時、ドアが開いて、メロンのような胸のすぐ下で断ち切った短いTシャツを着て、下着を隠すにはほとんど役に立っていない短いスカートを履いた派手な金髪の女性モデルが入ってきた。シャツの胸の辺りにはキスをせがむような大きな唇のマークがプリントされていて、この寒さにもかかわらず、高いヒールのサンダルを素足に履いていた。ほとんど裸同然の姿で、夏のロングアイランドの海岸で出くわしそうな格好だった。彼女は胸を強調したポーズを取りながら、私たちの方へ歩いてきた。
「ねぇ、ボビー、撮影はまだかしら?」彼女は腰をくねらせ、潤んだ瞳でローガンを見つめ、濡れた唇からハスキーな声を漏らした。
「ベイビー、いい子だね。もうちょっと待ってておくれ」ローガンは品の無い笑いを口元に浮かべて彼女の格好を舐めるように見つめた。「全くクールな格好だ。もうちょっとシャツをまくってみろ。ペントハウスが特集を組んでくれるような写真を撮ってやる」
 これ以上、彼に訊いても何も知ることはできそうにないと考え、私は退出することに決めた。彼と話していると頭がおかしくなりそうだった。「いろいろありがとう。もう十分だ」
「なあ、おい待てよ。俺と組む気になったら電話してくれ」
 そう言うと、ズボンの尻のポケットから折れ曲がった名刺を取り出し、私に握らせた。
 真っ赤な紙に白抜きの文字で写真家ボブ・ローガンと記されており、左肩に彼女のTシャツのマークと同じ白抜きの唇のマークが入っていた。
「一稼ぎできるぜ、なあおい。クールじゃねぇか、えぇ?」
「あんたはカメラマンより、シアーズの修理工場で冷蔵庫でも直している方が向いているみたいだ」私は言った。
「なんだそりゃ」訳が分からないというように怪訝そうな顔をした。
「クールな冷蔵庫に頭を突っ込んで霜取りでもしている方がお似合いだって言ったんだ」
 ローガンは怒るどころか、脂肪の塊の腹を折って苦しそうに笑い出した。「そいつぁいいや。クールだぜ」
 私はため息をつき、スタジオから出ようとした。
「なあ、おい」ローガンが私の背中に声をかけてきた。「そういやあ、あいつ電話で言ってたぜ。すげぇ事件が起きるから新聞を見てろってな」
「事件って何だ?」ドアを片手で押さえ、私は振り返った
「知らねぇよ。そう言っていた奴が噴っ飛んじまったんだ、全くクールじゃあねぇか、えぇ?」
 私はドアをバタンと閉め彼のオフィスを出た。彼のクール、クールという声だけがチェシャ猫の笑い声のようにグルグルと頭の上を回っていた。私は寒気を覚え、ぶるっと身震いをした。



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■最後のさよなら■ 第19回

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<18>


 夜が更け、客も増え始めたが、サニャはオーナーに許しを得て、早めに店を上がることにした。彼女のピアノの演奏は店の売り物の一つだったので、中国人の店長はいい顔をしなかったが、ほかのアルバイトの女性とは違って彼女には就労ビザがあり、首にすると言って脅すこともできず、渋々ながら早退を認めざるを得なかった。
 私は彼女を連れ出す代わりにワイルドターキーのボトルを入れ、名札に伏木の名前を漢字で書いた。
 伏木は眠そうな目をしばたたかせながら「すまんな」といい、私は「大したことはない」と言った。数年ぶりに彼女に出会えたことを思えば、ボトルをリザーブすることなど大したことではなかった。
 あと二杯飲んだら仕事に戻ると言う伏木を残し、私はサニャを連れて店を出た。まだ食事をしていない彼女のために、深夜営業のダイナーに入り、彼女にハンバーガー、私はホットドッグ、そして生ビールをグラスで二つ注文した。
 オニール議員のインタビューの撮影については、彼女は二つ返事で請けてくれた。時間の方はまだ決まっていなかったが、昼間は写真の勉強に出かけているだけだからいつでも都合はつく、と言った。
「ちょっと古いカメラだけれど、大切に使っているから大丈夫」
 ビールのグラスに口をつけながら、サニャは微笑んだ。
 私はホッとして礼を言った。
 料理が出てきてからは、彼女がニューヨークに来てからの経験を楽しそうに話し、私は黙って頷く役回りだった。素敵な女性が楽しそうに話しているのを見ているのは素敵な気分だった。話している相手が私自身であるというのは、もっと楽しい気分だった。
「あの店にはね。本当にいろいろなお客さんが来るのよ。頭をペコペコ下げてばかりの日本人や、チップを値切ろうとする中国人。ビールしか飲まないドイツ人とか、誰でも彼でも女の子を口説いているイタリア人」大きな身振りで説明し、彼女はおかしそうに笑った。
 私も久しぶりに楽しい気分だった。
「君が元気で嬉しいよ」と、私は言った。「ずっとどうしているのか考えてた」
「嘘つき」彼女は微笑み、テーブルから身を乗り出して私の頬を突いた。怒っている風ではなかった。
「あなたって日本にお子さんがいるんでしょ」唐突にサニャが訊いた。「子供がいるってどんな感じ?」
 私は肩をすくめた。「素敵な気分だよ。仕事をしようって気になる。それに日曜日は遅くまで寝ている理由を見つけるのが難しくなる」
 サニャはくすくす笑い、「素敵ね」と言った。
 私はジョニーのことを訊いてみることにした。「ジョニーと会った時、彼はどんな仕事をしていたんだ」
「よく知らないわ。貿易関係と言っていたけれど」
「ほかにはどんな話を?」
「子供が欲しかったって」
「君へのプロポーズじゃないのか」
 私は茶化すと、サニャは真面目な表情で反論した。「違うわ。赤ちゃんはいたけれど、生まれる前に死んじゃったって」
「本当かい? 知らなかった。そんな話はしてくれなかった」
 梅鈴との子供だろうか。ジョニーも梅鈴もそんな素振りは少しも見せなかった。それはプライベートな話だから、したくなかったのかも知れない。私は彼の何を知っていたのだろうか。結局、何一つ知らなかったのだ。
「自分の子供って可愛いでしょうね」ポツリとサニャが言った。「あなたがうらやましいわ」
 私はそれに何と応えればいいのか分からなかった。口から出てきたのは、全く別のことについてだった。
「ところで、ジョニーがサラエボに行く前に、ブリュッセルにいたって知っていたかい?」
「ブリュッセル?」
「そう、ベルギーの首都」
「いいえ、初耳」サニャは首を振った。「彼は自分のことはあまり話さなかったから」
「写真のことは何か言っていなかったかい?」
「写真? 何の?」
「分からない。でも、サラエボの写真のことかも知れない」
 彼女は私の顔を見て微かに表情を曇らせ、俯いた。「分からない。何か言っていたような気がするけれど、よく覚えていないわ」
 それからは、今までの彼女とは別人になってしまったかのように何かを考え込み、テーブルに肩肘をついて顎を乗せ、窓の外のネオンに目を向けて、私と目を合わそうとしなかった。
 彼女の故郷のことを思い出したのかも知れなかった。あるいは、彼女は何かを知っているのかも知れなかったが、今は訊かない方が良いような気がした。形の良い眉の上に微かに皺を寄せているサニャの横顔を眺めながら、ハンバーガーの付け合わせとして皿に盛られた山のようなポテトを食べ、どうしてアメリカ人はこんなにポテトばかり食べるんだろうと、私はどうでもいいことを考えていた。


 ミッドタウンと呼ばれるマンハッタン島の中心部は通りが格子状に縦横に走っている。南北を貫く大通りは自動車が速度を上げて走り抜けていく太い通りだが、東西の街路は細く、大半が一方通行で、タイムズスクエアから一歩入った繁華街でも夜になれば人気が無くなってしまう通りが多かった。ダイナーから出た私たちが歩いていたのはそのような街路の一つだった。道の両側には雑居ビルが建ち並び、道に沿って隙間なく車が駐車してあり、車一台がすり抜けるのも難しいほどだった。
「もう少し話がしたいわ」サニャは私の腕を掴んだ。
「ビールなら付き合うよ」と、私は応じた。
 後ろから近づいてくる靴音に気が付かなかったわけではなかった。しかし、最近のマンハッタンは、誰もが年に数度はホールドアップに遭った昔に比べると格段に治安がよくなった。こんな街の中心で危険に遭遇するとは思っていなかった。
 それは全くの誤りだった。
 靴音はどんどん近づいてきて、最後には小走りになり、私が振り返ろうとした矢先、背中に堅いものを押しつけてきた。
「しゃべるんじゃあねぇ。静かにしてりゃあ、この姉ちゃんも傷つけたりしねぇ」
 脳に神経があまり通っていないようなしゃべり方で男が凄んだ。
 隣のサニャの緊張した表情に安心するよう頷きかけ、私は両手を肩の高さまで上げた。
「持ってるモノを出しな。全部だよ」
 私はゆっくりと手を下ろしてフライトジャケットのポケットに手を入れ、財布を目の前の地面に落とした。
 男は、私に銃口を向けたまま前方に回って財布を拾い上げ、財布の中身を確認して現金だけを抜き去ると、再び財布を投げ捨てた。男はヤンキースの帽子をかぶって、茶色のスタジアムジャンパーを着ていて、顔はよく見えなかった。
「写真はどうした? 写真はどこにある?」男は銃を目の前で振り、当惑したような口調で怒鳴った。
「何のことだ」
「誤魔化すんじゃねぇ。どこに隠した、写真だ、写真」
「何の写真のことを言ってるんだ。誰かに頼まれたのか」
「チッ」男は舌打ちをすると、銃口を私の腰に押しつけたまま私のジャケットの内ポケットとジーンズの前後のポケットに手を突っ込み、ハンカチ以外に何も収穫が無いことを知ると、戸惑ったように辺りを見回し、銃を左右に振った。「なんで持ってねぇんだ。どこにやった」
「いったい誰に頼まれたんだ」
「うるせぇ」
 男は銃口を下に向け、弾き鉄を引いた。弾は地面に弾けて火花が散り、ズキュンという湿った音が辺りに響き渡ると同時に、どこかでガシャンと何かが割れ、数秒遅れてキャアッという悲鳴が聞こえてきた。跳弾がどこかの窓ガラスを割ったのだ。
 自分の起こした結末に慌て、男は私たちに背を向けて一目散に逃げ出した。私は財布を拾い、中のクレジットカード類を改め、ポケットにしまった。
 どこかで窓ガラスが開いて、男が汚い言葉で罵る声が聞こえてきた。私たちが銃弾を撃ち込んだと誤解しているのかも知れなかった。黙っていると、私たちに向けて発砲してきそうな気がして、サニャの手を握ると、強盗が逃げていったのとは反対の方向に駆け出した。
 十番街へ出ると、急に人波が戻ってきて、イエローキャブのクラクションが耳に突き刺さった。私は夢でも見ていたのではないかという気になったが、夢ではなかった。改めて財布の中身を見ると、現金はすべて持っていかれてしまった。残っていたのはコイン入れのクォーターとダイム、ペニーが数枚だけだった。
「銀行に行かないといけない」と、私は言った。「これじゃあタクシーも拾えない」
 私の背中にすがって震えていたサニャが呆れたように私の顔を見上げた。「あなたってすごく勇気があるのか、とんでもないお馬鹿さんのどっちかね」
「きっと後の方だ」私は彼女の肩に手を置いて言った。「でも、命を取られずに済んだんだ。神様にお礼を言わなくちゃ」
「神様なんて信じてないわ」サニャは私から視線を逸らした。
 やれやれ。私はため息をついた。
 今夜はサニャに出会えた。これで私はツキを使い果たしてしまったようだった。ニューヨークで生まれて初めて強盗に襲われた。いいことがあれば悪いこともある。私は昔、中国の辺境地帯に住んでいたという老人の話を思い出した。駿馬を獲ても落馬するかも知れないのだ。何が起きるかは神様の思し召しさ、そんな言葉が頭を巡った。
「これからどうするの?」私が立ちすくんでいるのを見かねたのか、サニャが訊いた。「警察に被害届を出しに行く?」
「止めておくよ。警察に行けば朝まで事情聴取だ。経験があるんだ。それに二百ドルばっかりじゃ真面目に取り合ってくれない。行くだけ無駄さ。銀行で現金を引き出してタクシーをつかまえるよ」
 サニャは小首を傾げ、私を見つめた。「あたしのアパートに来ない? ここからなら歩いて帰れる。狭いけれどベッドもあるわ」
 私は肩をすくめた。「ありがたい申し出だけど、出会ったばかりの女性に誘われた時は日を改めろって死んだ親父に言われたんだ。我が家の家訓だ」
「まあ」サニャはくすくす笑った。「出会ったばかりじゃないわ。ずっと昔からの知り合いよ」
 私は頷いた。「それなら親父にも叱られない」
「それにこんなことがあった後だもの。今夜は誰かと一緒にいたいの」サニャは私に腕を絡ませた。
 彼女の台詞に少しだけドギマギして、舞い上がることはないと自分に言い聞かせた。
 彼女は顔を上げ、私の顔を潤んだ瞳で見つめた。
「あなたがいてくれて良かったわ」と、サニャは言った。


 彼女のアパートはマンハッタン島の西側を流れるハドソン川から一ブロックほど離れた古ぼけた建物で、彼女の部屋は川には面しておらず、窓は北側を向いていて、壊れかけたブラインドの隙間からはチカチカと瞬くどぎつい赤や黄色のネオンの灯りが部屋に入り込んで来ていた。日本のワンルームマンションに毛が生えたようなステューディオタイプの部屋で、金の無い学生が我慢して借りるようなアパートだった。ダブルサイズのベッドが部屋の中央を陣取り、通りに面した窓に向かって小さなソファが置かれていた。
「いい部屋だ」と、私は言った。
「嘘つき」コートとパンプスを脱ぎ、裸足のまま私のジャケットをハンガーにかけて壁に吊しながら、彼女は笑った。
「マンハッタンで生きていくには十分の広さだ。景色もいい。エンパイヤステートビルから見る夜景もこうはいかない」
 サニャはくすくす笑った。「ビールならあるわ」
 冷蔵庫に歩いていって私にバドワイザーの瓶を渡すと、私に背を向けて黒のドレスとストッキングを脱ぎ、ベッドの上に置かれていた白いTシャツを頭からかぶった。シャツの乳房の辺りには大きくI LOVE NYという文字と、虫食いの穴が開いた赤いリンゴのイラストが描かれていた。
 彼女が洗面所に行っている間に、私はソファに座ってバドワイザーを開け、どうしてアメリカ人はこんなに水のように薄いビールを好きこのんで飲んでいるのだろうかと考えていた。
 しばらく経って彼女が戻ってくると、彼女は私の横に座り、バドワイザーの栓を開けないままテーブルに置いて、私の肩に頭を乗せた。
「疲れたわ」と、彼女は言った。
「眠いのか」
「こうしていたいの」
 サニャは私の肩に頭を乗せたまま目をつぶり、手を私の膝に置き、眠ったように動かなかった。本当に眠ってしまったのかも知れなかった。
「ベッドに行くかい」
「ええ」サニャは頷いた。
 照明を暗くすると、Tシャツ姿のまま毛布の下に入り込み、トロンとした目つきで私を見つめた。薄暗がりの中、彼女の顔で赤や緑のネオンの光が反射していた。
「あたしとセックスしたい?」
「ああ」
 私は彼女の隣に横になった。
「とてもしたい?」
「ビールを飲むのと同じくらい」
「でもごめんなさい。今はダメなの」そう言うと、サニャは目を閉じた。
 私は息を吐いた。「気にすることはない。ぼくも盛りのついた高校生じゃない。今夜はビールも十分飲んだ」
「ありがとう」
 彼女は私に背中を向けると、私の腕を取って頭を乗せた。心地よい重さだった。裸の腕に彼女の柔らかな髪が触れ、私は反対の手で彼女の髪を撫でた。
「彼と寝たわ」と、彼女は言った。
「そう」と、私。
「なぜだか訊かないの?」
「ジョニーを好きになったんだろう。戦火のサラエボで男と女が出会い、ニューヨークで再会したんだ。恋に落ちてもおかしくない。ハリウッドが気に入りそうな話だ」
「誰が映画の話をしてるの」少し怒ったような口調だった。
 それからずっと黙ったままだったので、眠ってしまったのかと思ったが、やがて身体を回して私の方を向いた。
「彼の子を妊娠しているの」
「愛していたのかい」
「分からないわ。でも愛してはいなかったと思う」
「好きになる必要はないさ。誰かと寝たい夜もあるし、そうでない夜もある。ここはアメリカだ。恥ずかしがることはない」
「あなたって嫌な人ね」と、彼女は言った。「本当のことを言うと、サラエボから逃げ出したかったの。埃だらけの街並み、穴だらけの建物、爆弾で噴き飛ばされた広場の噴水、血の痕で真っ黒なシミが付いた絨毯、そんなものから逃げ出したかったの」
「分かるよ」
「そんな時、彼から連絡があったの。会いたいって。あたしはあの街から逃げてきたの」
 私は彼女の髪をそっと撫でた。
「みんな死んでしまったわ。家族もみんな死んでしまった。だから彼と寝たの」
「家族が欲しかった」
「分からないわ。そうだったのかも知れない」
 それきり彼女はしゃべらなくなった。
 私の胸に顔を埋めると、背中に腕を回してぎゅっと力を入れた。私は彼女の背中を抱きしめた。
「ママ・・・」腕の中でサニャが呟いた。
 彼女は眠っていた。


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■最後のさよなら■ 第18回

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<17>


 七時を少し回った頃、私は大きなカップ麺の広告がかかったタイムズスクエアの脇にあるピザ屋の公衆電話から、電話をかけた。
「やあどうだった? ニューヨーク・タイムズの方は、何か収穫はあったか」電話に出た伏木は上機嫌な声だった。
「ああ、まあまあだ。少しだけ知りたかったことが分かった。だが、おかげで別の疑問も出てきた」
「なんだそりゃ。まあいいさ、今から付き合えるか」
「時間はあるが、さっき頼んだ件だが・・・」
「話は後で聞く。今どこだ」
「タイムズスクエアだ」
「ここからなら十分で行ける。支度をして出るから十五分ほど時間をつぶしてろ」
「おい、ちょっと待ってくれ」
 私の声は伏木には届かなかった。受話器の向こうから聞こえてきたのはガシャッという通話が切れた音と、ツーツーという連続音だった。せっかちなところは昔と全く変わらない。早メシ早ベンは記者の資質の一つだが、伏木のは度を超している。私は呆れながら、受話器を戻した。
 まあいい、会ってから話せばよいことだ。私は回転ドアを通って、店を出た。外はすっかり陽が暮れていた。空気には冷気が入り込み、家路を急ぐビジネスマンがコートの襟を合わせ、毛糸の帽子を目深にかぶって足早に地下鉄の入り口を降りていった。私はぶるっと震え、ジャケットのポケットに手を突っ込んだ。
 約束の十五分を五分ほど過ぎた頃になって、伏木が白い息を吐きながら駆けてきた。
「待たせたな」伏木は私の肩に掴まるとハアハアと喘いだ。「出がけに支局長に捕まっちまった」
「出てきて大丈夫だったのか」
「日本の締め切りなら、まだしばらく時間がある。気にすることはないさ」
「首になっても知らないぞ」
「おいおい、今支局長に呼ばれてたのはお前のことでなんだぞ」
「ぼくの?」私は首を傾げた。
「さっき、領事館から電話があったらしいんだ。なんとかいう領事がお前のことで問い合わせてきたよ」
「村井領事」
「そうだったかな。まあそいつが、お前と俺との関係はどうなってるのかだってさ。支局長も事情がよく分からないから、俺に直接声をかけてきたってわけだ」
「なんで、ぼくが伏木と知り合いだって分かったんだ」
「さあなあ。東京の本社にでも問い合わせたんじゃあないのか。それでお前がうちに在職してた時の同期だってことで俺に問い合わせてきたとか。だいたい、そいつはお前の何を知りたがってるんだ」
「そんなのはこっちが知りたい」と、私は言った。
「気味が悪いな。領事館に目をつけられるなんてロクなことはないぞ。何かあったって何もしてくれないし、文句を言うばかりのところだからな」伏木はコートの襟元を合わせてぶるっと震えた。
「村井って領事は警察庁からの出向らしい」
「警察庁? 公安か?」
「知らんよ、そんなことは」
「草薙、お前、変なことに絡んでないだろうな。友人が犯罪者だったなんて洒落にもならんぞ。なんか事件を起こすなら俺の知らないところでやってくれよ」
「おいおい」私は伏木の背を突いた。
「冗談さ。だがまあ、領事館に目をつけられてるってのは気になるな。無茶するなよ」
「分かってるよ。それより、すまなかったな。君まで迷惑をかけてるみたいだ」
 伏木は笑いながら、私の肩を叩いた。「大丈夫さ、今まで十年以上、真面目に仕事をしてきたんだ。俺への信頼は揺るがんよ。それにちょっと面白そうじゃあないか。何かあったら教えてくれよ」
 私は肩をすくめた。村井という領事がいったい何を探ろうとしているのか分からなかった。いずれにしても今考えても何も始まりそうもなかった。
「悪いと思ってるなら、今日もおごれよ」
 私が考え込んでいるのを見て、伏木はそう言うとブロードウェイを足早に横切り、マンハッタンで一番華やかなタイムズスクエアから少し外れた四十二丁目の雑居ビルに入っていった。
「どこに行くんだ?」
「カメラマン、いやカメラウーマンだな、紹介して欲しいんだろ」年代物のエレベーターがゆっくりと上階から降りてくるのを待ちながら、伏木は私を振り返り、目配せをした。
「それは、そうだが」
「まあ、いいからいいから。ついて来いって」
 古ぼけたエレベーターに乗り込み、磨り減って読めなくなったボタンの数字が押した。
「こんなところにそのカメラマンがいるのかい」
 どう見ても写真のギャラリーやスタジオのようには見えなかった。ニューヨークには古いビルをギャラリーに改造しているところは多かったが、この雑居ビルはどうみても飲食店しか入っていそうもなかった。
 エレベーターが六階に停止して、ドアがぎしぎしと軋みながら開くと、「コットンキャンディ」という看板が吊されたドアが目の前にあった。
 そのドアを押しながら、伏木は言った。「お前の知り合いの中国人のリーさんに連れてきてもらった店だ」
「そうだったのか」
「この店はツケが利くんだ」
「相変わらずそんな飲み方をしてるのか」
「カミサンには内緒だぜ」伏木は片目をつぶった。
 店は少し暗めの照明で、ガラス窓の外からはタイムズスクエアを埋め尽くした極彩色のネオンサインの灯りがチカチカと瞬きながら店内に入り込んでいた。雑居ビルにある店にしてはずいぶん広い店のようだった。
 まだ時間が早かったためか、客はまだ伏木と私の二人きりだった。この手の店が混み出すのは、夜がずっと更けてからの時間帯だ。
「ピアノバーと言ってな、女の子が付くんだ」伏木は相好を崩した。
 彼の説明では、マンハッタンにはよくあるタイプの店のようだった。銀座や赤坂の接待用のクラブに似ていて、店に出ている女性は日本やアジアからの留学生がアルバイトをしていることが多かった。アメリカでは留学ビザで許可無く働くのは違法行為だったが、学費や生活費を稼ぐためにはこうした店で働くのが手っ取り早いのだ。学生に限らず、元々は留学で来ていたがビザの期限が切れてそのまま住み着いている不法滞在者も多かった。違法なアルバイトをしていたり、ビザが切れていることが移民局に見つかれば、そのまま強制送還されるため、店の経営者から足下を見られて安くこき使われていることも多い。この国で働こうとする外国人は、ビザが無ければ一昔前の奴隷と同じ程度の待遇しか得られないのだ。
 私と伏木のテーブルには二人の女性が付いた。二人とも二十代の日本人で、近くの大学の留学生だと自己紹介した。ほかにも数人の女性ホステスがいるらしかったが、まだ時間が早いために、今いるのは四人だけだと、女性の一人がまだ頼みもしないのにウイスキーを注ぎながら説明した。
「伏木さんたら、全然来てくれないんだから」
 伏木の横に座って豊満な胸元を押しつけているアケミという女性が口元を脹らませた。
「マコです」私の横に座った女性が自己紹介した。
 顔全体に白粉を塗りたくって、睫毛にマスカラの玉ができており、露出度の高い洋服からは安っぽい香水の匂いがした。
「今日は彼女は来てないみたいだな」伏木は店の奥のグランドピアノを見やって言った。
 ピアノは演奏されていなかった。店の中は何も音楽が無く、バーカウンターの中でバーテンがグラスを磨き、片づける際に擦れ合って鳴る澄んだ音が聞こえるくらいだった。
「来てるわよ。あなたたちが早すぎるから」
「悪かったな」
「悪いなんて言ってないわ。でもいつも来る時はベロベロに酔っぱらってるじゃない」
「悪かったね」
「もう」女性たちがケラケラと笑った。マコという女性がケラケラと笑いながら私の肩に抱きついてきた。
 私は何もおかしくはなかったので、黙ったままバーボンのオンザロックを口にしていた。
「久しぶりね。クサナギさん」突然、外国人特有の訛りがあるものの、とてもきれいな発音の日本語が聞こえてきた。「来るのをずっと待っていたのよ」
 声のした方を向くと、すらっとした肢体に肩を出した黒いドレスを着た背の高い女性が立って私を見下ろしていた。亜麻色の髪をストレートに伸ばし、誰が見ても美しいと思う女性で、どこか憂いを帯びた笑みを浮かべていた。
「おいおい何だ、知り合いだったのか? それなら俺がわざわざ紹介することもなかったじゃないか」伏木が隣に座ったアケミという女性の肩を抱きながら、口を尖らせた。「彼女が噂のフォトグラファーだ」
 そう言われても、私には彼女が誰なのか分からなかった。「久しぶり」などと声をかけられそうな外国人の女性には知り合いなどいないはずだった。
「あら、忘れちゃったの。ひどい人ね。ピアノを聴きたいって言っていたのに」女性が繊細な顔にガラスのような笑顔を浮かべた。
 私の中で記憶の糸が一本につながった。
「サニャ・・・サニャなのか」
 そこに立っていたのはサラエボで通訳をしてもらったオスロボジェニェ紙のサニャだった。髪の長さも、体型も、そばかすの形も、私の記憶の中にあるサニャとは全く違っていたが、意志の強そうな蒼い瞳の色は確かに彼女のものだった。
「なんで君がここにいるんだ」
 私はキツネにつままれたような顔をしていたに違いなかった。それはそうだ、サラエボにいた彼女がマンハッタンのピアノバーで働いていて、たまたまやってきた私と出会うなど出来過ぎている話だった。
「ご挨拶ね。久しぶりに会ったっていうのに」
「まさか、こんなところで会えるとは思わなかった。どうして君がニューヨークにいるんだ」
 返ってきたのは意外な答えだった。「ジョニーがあなたが来ていることを教えてくれたわ」
「ジョニーが?」
「ええ、そのうち会えるだろうって。彼がニューヨークに呼んでくれたのよ」
「サラエボから?」
「そうよ。写真の勉強をしているって言ったでしょ」
「それでニューヨークに?」
「ええ。写真の学校に通ってるわ」
 サラエボで記者をしていた時の彼女とはすっかり様変わりしていたが、志は変わっていないのかも知れなかった。
「それでこの店で働いているのか?」
「ここならピアノがただで弾けるわ。お金ももらえるしね」
「ジョニーが死んだのは知ってるのかい」
 サニャは俯き、寂しそうな表情をした。「聞いたわ。車が爆発したって」
「そうか」
「ええ」
 隣で私たちを見物するように見ていた伏木が、しびれを切らしたように口を開いた。「紹介する必要も無かったな。いったいどういう訳なんだ」
「ありがとう。フシキさん。私たち昔から知り合いなんです」きれいな日本語でサニャは言った。
「上手だね。どこで覚えたんだ」と、私は訊いた。
「この店よ」
「大した才能だ。ピアノにカメラ、語学もか」
「自慢するほどではないわ」彼女は裸の肩をすくめた。
「二人とも立ち話もなんだ。座って昔を懐かしんで話でもするか、彼女に曲でも弾いてもらったらどうだ」と、伏木が言った。
「ぜひ聴きたいね。彼女との昔からの約束なんだ」
 サニャは小さく頷くと、店の片隅に置かれたグランドピアノにゆっくりと歩いていき、椅子に座った。
 少しの間、目をつぶると、やがて静かに曲を弾き始め、ピアノの上に置かれたマイクに囁きかけるように歌った。ポール・サイモンが作曲して、アート・ガーファンクルが歌っていた曲だった。ポールはギターを爪弾いていたが、サニャのピアノも切なく清々しい音色を奏でた。

 四月になれば彼女がやってくる
 小川のせせらぎが雨で満ち溢れる頃
 五月にはここに住み着き
 また、ぼくの腕の中に眠る


 六月、彼女は気が変わり
 眠れない夜をさまよい歩き続ける
 七月、彼女は飛んでいくだろう
 行ってしまうなんて一言も告げずに


 八月、彼女は死ぬだろう
 秋の風が凍るように冷たく吹いている
 九月、ぼくは思い出す
 あの時芽生えた恋は、すっかり枯れ果てた


 彼女はいったい誰のためにこの歌を歌ったのだろう。死んでしまったジョニー・リーのためだったのだろうか、彼女が後にしたサラエボの街のため、それともニューヨークのためだったのかも知れない。今は二月だった。四月になればどうなるというものではなかったが、誰もが彼女の声に聞き入っていた。


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■最後のさよなら■ 第17回

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<16>


 翌朝、遅い日の出を待って凍える手で空気が抜けたタイヤをスペアに交換してようやく車を走らせ、眠い目をこすりながらアパートに辿り着いてベッドに倒れ込んだ。
 昼近くに起き出してぬるま湯しか出てこなくなったシャワーを浴び、スペアタイヤのままのフォードを恐る恐るレンタカー屋に返しに行くと、ターバンを巻いたインド人の親父が愛想よく「ノー・プロブレム」と笑った。
「よくあることだから、気にしないでいい」そう言って、彼は私を慰めた。「日本人はきちんとしてるね。保険をかけてるから修理代は出るよ。大したことじゃあない。盗まれたってかまわないんだ。もっとどんどん借りてくれ」
 レンタカー屋の親父はよく日に焼けた顔で大きく笑った。
 なるほど。日本人がビジネスで敵わないわけだ。盗んで来た馬の目を生きたままくり抜いて、馬主に売りつける図々しさが無ければ、この街では勝ち抜くことはできない。
 梅鈴や王老人がやろうとしていることは間違いなく違法行為だったが、彼らにとって道義的には正しいことなのかも知れなかった。返す当ての無い数万ドルの渡航費を肩代わりしてもらい不法に密入国して、奴隷のような暮らしに甘んじようとも、それは彼らが望んだことなのだ。そして、その方が彼らが幸せというなら、私がとやかく言うことではないのかも知れない。後は、彼らと移民帰化局、そして取りも直さず合衆国政府と中国政府の問題なのだった。
 睡眠不足もあり、部屋でうとうとしながら大人しく仕事をしようかと考えていたところに電話機が鳴った。
「ミスター・クサナギはいますか」声は女性だった。聞いたことの無い声だ。
「私ですが」
「オニール上院議員の秘書のアン・オコナーです」
 私はごくりと息を呑んだ。彼女にはその音が聞こえたかも知れなかった。
「ご依頼になっていたインタビューの件でご連絡しました。上院議員へのインタビューをご希望でしたね」電話会社のオペレーターがしゃべっているような事務的な口調だった。
「はい。日本の出版社を通してお願いしています」私は喉がかさつくのを感じながらゆっくりとしゃべった。
「上院議員がインタビューを受けてもいいとおっしゃっています」
 私の胸はどきどきと高鳴っていた。「どうもありがとうございます。大変光栄です」
「ただし条件があります。時間は三十分、場所は後ほどこちらから指定します。写真撮影はかまいませんが、インタビューの内容はテープに録音できません。事前に身体検査を受けていただきます。これらはセキュリティ上の理由です。この条件をお飲みいただけるのなら、上院議員とのインタビューを設定することは可能です」
 インタビューができるのなら、この際どんな条件でも受け入れるべきだろう。私は二つ返事で了解した。
「では、後ほど場所と時間を連絡しますのでお待ちください」
 彼女が電話を切ろうとするので、慌てて私は言った。「カメラマンは連れていってかまいませんか。私一人では撮影できない」
「かまいません。でも、その人にも同じように身体検査を受けていただきます」
「分かりました」私は安堵の息を吐いた。
「もうよろしいですか」
「あと一つ聞きたいことがあります。どうして私の依頼を受けていただけたのですか。ほかにも依頼はたくさんあったと思いますが」
 数秒の間、沈黙が続いた。まるで機械が回答を探し出すためにデータベースを検索しているかのような間だった。「秘書の私ではお答えいたしかねます。上院議員にお会いになった時に、直接訊ねてください」
「分かりました。ありがとう」私は彼女に礼を言った。彼女が機械だろうと、何だろうと今は礼を言いたい気分だったのだ。
 電話が切れ、私は今の状況を冷静に考えようとした。なぜ、上院議員は私からのインタビューの依頼を受ける気になったのだろう。依頼が来た順番に処理していったはずはなかった。大統領選の最初の山場である予備選は正念場を迎えつつあった。当初、過激な言動で保守層の人気を集めたオニール議員だが、その人気は南部や中西部が中心で、お膝元のニューヨーク州やカリフォルニア州など都市部での評判は今一つとの声も出始めていた。本気で大統領職を目指すなら、そろそろこうした都市部の知識層や進歩派の市民にも食い込む算段をしなければならない時期だった。毛並みがよく、演説がうまいというだけでは、この国の大統領選というレースに出る条件を満たしているというのに過ぎなかった。
 三月上旬にはスーパーチューズデイと呼ばれる天王山がやってくる。多くの州は三月の第一火曜日に予備選を行うのだ。ここで勝ち抜かなければ、党の候補になることはできない。秘書が入力するスケジュール帳には選挙演説や対立候補とのテレビ討論の予定が分刻みで記されているはずで、一分一秒も惜しいはずだった。そんな大切な時期に、日本ではともかく、この国では名前すら知られていない雑誌のインタビューなど、受ける価値はまるでないことは分かり切っていた。わざわざ秘書が連絡をしてきて日程を調整するなど普通ならあり得ないことだ。
 では、いったいなぜ。なぜだ。
 王老人や梅鈴はオニール上院議員をひどく嫌っていた。単なる嫌悪感を越え、憎んでいるようにすら見えた。梅鈴はオニール議員が「ジョニーを利用して私服を肥やして裏切った」と言っていた。それは一体どういう意味なのだ。ジョニー・リーが行っていたビジネスの中身と、ライアン・オニールという男が上院議員になったことに、何か関連があるとでもいうのか。
 考えても分からないことばかりだった。
 テレビをつけると、CNNが映った。人気司会者ラリー・キングの昨夜のトーク番組から場面の一部が放映されていた。番組には予備選に合わせて共和党の候補者四人がゲストに招かれていた。現職副大統領の選出がほぼ確実と見られる民主党に比べて、共和党は候補者四人の間で混戦が繰り広げられていた。
 ラリー・キングはいつものように鋭い口調で候補者をやりこめていた。「マクミランさん、あなたの主張は非常にユニークだが、内政はともかく外交に関しては弱腰と取られかねませんな」
 下院の院内総務であるキンボール・マクミランは共和党の中では穏健派で、大統領候補の本命だった。現在の好調なアメリカ経済を維持するために、国内の景気に配慮する減税策を公約に打ち出していたが、外交政策は現段階では表明しておらず、外交下手とのイメージがつきまとっていた。
「ラリー、それは違う。私は国外問題に配慮しないとは言っていない。ただ、オニール議員のように国内情勢をおろそかにして、海外政策ばかり強めることは国益に反すると言っているだけだ。むしろオニール議員のような国防に今まで以上に注力していくことに懸念を感じている」
「オニールさん、マクミラン議員はこう言ってますが」ラリー・キングがライアン・オニール議員に矛先を向けた。
「ふむ」椅子に座って脚を組みながら二人のやり取りを聞いていたオニール議員は、口元に薄笑いを浮かべて身体を起こした。「確かにマクミラン議員のご意見はもっともですな。今の歴史的な高成長を維持して合衆国の繁栄を守っていくことは大統領になるべき者の責務と言える。そのことに異を唱えるつもりは私にはありません。しかし、マクミラン議員の言うように大幅な減税を行うことで、今以上の景気刺激策を採ることに対しては疑問を感じています。我が国が今すべきことは必要以上にふくれ上がった対外債務を減らすことと、国民の安全を守るための施策を強化していくことと私は信じています。国外からの脅威に対抗していくことが、皆さんのおっしゃるように国防重視の政策とは私には思えませんが、いかがですかな」
 オニール議員はマクミラン議員への反論という形で持論を語り、テレビカメラに向けて視聴者に語りかけていた。演技が入っているとしても堂々とした態度で、テレビ映りを考えながら、ゆっくりと大きな動作で自分をアピールした。ほかの議員と年齢的には変わらないようだったが、元軍人らしい精悍な若々しさを演出することに成功しているように見えた。
 なるほど、カリスマ性は十分に備えた政治家だった。テレビ映りがよく、主張も分かりやすい。口から出てくる言葉は甘美で、口当たりのよいカクテルのように、酔いに身を任せる誘惑に打ち勝つことは難しかった。しかし彼の主張には、どこかに違和感を覚える点があったことも事実だった。
 なぜだろう。何が気になるのだろうか。まるで、二日酔いになるのが間違いない質の低いアルコールが入ったグラスを目の前に、飲もうかどうしようか躊躇しているような気分だった。
 気が付くと、トーク番組の映像は既に終わっていて、テレビカメラは民主党の予備選の様子を映し出していた。本命のジェフリー・ゴードン副大統領の後を、ケンタッキー州のアラン・クック知事が追う展開で、現副大統領の優位は崩れそうになかった。
 予備選関連のニュースからウォール街の経済ニュースに移ったのを機に私はテレビのスイッチを切り、受話器を取り上げ、伏木のところに電話をかけた。
「やあ、草薙。どうした、早いじゃあないか」
「早いって? もう昼過ぎじゃないか」と、私は言った。
「そうじゃあないさ。今日もメシを食おうっていう誘いだろ」
 私は呆れた。「何言ってるんだ。頼みがあって電話をしたんだ」
「頼みってなんだ?」
「ニューヨーク・タイムズに誰か知り合いがいないか。ちょっと調べたいことがあるんだ」
 伏木はがっかりしたような声を出した。「なんだ、そんなことか。まあいないこともない。大した知り合いじゃあないが、記者会見とかでよく顔を合わせる記者ならいるぞ。どこかに名刺があるはずだ」
 ため込んだ名刺をひっくり返して探し出す音が電話の向こうで聞こえ、数分かけて見つけ出してくれた。
 名前と電話番号をメモに取っててから、私はもう一つの用事を口にした。「伏木の知り合いで、写真を撮影してくれるカメラマンを紹介してくれないか」
 しかし、こっちの方が難問だった。
 新日本新聞のニューヨーク支局には社員のカメラマンがいたが、勤務時間中はほかからの仕事は受けられなかった。アルバイトを頼むにしろ、いつでも撮影を依頼できるというわけにはいきそうもなかった。もう一人いた伏木の知り合いのフリーのカメラマンはたまたまバカンスでフロリダに出かけたばかりだった。
「それで、何を撮影するんだ」
「オニール議員のインタビューが取れそうなんだ」
「なんだってぇ」伏木が素っ頓狂な声をあげた。
「上院議員の秘書から電話があった。インタビューを受けてもいいそうだ」
「なんてこったぁ」ひどくがっかりしたような声だった。
「どうした、ずいぶん残念そうじゃないか」
「逆立ちの練習をしなくちゃならなくなった」
「何の話だ」私は訳が分からずに訊いた。
「覚えてないのか。奴さんのインタビューが取れたらタイムズスクエアまで逆立ちしてやるって言ったろ」
 そう言えば、前に食事をした時にそんな話をしていた。
「忘れてたよ」私はおかしくなって笑った。「カメラマンを紹介してくれたら、チャラにしてもいい」
 伏木は明るい声で「そうか、それならなんとかしてやろう」と言い、しばらくして「そう言えば、写真の勉強をしてるっていうのが一人いるぞ」と言った。
「腕は確かなのか」
「さあなあ。でも俺がほかに紹介できるのは彼女だけだ」
「彼女? 女性か?」
「ああ、そうだ。美人だぞ」
「伏木らしいな」
「今日の夕方、時間は空いてるか」
「ああ」
「じゃあ、七時に。詳しい話はその時だ」と、伏木は言った。
「分かった」と、私は言って、電話を切った。
 私は受話器を持ち替えると、伏木に教わったニューヨーク・タイムズの番号に電話をかけた。伏木と知り合いという記者はすぐに電話口に出た。
「どういう用事ですか」相手の記者は不審そうな声で訊いてきた。
 元々新聞記者という商売は疑り深い性格でないと務まらない。知り合いの日本人の伝手で電話がかかってきたというのだから、ネタの売り込みか、あるいはコンドミニアムのセールスとでも思っていたとしても不思議は無かった。
 私は丁重に名乗り、ジョニー・リーというカメラマンのことで知りたいことがあるということを説明した。
「いつからいつまでニューヨーク・タイムズに在職して、どのような仕事をしていたのかが知りたいんです」私は言った。
 相手の記者はジョニー・リーという名前も、中国人のカメラマンについても知らなかった。ニューヨーク・タイムズくらい大きな新聞社になれば、一生仕事を一緒にしないカメラマンと記者がいても少しもおかしくはなかった。彼は人事部門の担当者の電話番号を読み上げ、そちらに問い合わせた方が早いと言って電話を切った。
 私は今度は人事部のキャシーという女性に電話をかけた。彼女もすぐに電話を取り、私の用向きを聞いていたが、やがて「そういうことは教えられないことになっているのよ」と、申し訳なさそうに言った。
 確かに個人に関する情報を、誰だか分からない日本人が勝手に教えてもらえるとは思っていなかった。私は、ジョニーが既に死亡していること、その記事はニューヨーク・タイムズにも掲載されていること、私がジョニーの友人であること、を五回ずつ繰り返して説明し、「あなたには決して迷惑はかけない、キャシー、お願いだ」という台詞を七回繰り返した。
 彼女は三回までは「それは規則で教えられない」と応えていたが、やがて根負けして、取りあえず人事データベースを調べてあげると言った。
 キーボードをカタカタと叩きながら、「ジョニー・リーという名前ではうちの会社の社員名簿には載っていないわよ」と、キャシーは怪訝そうな声で言った。
 私は中国語の本名で登録してあるのかも知れないと思い、李祥榮という名前のスペルを三度教えたが、三度調べてもらっても彼の名前は見当たらなかった。
「退職した社員の名前は出ていないんじゃあないか」
 ジョニーの名前が見つからないことに、キャシーは興味をそそられたようだった。「そんなはずはないわ。三年前に辞めた人事部長の名前も、四年前に自殺した記者の名前も載ってるわ。そのジョニーって人はうちで働いてたんでしょ。どの部門にいたか分かる?」
 私は彼がどの部署で働いていたかは知らなかった。サラエボで初めて会った時も名刺の交換などはしなかったのだ。
「分からないが、写真部だと思う。カメラマンとして働いていた」
「うちの社員で、その時期サラエボに出張で行っていたカメラマンは一人もいないわよ」と、キャシーは言った。
「そんなはずはないよ。彼はニューヨーク・タイムズの仕事でサラエボに来ていると言っていた」私は食い下がった。
 何かがおかしい。私はそんな疑念を覚え始めていた。
「もしかしてうちと契約を結んで写真を撮っていたんじゃない?」新しい事実を発見したかのようにキャシーは嬉しそうに言った。
「どういうこと?」
「うちには社員のカメラマンもいるけれど、それだけじゃあ足りないの。時々うちの新聞用に写真を撮影している契約カメラマンが何人もいるのよ。身分はフリーランスだけれど、ニューヨーク・タイムズのために仕事をしているって言うと思うわ」
「なるほど」私は頷いた。
 確かにジョニーはニューヨーク・タイムズで働いているとは言ったが、社員かどうかまでは私は知らなかった。
「ちょっと待ってね。保険関係の書類があるなら、人事データベースには何か情報があるとは思うわ」
 しばらくの間、キーボードをカシャカシャ叩く音だけが電話口から聞こえて来て、やがて「ビンゴ」と叫んだ。
「あったわよ。九二年の十月から九四年の三月まで、彼のための保険契約が結ばれているわ。でも、九四年三月には契約が更新されずに解約されている。ここまでしか分からないわね」
 彼がサラエボにいたのは九四年の一月から二月にかけてだった。負傷して働けなくなり、カメラマンとしての契約を解除しているなら辻褄は合う。
「彼がどんな仕事をしていたか分かるかな」
「うーん、このデータベースからだと難しいなあ」
 キャシーは考え込んだ。「そうだ、契約カメラマンなら写真を買い取っているはずだから、経理部の支払い帳簿を見れば、どんな写真を撮影しているかは分かるはずよ」
「お願いできるかな」私は無理を承知で彼女に頼んだ。
 普通のアメリカ人なら、こんな時「私には関係ない」と言って断られるのが普通だった。しかし、幸い彼女は違った。
「いいわよ。ちょっと待ってね。でも経理データベースだから、閲覧できるかどうか・・・」
 再びカシャカシャとキーを叩く音が聞こえ、「畜生」とか「糞」などという四文字言葉を盛んに呟きながら、彼女は情報の井戸の中を掘り起こしてくれた。
「ふう」やがて小さく息をつき、彼女が言った。「出たわ。ちょっと手間がかかっちゃった。あたしのIDだとセキュリティに引っかかってブロックされちゃうから、経理のミシェルのIDを使ったわ。彼女のパスワードを見つけるのに手間取っちゃった」
 どういう手を使ったかは分からなかったが、あまり良くない手段で情報を見つけてくれたということだけは理解ができた。
 キャシーがキーボードでカシャカシャと入力する音が聞こえ、「これを見ると、九四年の二月と三月にクロアチアの写真を買い取っているわね」と言った。
 それは彼が撮影したサラエボの写真のはずだった。
「それと九三年の十二月から年明けの一月にかけては、ブリュッセルで撮影した写真代と経費が計上されてるわね」
「ブリュッセル?」
「ええ、そう。ヨーロッパよ。知らない? ベルギーの首都」
「なぜ、ブリュッセルなんかに・・・」
「ええと。撮影しているのはNATOの評議会とインタビュー写真が何枚か、みたいね。経費としてはホテル・バンドームの宿泊代が三日分と、グランブロスの代金。これはレストランの費用かしら」
「NATO?」
「そう。北大西洋条約機構。知らない? ヨーロッパ共同体が作った軍隊よ」
 彼女の説明は新聞社の人間にしては恐ろしく不正確だったが、この際どうでもよかった。彼女は政治記者ではないのだ。
 ジョニーはサラエボが初めての海外だと言っていた。だが、サラエボに行く直前までブリュッセルにいた。なぜ、そのことを話さなかったのだろうか。決まっている。知られたくなかったからだ。
 ほかにも、彼女はジョニーと共に仕事をしていたというアメリカ人の契約カメラマンの名前と連絡先も教えてくれた。ジョニーはカメラマンとして彼のオフィスに所属していたようだった。
「データベースにはこれ以上の情報は無いわ。そのボブ・ローガンていうカメラマンに聞いてみると、何か分かるかも知れないわよ」と、彼女は言った。
 私は彼女に何度も礼を言った。「ありがとう。本当に助かった。いつかお礼できないか」
「喜んで。今度スシをご馳走してくれる?」電話口で彼女は笑った。目の前で花が開いたような明るい声だった。「あたし、日本の料理が大好きなの。テンプラにスシにシャブシャブが大好き」
 私はニューヨークで一番の寿司屋に必ず連れていくと言い、彼女の直通の電話番号を教わり、私のアパートの番号を教え、もう一度礼を言って電話を切った。
 一度も会ったことのない有能なキャシーのおかげで、私はジョニー・リーについて情報を得ることができた。彼女なら、ケビン・ミトニックも真っ青な優秀なハッカーになれるかも知れなかった。その前に会社を首にならなければの話だが。
 それよりも私はひどく混乱していた。ジョニーについていくつかの情報を得たが、情報を得る前よりも、ますます混乱していた。何も知らなかった時よりも始末に負えなかった。

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■最後のさよなら■ 第16回

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<15>


 夢の中で私は、沈んでいくタイタニック号から厳寒の大西洋に投げ出され、息も絶え絶えに海面を漂っていた。ちょっと待ってくれ、もう少しでニューヨークに到着するのに。どうやら私は日本語でそう口走ったようだった。
 もう一度、頭から冷水を浴びせられて、私は正気に返った。
 目を微かに開くと、薄暗い灯りの中でいくつものアジア系の顔が無表情に上の方から私のことを見下ろしていた。一人の男がバケツのようなものを放り投げ、ガランガランとブリキの音が辺りに鳴り響いた。
 身体を起こそうとすると、両手両足を紐で縛られて自由を奪われていることに気が付いた。頭がズキズキとうずいていたが、コブが出来たかどうかは確認できなかった。
 やがて、暗い中で視点が合い始め、彼らの顔をなんとか見分けることができた。梅鈴と黄賢、見たことの無い男たちが三人。いずれも荒くれ男と呼ぶのがふさわしそうな男たちで、一人はすっかり毛髪を剃り落としたスキンヘッドの中国系、もう一人は対照的にボウボウの顎髭をたくわえた中国系の男で、もう一人は海賊の船長がしているような黒い眼帯をかけた無精髭の白人だった。ついでにカギ手と髑髏マークの海賊旗があれば、海賊の一味といった雰囲気だった。私は彼らの取り合わせに吹き出しそうになっていた。きっと私はネバーランドにでも流されてきてしまったのだ。どうやら私は頭がおかしくなりかけていたに違いない。
「何がおかしいんだ」黄賢が英語でしゃべり、私の腹を蹴り上げた。
「お止めなさい」梅鈴が英語で制止した。
「好奇心旺盛の記者さんだこと。困ったものね」呆れたような表情で、梅鈴が言った。
「お褒めに預かり光栄だ」
「でも、その好奇心のせいで命を落としたり、癒すことのできない深い傷を負う人もたくさんいるわ」
「あなたの元の夫のように・・・」
 最後まで私は皮肉を続けることができなかった。黄賢が再びブーツの爪先で私の腹を蹴り上げたのだ。
「停止」鋭い叱咤の声を梅鈴が発した。
 黄賢が中国語で何事かを弁解し、梅鈴が厳しい調子の中国語で応じた。
「おいおい、話をするなら英語にしてもらえねぇか。中国語は勘弁してくれって言ったはずだ」眼帯をした海賊船長が二人に向かって言った。
「あなたは黙っていて」
「おいおい、こちとらだって危ねぇ橋を渡ってるんだ。お互い秘密はなしにしようぜ」
「分かったわ。黄賢と彼をどうすればいいかを話し合っていたのよ」
「マダム。だから、彼をここで始末してしまえばいいって言っているんです」黄賢が訴えるような表情で言った。
「おお、それがいい。だが、そいつは俺の見てねぇところでやってくれよ。殺しは御免だぜ。密入国だって相当にやべぇヤマなんだからよぉ。そうでなくてもリトルイタリーからは今度のヤマで睨まれてるんだ」
「黙っていて。全くおしゃべりな人ね。この人は英語は分かるのよ」
 私は彼らの会話をよそに、首を曲げて辺りを観察した。どうやらここは先ほど梅鈴と黄賢が入っていった倉庫の中のようだった。裸電球が一つ上からぶら下がっているほかは照明は何も無かった。こんな廃墟に電気が来ていることは驚きだった。
 倉庫の奥の方には、様々な年齢層の男女の集団がかたまって震えていた。それこそ子供から年寄りまでいて、いずれもアジア系の顔立ちで、服装はボロボロ、今のニューヨークの気候にはあまりに薄着すぎる格好だった。ボロ切れのような布に包まれていた赤ん坊がむずかり始め、母親らしき女性が泣き声をあげさせないようにあやし始めた。
 どうやら彼らは密国してきた中国人の集団らしかった。アメリカは歴史上まれに見る好景気を謳歌していて、仕事を求めて移民を希望する外国人は後を絶たなかった。この国は元々、ヨーロッパから移民で成り立っているにもかかわらず、今となっては移民の流入を厳しく制限していたのだ。とはいえ人並み以上の収入があれば、公式ルートを使って時間をかけるか、あるいは手っ取り早く裏から手を回せばグリーンカードと呼ばれる居住許可証を手に入れることは比較的簡単なことだ。この国に税金を落とし、仕事をもたらしてくれる人間は優遇する甲斐のある者たちなのだ。政府が頭を悩ましているのは、肉体労働しかできず、英語すら話せないような貧しい移民希望者だった。そうでなくても、既にビザが切れたのに居残っている不法滞在者や密入国してきた不法移民はごまんといるのだ。メキシコや南米からやってきて不法に滞在しているスペイン系住人だけでも数百万人に上る。いくらアメリカの国土が広いからといって人口十億人を軽く超える中国からの移民を自由に認めていたら、あっという間にアメリカは中国人だらけになってしまうだろう。
「ぼくはガラガラ蛇の巣に足を突っ込んだみたいだな」私は梅鈴に向かって言った。
「だから言ったでしょ。余計なことに頭を突っ込まないようにって」梅鈴は腰に手を当ててふうっと息を吐いた。
 梅鈴たちは、通常のルートでは移民として到底受け入れられないような農民や低所得の労働者を裏のルートで導き入れる蛇頭と呼ばれる密入国集団だった。
「君たちはスネークヘッドだね」
「頭だろうと尻尾だろうと関係ないわ。それに私たちは三合会ではないわ」
 三合会というのは中華系マフィアのことだ。密入国を生業にしていれば、マフィアと変わりはないではないか。
 私は不法移民の集団に向かって顎をしゃくった。「彼らはどこから来たんだ。中国大陸の福建省辺りからか」
 梅鈴は彼らの方を向いて頷いた。「そうよ、太平洋を渡ってきたの。途中で何人もの人たちが亡くなったそうよ」
「マダム・・・」
 黄賢が止めようとするのを遮り、梅鈴が口を開いた。「それに香港から来た人もいるわ。中国に返還された後も香港から移民を希望する者はたくさんいるの。カナダだったら親類がいれば簡単に移民が認められる。でも、縁者も知り合いすらいない彼らに移民が認められる可能性はほとんど無いの」
「グリーンカードは抽選で当たるって聞いたがね」
「そんなの百万年待っていても手に入らないわ」
「それで君たちの出番というわけだな」
「おいおい、ちょっと待てよ。いいのかい。こいつにそんなに話しちまって」海賊船長が慌てて、梅鈴と私の会話の間に入ってきた。
「大丈夫よ、この人は。間違っても移民帰化局に駆け込んだりはしないわ」
「どうだかねぇ」海賊船長は無精髭に手をやった。
 彼と梅鈴、黄賢の脇に立っている二人はどうやら英語は話せないようだった。私たちの英語の会話が理解できないようで、時折、黄賢に通訳をしてもらっていた。
「そうやって、君たちは荒稼ぎしているわけだな。彼らからいくら搾り取ったんだ」
「大したこたぁねぇさ。こいつは人助けなんだよ。だがなあ、こちとらだって、危ねぇ橋を渡ってるんだ。ボランティアじゃあやってられねぇ。必要経費にちょっくら利益を上乗せしたって神様は文句も言わねぇだろうさ」海賊船長がニヤニヤしながら言った。
「ビジネスが聞いて呆れるね」私はなるべく皮肉たっぷりに聞こえるように言った。
 スキンヘッドと顎髭の中国人が梅鈴に激しい口調の中国語で何かを訴えていた。私のことを睨み付けており、早く始末しろとでも言っているようだった。
 梅鈴が首を何度も振って二人を説得し、黄賢が時折激した様子で会話に加わった。
 スキンヘッドの男がおもむろにジャンパーのポケットから拳銃を取り出して私に向けた。私は目を閉じ、身体を丸めて銃の衝撃を和らげようと無駄な抵抗をした。
「停止」遠くの方から、鋭い叱咤の声が上がった。
 身体に弾丸の痛みも感じず、銃声も聞こえず、私は恐る恐る目を開いた。不法移民の集団の方から、一人の老人が杖を突きながらゆっくりとこちらに向かって歩いてきた。
「わしらがやっているのは人殺しではない。お前たちはそんなことも分からんのか」老人は暗がりの中を足下を確かめるように杖に支えられてゆっくりと歩きながら、よく通る声で諭すように言った。
「王老、可是」スキンヘッドの男が拳銃を握ったまま、顔を強張らせて反論する。
「愚人」
 老人は男に近づくと、どこにそんな力が残っているのかと思えるほど素早く杖を振り上げて激しく男の肩を打った。男の手から拳銃が落ち、苦痛に顔を歪めながら肩を押さえて膝まづいた。
 老人は私がジョニー・リーの葬儀の際に会った王老人だった。ひどく厳しい表情をしており、私に鋭く一瞥をくれた。「君子危険的不挨近、あなたにはそう言ったはずだ」
「ぼくは君子じゃあない。それに危険かどうかなんて、ここに来るまで分からなかった」
 王老人は私が言ったことをまるで聞いていないかのように、黄賢の方を向いた。「黄賢、この日本人の縄を解いてやりなさい」
 黄賢は驚いたような表情を浮かべ、王老人に反論しようとしたが、口をパカッと開けたきり何も言えず、渋々命令に従って、私の後ろに回ってナイフか何かを取り出して、腕と足を縛っていた縄を切った。
「爺爺(おじいさま)」梅鈴が王老人に駆け寄り、身体を支えた。
 私は麻縄がこすれて擦りむいた手首をさすりながら立ち上がり、王老人に向かって頭を下げた。「謝謝、おかげで鉛の弾を打ち込まれずにすみました」
「日本の方よ、あなたは小李、いや祥榮の朋友。わしらは礼節と信義を重んずる民。今回のことは見逃しましょう。しかし、いつも助けられるとは思われなさるな」
「老大、あなたたちが同胞を香港や大陸からアメリカに連れて来たいという気持ちは分かる。でも、密入国は立派な犯罪だ。それに彼らは移民帰化局から永遠に隠れ続けて、死ぬまで奴隷のように安い賃金でこき使われるんだ。アメリカには公式には奴隷制度は無い。でも、奴隷のような生活は作り出しているのは、彼らみたいに密入国してくる不法移民なんじゃあないですか」
 梅鈴に支えられながら、王老人は悲しそうに首を振った。「日本の方よ、豊かな国から来たあなたには分かるまい。本当の奴隷のような生活がどのようなものかなど。彼らの多くは福建省から来た農民じゃ。共産党や全人代がいかに中国を豊かにしようと話し合っても、本当に豊かになれるのは党幹部のほんの一握りだけ。救われん農民は何億といる。わしらが合衆国を美国と呼ぶように、彼らには美しい国のように見えたとしても詮無いこと」
「爺爺、もう十分です。この人には理解はできないわ」梅鈴が私を睨み付けながら言った。
 その時、途中から話の輪から外れていた眼帯の海賊船長が、倉庫の外から駆け込んできて慌てた口調で叫んだ。「やべぇぜ、沿岸警備隊だ。どっかからネタが漏れたのかも知れねぇ。俺ぁ、引き上げるぜ。船を押さえられちまったらお終ぇだ」
 そう言うが早いか、倉庫から再び飛び出して消えてしまった。
 倉庫の外からサーチライトの光線が入り口を舐めるように照らし、やがてはるか遠くからスピーカーを通して割れた声が風に乗って聞こえてきた。どうやら埠頭の近くまで来ているようだった。
 梅鈴と黄賢、スキンヘッドと髭だらけの男は明らかに動揺した様子で、王老人の指示を仰ぐように、老人を見つめた。
 王老人は何事も無いようにじっと目をつぶり、枯れ枝のような身体を杖に与けた。
「爺爺・・」
「老大!」
 離れたところにいた密入国者の集団も何が起きているのか気が付き始め、ざわざわと騒ぎ始めた。
 王老人はやがてかっと目を見開くと、強い意志を宿した瞳で辺りを見渡した。「潮時じゃな」
 老人がそう言うと、スキンヘッドと髭の男はぱっと倉庫の奥に駆け込んでいき、暗闇の奥からやがて壊れたような車のエンジン音が聞こえてきた。
 しばらくすると、ところどころ穴が開いたボロボロの幌をかけたトラックがやってきて、不法移民の集団の前で停まり、運転席から顔を出したスキンヘッドの男が彼らに早く荷台に乗り込むように促した。
「さあ、私たちも行きましょう」梅鈴が王老人を促した。
 黄賢が私を一度睨み付けてから、二人を守るように倉庫から連れ出していった。数十人の男女を乗せた古いトラックが黒い煙を残して走り出し、倉庫から出ていった。
 私は突然、誰からも相手にされなくなってしまった。暗い倉庫から一人出ていくと、ハドソン川の方でサーチライトがあちこちを照らすのが見え、マンハッタンの方角からやってきたヘリコプターが川沿いを捜索しているのが見て取れた。
 彼らの逃げ足の速さはオリンピック記録並みで、私がレンタカーのフォード車に戻った時には、影も形も見えなくなっていた。
 私はフォードに乗り込もうとして、右前の車輪からシューという音がしていることに気が付いた。タイヤから空気が漏れていた。ご丁寧にナイフで穴を開け、後を追いかけられないようにしたのだ。
 私はため息をついて、自動車修理サービスのトリプルAを呼ぼうと考え、携帯電話を持っていないことに思い至った。アメリカでは街中で公衆電話を見つけることが驚くほど困難だ。理由は簡単だ。人気の無いところに公衆電話を設置しておくと、翌日には壊されて小銭がすっかり盗まれてしまうからだった。住宅街でもないこんなところに公衆電話があるとはとても思えなかった。
 私はもう一度大きなため息をついて、沿岸警備隊だかニュージャージーの警察だかが捜索に来てくれないか待つことにしたが、三十分近く経ってもこちら側に近づいてくる気配は無かった。彼らは用事の無い時には大挙してやってくるのに、必要な時には尻尾すら見せない。
 仕方なく私はトランクを開けて、スペアタイヤと工具を取り出し、車内灯を頼りにタイヤの交換を始めた。もちろん、そんなことがうまくいくはずもなかった。真っ暗な中でレンチを使うのは思った以上に困難で、指先が凍えて感覚が消えていった。
 結局のところ、彼らの目論みは達成されたのだ。日が昇るまでの数時間、私は冷え切った車内で凍えながら、この国の仕組みが肝心なところで役に立たない不便さを呪い、温かいコーヒーをポットに詰めて持ってこなかった自分の愚かしさを呪った。要するに何でも良かったのだ、呪うものがありさえすれば。


to be continued.

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矢作 俊彦
マイク・ハマーへ伝言
矢作 俊彦
あ・じゃ・ぱん

■最後のさよなら■ 第15回

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<14>



 その日のマンハッタンは鈍色の雲にすっぽりと覆われ、朝方には粉雪が舞う寒さだった。二月も下旬に入っていたが、ニューヨークは寒気団に覆われ、冷凍庫に投げ込まれたマグロのように凍り付いていた。
 私は地下鉄に乗って、チャイナタウンに向かった。街のあちこちには中国の旧正月である春節の赤や金色の提灯や漢字の書かれたモールの飾りが外されずに残ったままになっていた。通りを一本隔てた向こう側のリトルイタリーは先日事件があったせいか何人も警官が出ていて、物々しい雰囲気だったが、チャイナタウン側はいつもとまるで変わらない様子で、多くの中国人が日常の買い物に市場に繰り出していた。

(c) FreeFoto.com
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 私は記憶を掘り起こしながら、メインストリートから細い路地に抜けて九龍飯店を見つけ出した。
 昼食前の店のドアには「準備中」と書かれた看板が提げられていた。ドアを引いて、まだ暗い店の中に入ると、ドアベルがチリンチリンと可愛らしい音を奏でた。
「まだランチタイムじゃあないよ」
 襟が高いマオカラーの青い服を着た店員が奥から出てきた。
 まだ二十代の若い男で、髪を短めに刈り上げていた。私の姿を見て中国語で何か話しかけてきたが、何を言っているのか分からず私は首を振った。
「店の主人に会いたい。女性のはずなんだが」私は英語で言った。
 男は明らかに警戒したような表情で身構えた。「何の用だ。警察か」
「そんな大層なものじゃあない。ジョニー・リーの友人だ。この店の主人が彼と親しいと聞いたんだ」
 ジョニーの名前を出せばすぐに話が通じると思ったが、ますます警戒をするような表情で男は言った。「そこで待っていろ。奥様に今聞いてくる。そこから動くんじゃあないぞ」
 男が店の奥に入っていくのを見てから、私は円卓の下に収められた椅子を引き出して腰を下ろした。
 店は少々古くなりかけていたが、チャイナタウンのほかの中華料理店が赤や金の塗装をふんだんに使って独特の派手な色調で飾り立てているのと比べると、木目をそのまま生かした落ち着いた色合いでまとめられていた。壁には天に昇っていく龍を描いた壁紙が貼られ、色褪せた水墨画の色紙が飾られていた。
「あなたなの、祥榮のお友達の方って」
 気が付くと、テーブルの向かい側の椅子に女性が座っていた。
 長い黒髪を後ろで束ね、黒いシルク生地に青い花をあしらったチャイナドレスを着た美しい女性だった。若そうに見えたが、憂いを含んだ表情には人生に疲れたような翳りが見られ、私と変わらないくらいの年齢のようにも思えた。
「ケイスケ・クサナギといいます。ジョニーとはサラエボ以来の友人でした」
 彼女の表情が険しくなった。「あなただったのね。祥榮からあなたのことは聞かされたわ」
「良い噂だったらいいんですが」
「どうかしらね」
 彼女の表情を見ていて、私はどこかで彼女に会ったことがあるような気がしてきた。「どこかでお会いしたことがありませんか」
「女性には誰にでもそうやって言ってるでしょ」彼女はニコリともせずに言った。
「ジョニーと結婚していたそうですね」
「そんなことを話しに来たの?」
「そうじゃありません。少し教えてもらいたいことがあった」
「祥榮のこと? もう彼と私は何の関係もないのよ」
「ずいぶん冷たいんですね。彼とは結婚していた仲だったんでしょ」
「あなたに答えることではないわ。彼はもう死んでしまったわ」
 どうにも取り付く島もなかった。
「彼は事故で死んだんじゃない。爆弾で噴き飛ばされたんです。ぼくはなぜ彼が殺されたのかを知りたいと思っている」
「あなたが関わるべきことではないわ。なぜあなたが彼のことを詮索するの」
「ぼくはジョニーの友達だ。友達が殺された理由を知りたいと思うのは不自然ですか」
「あなた、日本人ね。祥榮があなたと友達になりたがった理由が分かる気がするわ」
「どういう意味ですか」
「あの人はいつだって、この街から出ていきたかったのよ。いつか成功してやる、それがあの人の口癖だったわ」
 きっと百歳まで生きてピュリッツァー賞を取るんだよ、サラエボでジョニー・リーはそう言っていた。その夢はかなわなかったが、ビジネスの世界では成功した。そして、こんなに美しく聡明な女性を妻にした。いったい何が不満だったのだろうか。
 私はようやく彼女がジョニー・リーの葬儀に出席していた女性の一人であることに気が付いた。王老人が歩くのを助けていた女性だ。
「彼と関係ないと言うなら、なぜ彼の葬儀に出席していたんですか?」私は聞いた。
「それは・・・」彼女は口ごもった。
「だいたい、まだあなたの名前を聞いていなかった。何とお呼びすればよいですか」
「マダム・ウォンだ」
 声の方向に目をやると、先ほど私が来たことを告げに奥に入っていった若い男が店の奥の方から現れて、私を睨んでいた。
「王(ウォン)よ。王梅鈴(ウォン・メイリン)」彼女は言った。
「メイリンでいいかな、それともマダム・ウォン?」私は男の方を見ながら言った。
「どちらでもかまわないわ。あなたはそれで祥榮の何が知りたいの?」
「彼のビジネスの相手。彼はどんなビジネスをしていたんですか」
「そんなことも知らなかったの?」驚いたような表情で梅鈴が言った。「あなたは祥榮と一緒に仕事をしていたのかと思った」
「いいえ。ただの友達です。サラエボで一緒だったと言ったはずだ」
「仕事仲間なのかと思った」
「カメラマンということですか? いいえ、ぼくは写真を撮るのは得意じゃあない。ただのルポライターだ」
「そういうことじゃあないわ。ブリュッセルには行かなかったの?」
「どういうことですか」
 いったいジョニーは何の仕事をしていたのだ。
「知らないならいいわ。もうあの人はいなくなってしまったんだし」
「教えてください」
「ろくでなしのオニール議員に聞いてみるといいわ。あの男は祥榮を利用して私服を肥やして政治家に成り上がって、彼を裏切ったのよ。あのろくでなしのせいで彼は死んだんだわ」
「オニール? オニール上院議員のことですか? いったい、彼とどんな関係が・・・。あの時の葬式にも顔を出していましたね」
 私は身を乗り出した。
「しつこいぞ」
 私を睨んでいた若い男が近寄ってきて、つかみかかろうとした。
「お止めなさい、黄賢(ファン・ヒョン)」鋭い叱咤だった。
 命令することに慣れた者にしか身に付かない威厳を備えていた。貢賢と呼ばれた男はビクッと身体を震わせ、凍り付いた。
「もういいでしょう。お帰りなさい。私から教えて差し上げられることはもうないわ。この店にはもう来ないで。その方があなたのためよ」
「マダム・・・メイリン・・・」
「マダム・ウォンよ。たいていの人はそう呼ぶわ」梅鈴は寂しそうな表情を浮かべた。
「マダム・・・そろそろ出かける時間です」黄賢が英語でそう言い、彼女の耳許で中国語で何かを囁いた。
 梅鈴も何事かを中国語で返した。
 黄賢はその返答に不服そうに見えた。
「疲れたわ。出かけるのは夜にします。今日はその方がいいでしょう。さあ、ミスター・クサナギ、もうお引き取りください」
 私は椅子から立ち上がった。
 梅鈴も椅子から立ち上がった。背が高くすらっとした肢体に飾り気の無い黒いチャイナドレスをまとった姿はひどく艶やかに見えた。しかし、美しい顔立ちには笑顔は無く、表情はひどく悲しげではかなく見えた。さっきは私よりはるかに若いように思えたが、今はすっかり老婆のように年老いて疲れて見えた。
「あの人のことを探るのは止めてちょうだい」梅鈴がポツリとそう言った。
 黄賢が睨み付けているのを痛いほど感じながら、私は彼女を残して店を出た。


 私は一度アパートに戻って、黒のジーンズと色の暗いジャケットに着替えてからレンタカーを借り出し、日が暮れるのを待った。軽く食事を済ませて緑のフォード車で再びチャイナタウンに戻った時には気温はかなり下がっていた。
 チャイナタウンの狭い道と、車道の真ん中を堂々と歩いている人並みに辟易しながら、九龍飯店の裏口を確認できる場所に駐車した。
 私はいったいここで何をしているのだろうか。梅鈴のことを調べても、おそらく何か意味あるものは見つけ出せないだろう。しかし、私は彼女の態度や振る舞いがなぜか気になっていた。
 夜十時を過ぎ、チャイナタウンの店がそろそろ店を閉め始めていた。ヘッドライトを消し、ストールしないようにエンジンを切ったままにしておいたため車内はかなり冷え込んだ。私は近くの料理店で夜食を買い込み、脂ぎった中華風スナックを中国茶で胃の中に流し込んだ。胸焼けしそうになってリトルイタリーのコーヒーショップに暖かい飲み物でも買いに出かけようかと思っていた矢先に九龍飯店の裏口がギギッと音を立てて開き、さっきのチャイナドレスとは打って変わって黒いジーンズに革ジャンパーというラフな格好の梅鈴と作業着姿の黄賢が現れ、裏口を閉めるのが見えた。
 私は二人に見つからないようにフォードの中で身体を運転席の下に沈み落とした。
 二人は何事かを話しながら、店の近くの駐車場に向かっていった。私はエンジンをかけ、スモールライトを付けてフォードを少し動かして二人の様子を見守った。
 二人は駐車場の奥に停めてあった白くて大きなメルセデス・ベンツに乗り込んだ。数倍は馬力があるあの車にスピードを上げられたら、この非力なフォード車では追いつけないだろう。しかし、あまりスピードが出せないマンハッタン近郊ならなんとか尾いていける可能性はあった。
 駐車場からベンツが出てきて、何台か車をやり過ごして少し間を空けてから私はフォードを動かし、二人を見逃さないように後を追った。向こうは黄賢が運転しているようだった。白のベンツはチャイナタウンを出ると、マリリン・モンローと結婚していたヤンキースの名センターの名前がついたハイウエイを北に上がり、リンカーン・トンネルを抜けてニュージャージー側に渡った。
 梅鈴を乗せているためか、黄賢は前の車を追い抜くこともなく危なげのない走りをしていて、後を尾けるのはたやすかったが、深夜に近い時間帯で交通量が少なく、前を行くベンツに気取られないようにするのは、なかなか大変なことだった。
 ベンツはしばらくニュージャージーの住宅街を北上していき、やがて街並みが寂れてきたところで右に折れてハドソン川沿いの波止場に入っていった。そこには今はまるで使われていないと思える古めかしい煉瓦造りの倉庫がいくつか立ち並んでいて、倉庫の奥の方では七十年代頃の大型車が何百台も鉄屑の山を作っていた。車道に一本立っている電灯の灯りを頼りに観察すると、倉庫の一部が焼け焦げて煤だらけになっていた。どうやら以前はスクラップになった自動車からクズ鉄を拾い出して南米などに輸出するために使われていたが、火事か何かの原因で放棄されたままになってしまった波止場らしかった。
 私は前のベンツが倉庫の影に入るのを待ってから、ヘッドライトを消して彼らの死角になる場所にフォードを停めて車から降りた。
 中華料理店の女主人が深夜にやって来るにはあまり似つかわしくない場所だった。いくらウォーターフロントのレストランが流行りだからといって、こんなに寂れた場所に中華レストランを開くはずもなかろうし、まさか料理に使うための青梗菜や香菜を栽培しているわけでもなかろう。こんなところで栽培するのにふさわしいのは大麻草のような代物くらいだ。
 二人はベンツから降りると、軍用懐中電灯の灯りを点け、波止場の奥にある古びた倉庫の一つの南京錠を外すと、大きな鉄の引き戸を開いて中に入っていった。二人の後を追っていった私は危うく彼らと鉢合わせするところだった。倉庫の中を覗こうとした時、彼らがこちらに戻ってくる足音が聞こえ、慌てて建物の影に隠れた。
 二人は倉庫から出ると今度は波止場の先にある桟橋の方に歩いていった。私は転んだり砂利で音を立てないように足下に注意をしながら、二人の百メートルほど後ろを建物にへばりつくような格好で追った。後ろから私が尾けていることなど、全く気が付いていないようだった。もちろん、そうでなくてはこちらが困っているところだったが。
 ハドソン川に突き出したコンクリート製の桟橋は潮で腐食し、中の鉄杭の一部が顔を覗かせていて赤茶けた錆が浮き出ていた。河口から吹き上がる海風が氷のナイフのように顔や手に突き刺さった。川の向こうにはマンハッタン島の灯りが電飾のように瞬いていた。
 二人は桟橋の先で何かを待っているかのように、じっと立ちつくしていた。私は寒さのせいで歯がカチカチ鳴るのをなんとか抑えながら、両手をこすり合わせて、手袋をアパートに忘れてきたことを心の底から後悔した。
 震えが止まらずに、さすがにそろそろ車に戻ろうかと考え始めた頃だった。時間は深夜零時を大きく回っていた。河口の方から釣り船のような中型の船が船首をこちらに向けて進んでくるのがマンハッタンの灯りに映し出された。重油を燃やすボッボッという音と黒い煙が風に乗って私のところからでも微かに判別できた。
 黄賢と思われる黒いシルエットが桟橋の先で懐中電灯を何度か船に向けて振った。船はゆっくりとした速度で桟橋に向かってきた。その船を遠目に見て、何か奇妙に感じたが、それが何なのか、咄嗟には思い至らなかった。
 背後にザッという何かが石を踏む音を聞いた時には手遅れだった。ゴツンと私の後頭部が音を立てた。目の前に日本の漫画のような火花が飛び散った瞬間、私の頭脳は百分の数秒ほど急に冴え渡り、違和感を感じたのはその船の喫水線があまりにも低かったことであることに気が付いた。船は今にも沈みそうなくらい荷物を満載していたのだった。
 しかし、それに気が付いたからといって、何かの役に立ったわけではなかった。私の意識はそんなものは何の用も成さない遠い闇の世界に旅立っていってしまったのだから。


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矢作 俊彦
リンゴォ・キッドの休日
矢作 俊彦, 安珠
ライオンを夢見る

■最後のさよなら■ 第14回

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<13>



 アパートに戻ってシャワーを浴びようとしたところで、電話が鳴った。居留守を決め込もうかと思ったが、何となく取った方がよいような気がした。
 受話器を取って名乗ろうとする前に、煙草で喉がイカれたようなしわがれた怒鳴り声が聞こえてきた。私の勘はだいたい当たらない。取らない方がよい電話だった。
「ミスター・クサナギか? 俺だ、市警のダニーだ」第六分署のダニエル・ルイス警部だった。
「そんなに大声を出さなくてもよく聞こえてます」
「声が大きいのは生まれつきだ。それよりさっきの話だが、うちのグレッグから聞いたぞ。日本人がなんで、そんなに夜中にハーレムにいたんだ」
 その言い方に私は苦笑した。「そいつは差別発言だ。ぼくだってR&Bも聴けば、ジャズも聴く。たまにはクラシックだって聴かないことはない」
「いや、そのお、そうじゃあない。なんだって、あの黒人と一緒にいたのかって訊いているんだ」
「たまたま彼に会って誘われたんです」
「奴さんとは今日初めて会ったのか」
「違います。ニューヨークに着いた時JFKから乗せてもらいました。彼はリモの運転手ですからね」
「それだけの付き合いかね」
「そうです」
「ふむう」
「彼が何かしたんですか」
「いや、リトルイタリーで殺しがあったんだ。トライベッカまで部下が追いかけて、容疑者のヒスパニックを捕まえたんだが、市警が保護する前に奴らに殺されちまった」
「ぼくにそんなことまで話していいんですか。そいつは捜査上の秘密なのでは?」
 電話の向こうでルイス警部が舌打ちした。「もう手遅れさ。君はテレビは見んのかね。CNNだけじゃあない。ABCからFOXまで大騒ぎだ」
 私はコードレス電話の受話器を握ったままテレビのスイッチを入れた。ちょうどCNNのヘッドラインニュースがライブ映像を流していて深夜のリトルイタリーが映っていた。スタジオのニュースキャスターが、イタリア人の実業家であるマリオ・ロッソ氏がリトルイタリーのレストランで食事中に知人数人とともに射殺され、その直後に店が爆発してイタリア人の客数人が巻き込まれて死亡した、と報じていた。
「実業家のロッソ氏ですか?」
 私は受話器に向かって訊くと、ルイス警部はイライラした声で言った。「肩書きは何だっていい。奴はロッソ・ファミリーの跡継ぎだ。つい最近シチリアから帰ってきたところだったんだ。下手すりゃマンハッタンが戦場になる」
「なぜ、そのイタリア人が?」
「マリオだ。今までシチリアにいたんだが、ファミリーを仕切っている親父が危篤でね、帰ってきて跡目を継いだばかりだった。イタリア・マフィア同士の抗争かもしれんし、他の組織が絡んでいるのかもしれん」
「なぜ、バートが疑われているんですか」
「容疑者のホセ・ゴンザレスの部屋に残されていたメモに、名前があった。それだけだ」
「彼がイタリア・マフィアのドンを殺すように命令したと思っているんですか」
「そういう訳じゃあない。ただの参考人だ」
「それにしては、スミス刑事はずいぶん物々しい雰囲気で登場しましたよ」
「いいかね。一週間のうちに二人の若手実業家が殺された。一人は車に乗っているところを爆弾で噴き飛ばされ、もう一人は食事中に仲間ごと噴き飛ばされた」
「ジョニー・リーのことを言っているんですね」
 ルイス警部はその問いには応えなかった。
「共通項として挙がってきたのがバートだと言うんですね。でも、単にそのなんとかいうマフィアがリモを雇っただけかも知れない」
「ロッソだ。奴さんは黒人嫌いだったそうだ。中国人はもっと嫌いだったらしいがな」
「日本人はどうなんですか」
「知らんな。さあ、君が今日どこで何をしていたか話してくれ」
「ぼくまで疑ってるんですか」
「そうじゃあない。捜査というのは可能性を一つ一つつぶしていくものなんだ。マンハッタンで戦争を起こさせないためだったら誰だって疑ってかかる」
 私は、夕方以降は伏木と一緒に日本料理店にいたことを話し、支局の電話番号を教えた。
「いいかね。前にも言ったが、マンハッタンを離れる時には連絡するのを忘れんようにな。でないと、気が乗らんがFBIに頼んで、君を捜してもらわんとならなくなる」
「FBIですか。そう言えば黒服の捜査官がもう会いに来ましたよ」
「ビュローがか。いつだね?」驚いたような口調だった。
 私は、ジョニー・リーが爆死し、ルイス警部に事情聴取を受けた日の深夜だと説明した。
「ふむう。一から考え直さんといかんかもな」
「市警とFBIはよほど仲が良くないんですね。右手が左手のやっていることを知らないようだった」
「いつものことさ」ルイス警部は舌打ちした。「いいかね。電話だ。電話を忘れんようにな」
「捕まえに来ないで、電話で済ませるんだから、ぼくは容疑者とは思ってないみたいですね」
「おい、日本人。あまりいい気になるんじゃあないぞ。外国人だからって捕まえないわけじゃあないんだ」
「脅し方はFBIと同じなんですね」
 チッと舌を鳴らして、ルイス警部は向こう側で電話をガシャンと切った。
 私はどうも余計なことを言い過ぎているようだった。瓶ビールの蓋を開け、テレビのボリュームを上げてから時計を見た。二時を過ぎていた。私はもう一度、受話器を取り上げ、日本に国際電話をかけた。今なら日本も昼過ぎだ。
「もしもし」女性の声が聞こえてきた。
「草薙です」私はゆっくりと電話に向かって言った。
「まあ、啓介さん。アメリカからはもうお帰りなの」
「いえ、お義母さん。まだニューヨークなんです」
「あらまあ」電話の向こうで義母が驚いたような声で言った。
「航平は帰ってきていますか」
「あらあら大変、ちょっと待っててくださいね。もう学校から帰ってきてますから」
 息子の航平は亡くなった妻の実家で暮らしていた。留守がちで家にいないことが多い私より、義父母と暮らす方が子供にとってはよいと考えたからだ。それが本当に航平のためになっているかどうかは私には分からなかった。
「おとーさん」電話の向こうから元気そうな息子の声が聞こえてきた。「今どこにいるの?」
「お父さんは今アメリカにいるんだよ。ニューヨークって街だよ」
「ふーん」小学一年の彼にはよく理解できないようだった。
「元気に学校に行ってるかい」
「うん。これから遙ちゃんの家に遊びに行くんだよ」
「お友達かい」
「うん。隣の席の女の子。すごく生意気なんだよ。でも時々優しくしてくれるんだ」
「そうか。ちゃんと仲良くするんだよ」
「うん。お父さんは、いつ帰ってくるの?」
「まだお仕事があるんだ。待っていられるかな」
「うーん。ぼく、早くお父さんに会いたいな」
「もうちょっとしたら帰るからね。お土産も買っていくよ」
「うん」航平は大きな声で返事をした。
「遊びに行くなら行ってもいいよ」
「うん、おばあちゃんに替わるね」
 航平が受話器を義母に渡した。
「啓介さんも、あまり危険なことはしないでくださいね。航ちゃんが悲しむから。航ちゃんったら、いつもお父さんの話をしているんですよ」
「分かっています。航平をお願いします」
 私は息子のことを義母に頼み、電話を切った。
 私はどうすべきだったのだろうか。このままマンハッタンを去り、日本に帰るべきだったのかも知れなかった。頼みにしていたジョニー・リーが殺され、大統領選の取材もどこまでできるか分からなくなっていた。
 テレビに目を向けると、CNNがサウスカロライナ州で行われた共和党の予備選の速報を報じていた。本命のマクミラン下院院内総務が過半数近い票を得て、スタイン・カリフォルニア州知事が続いていた。オニール上院議員の人気は失速しかかっているようだった。
 私はこの街、そしてこの国で何が起こっているのかが知りたかった。事実は常に一つしかないが、真実は関わる人の数だけ存在する。私は真実の一つが知りたかった。

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■最後のさよなら■ 第13回

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<12>



 伏木と別れて七番街と五十三丁目の角でタクシーをつかまえようと待っていた。夜も更けてきて冷え込んでいるせいか、空車のランプが付いた黄色い車はなかなか通らなかった。たまに通りかかっても、見て見ぬ振りをして走り抜けてしまう。乗車拒否は珍しくない。
 事件でも起きたのか、NYPDのマークを付けたパトカーがサイレンをけたたましく鳴らしながらダウンタウンに向けて何台も走っていった。騒々しい夜だった。
 酒で温まっていた身体が冷え始めてきた頃、一台の黒塗りのリンカーンがすーっとホテルの横道から走り出してきて私の前に停まった。
 スモークがかった運転席側の窓ガラスがすーっと降りてきて、中から黒人が顔を覗かせた。
「乗っていくかね」
 私はぽかんと口を開け間抜けな表情をしていたに違いなかった。真っ黒のサングラスをかけた黒人が口元を歪ませていた。どうやら笑っているようだった。黒い顔の中で真っ白な歯が光っていた。
「バート、こんなところで何をしているんだ」私はやっとのことで男の名前を思い出して、口を開いた。
「失礼な言いようだな。もちろん仕事さ」
 彼に会ったのは、JFK空港でリンカーンに乗せられてジョニーのところに連れていかれた時以来だった。彼のことはほとんど忘れかけていた。
「いや、その、こんなところで会うなんて思ってもいなかった」
「そうかね。マンハッタンは狭いからね」
「確かに狭いね。まるで尾けられていたみたいだ」
「乗るのかね、乗らないのかね。乗るんだったら、悪いがドアは自分で開けてくれないか。営業時間は過ぎたからね。今はプライベートな時間帯なんだ」
 私は後ろの扉を開けようとしたが、バートは助手席の方に顎をしゃくった。「こっちだ。後ろの席は営業用だ。友達はこっちに座るんだ」
 ドアを開けると柑橘系の香水の匂いがした。チャーリー・パーカーの古いCDがかかっていて、サックスを吹き鳴らし、喉がつぶれた声で「塩辛いピーナツ、塩辛いピーナツ」とがなり立てていた。
 リンカーンが走り出してから、私は訊いた。「ジョニーの葬式では見かけなかったね。来なかったのか」
「仕事で街を離れてた。人はいつかは死ぬものだ。仕方ないことさ」
「ジョニーは君の雇い主だったんだろ」
「そうだが、それはビジネスだ。友人として付き合っていたわけじゃあない」
「ずいぶん冷たいんだな。今はなぜぼくを乗せたんだ」
 彼は大きな肩をすくめた。「気まぐれだ。あそこに立っているのを見かけたんでね。本当は誰でも良かったのさ」
「なるほど。ぼくは君に引っかけられる寸前だった女の子の代わりに乗せてもらえたってわけだ」
「別にあんたを引っかけたわけじゃあない」
「こっちだって願い下げだ」
「すねることはない」バートは鳩のように喉を鳴らした。
 信号にいくつもつかまりながらダウンタウンに下り、日本の数寄屋橋のように交番があって警官が何人も詰めている、この辺りで最も賑やかなタイムズスクエアを走り抜けた辺りでバートは言った。「どうだね。せっかく会ったんだ。少し付き合わないか」
 伏木と別れたばかりでアパートに帰るつもりだったが積極的に断る理由は無かった。
「かまわないよ」と、私は言った。
 あちこちでパトカーがサイレンを鳴らしている中、バートはウエストサイドの倉庫街の方に向けて走らせた。途中、検問が行われていて一台ずつ車が停められた。クラクションを鳴らす音が前後から聞こえ、前方で警官がホイッスルをピーッと鳴らし、バートは舌打ちをした。バートのリンカーンもご多分に漏れず、分厚いコートを着た警官がコンコンと窓ガラスを指で叩き、窓を開けさせた。警官がバートの免許証を確認して、私の顔をじろじろと眺めてから、深夜の仕事に不満そうな表情を浮かべたまま、行ってよしと合図した。
「何があったんだろう」
 車を走らせながら、バートが言った。「さあてね。どこかのチンピラでも殺されたんだろう。珍しい話じゃあない」
「それで、どこに行くんだ?」
「今に分かる」
 バートはヘンリー・ハドソン・パークウエイを北上し、セントラルパークの北側にあるコロンビア大学に近い通りで降りて、ハーレムに入った辺りでリンカーンを停めた。以前に比べるとずいぶん治安は良くなったものの、タクシーなら黒人の運転手でなければ到底行ってくれそうもない場所だった。
 通りに面してほかの建物に比べても一際明るく照明を点けたレストランの正面にリンカーンは停まった。
「着いたよ」
 バートはエンジンを切って車から降り、トランクを開けてトランペットのケースを二つ取り出した。
 店の重々しい木製のドアを開けると、店内にいた客が一斉に私たちを振り返った。店は客でいっぱいで、私以外すべて黒人だった。
(c) マンハッタン炎上計画
(c) 「マンハッタン炎上計画」
マンハッタン炎上計画
 あちこちから声がかかり、バートは軽く手を挙げた。
 店の客たちは、バートの後ろにいた私に気が付くと警戒するような目で見つめた。
「友達なんだ。彼に席を空けてくれないか」
 バートがそう言うと店の空気が一気に和んだ。
 ビールのジョッキが立ち並ぶテーブルの向こうで、若い男が手を挙げて立った。
「ここに座りなよ」
 私はほかの客に押されて、男が空けた椅子に座らされた。
 バートは店の奥に消え、エプロン姿の店の主人が泡のあふれた生ビールのジョッキを持ってきた。
「バートのおごりだそうだ」
「ありがとう」
「礼はバートに言いな」
 私がジョッキを握ると、周りの黒人たちもジョッキを持ち上げた。
「あんたもバートの演奏を聴きに来たのかね」オーバーオール姿の老人が声をかけてきた。今まで生きてきた長い人生を感じさせる深い皺を顔に刻み込んだ小さな黒人の老人だった。
「街で会って、たまたま連れてこられたんです」
「そいつぁついてるな。バートは気まぐれでな。気が向いた時でないと演奏せん」
 私は老人に微笑みかけた。
「あんたぁ中国人かね」
「いえ、日本人です」
「そうかね。バートは日本人の友達もおるんか」
「彼は中国人の友達も多いんですか」
「多いかどうかは知らんがな。時々友達を連れて来ておった。そいつぁ中国には行ったことがないと言ってたからアメリカ人かも知れんがな。まあ、中華料理が作れると言ってたから、あの男は中国人だな」
「それじゃあ、ぼくは日本人の資格はあまりないかも知れませんよ」
「なあに、パンに肉を挟んだだけのハンバーガーを食ってりゃあアメリカ人だ。あんたも寿司を食うなら立派な日本人だろうさ」
 私は苦笑した。
 老人と話をしているうちに、バートがトランペットを握ってステージに上がった。ベースギターとピアノを含めて三人だった。バートは相変わらず黒いスーツを着て、黒いサングラスをかけていた。彼のユニフォームなのかも知れなかった。
 バートはおもむろにトランペットのマウスピースに口を当て「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」を吹き始めた。
 なるほど、JFK空港から来る途中に最高のジャズを聴かせると言っていたのはこのことだったのか、と私は思った。確かにかなりの腕前だ。素人のお遊びなどではなかった。バートは隆々とラッパを吹き鳴らしたかと思うと、夜の闇にすすり泣くようなメロディをなぞり、客は凍り付いたようにその音色に聴き入った。
 演奏が佳境に入り、バートのアドリブで店が大いに盛り上がっている時だった。バタンとドアが開いて、警官が数人、入ってきた。半分は黒人の警官だったが、白人も何人か混じっていた。警官たちはホルスターに手をかけて、いつでも拳銃を抜ける格好で、緊張した面持ちだった。
 バートは演奏を止め、彼らをじっと見つめていた。サングラスの下の表情は全く窺い知れなかった。
 私服の白人が警官二人を脇に連れて、バートにゆっくりと近づいていった。店内に十数人いた観客は敵意に満ちた視線で彼らを睨み付けながら、海が二つに割れるように道を空けていった。
「バート・キングだね」ステージに近づいたところで男が言った。
 バートは何も言わずに小さく頷いた。
「ホセ・ゴンザレスを知っているかね」
 バートはトランペットを握ったまま、何も言わなかった。
「さっき死んだよ。あんなチンピラを使ったのは拙かったな。殺されたマリオ・ロッソの手下があんたと一緒にいるところを見たそうだ。ホセは奴らに殺されたよ。私はさっきまでリトルイタリーでロッソの一味を追っかけ回していたんだ」
「何のことか分からんね。あんた誰だ?」バートは無表情に言った。
「グレッグ・スミス。第六分署の刑事だ」
 ポケットからニューヨーク市警のバッジを取り出して掲げた。
 私は刑事の横顔をもう一度よく見た。先日、ジョニー・リーが爆死した時に私を事情聴取した若い方の刑事だった。
「白を切るならそれでもいいさ。ちょっと事情が聞きたいんで、第六分署に来てもらいたいんだがね」
「そいつは困ったね。今ライブの最中なんだ」
「今夜十時頃、どこで何をしていた?」
「さてね、よく覚えていないが。そう言えばここにいる日本人と一緒だったよ」
 バートはサングラスの下から視線を私に向けた。
「あれ、あんた・・・」スミス刑事が私を見て惚けたような表情になった。
「あんたあの時の日本人だね。なんでこんなところにいるんだ」
 私は肩をすくめた。「彼に演奏を聴きに来ないかと誘われたんだ」
「彼と知り合いなのか」
「そうです」
 明らかにスミス刑事は動揺していた。彼は何かの事件でバートを被疑者として追ってきたようだった。
「いつから彼と一緒だったんだ」
「よく覚えていないけれど十時頃かな。ミッドタウンで彼とたまたま会って、ここに連れて来られたんだ。その間は一緒だった。検問もあったから、記録を調べてみるといい」私は伏木と別れてから彼と出会い、ここに来るまでの状況を簡単に説明した。
「彼は何か車に積んでいなかったか」
「トランペットくらいかな」私は肩をすくめた。
 バートは手に持っていたトランペットを少し上げて、スミス刑事に見せた。
「参ったね・・・こりゃ」
 スミス刑事は頭をかいて、コートのポケットから携帯型の無線機を取り出した。
「ちょっと困ったことが起きた。どうもガセかも知れない。あのときの日本人が一緒だったって言うんだ」彼は一頻り無線に向かって状況を説明した。
 やがて、「テンフォー」と、無線用語で了解と言うと、私に向かって無線を差し出した。「うちの刑事課長があなたと話したいとさ」
 私が警察無線を手に取ると、ザーザーというノイズの向こうから、男の声が聞こえてきた。初めて聞く威圧的な声色だった。
「いったいあんたがなんでそんなところにいるんだ。そこはハーレムだろ」
 私は、もう一度簡単に状況を説明した。相手の質問に一通り答えてから、私は無線機をスミス刑事に返した。
「人違いってことは・・・いや、しかし・・・あのタレ込みだって怪しいもんで」しばらく弁解を続けてから無線を切ると、スミス刑事は肩を落とした。「参ったね・・・こりゃ」
 彼はバートや店の主人に簡単に話を聞くと、私のところに戻ってきた。「おい、あんた。本当に彼と友達なんだろうな。嘘はついてないな」
 私は三秒ほど考えてから、首を横に振った。「嘘はついていない」
 スミス刑事は再び肩を落とすと、私とバートに向かって、また話を聞くからなと言い残し、警官隊に向かって引き上げることを宣言した。
 警官が一人残らず出ていくと、店にはざわざわと喧噪が戻ってきた。バートに声をかけるものも何人かいたが、彼は何も応えなかった。やがてトランペットをベース奏者に渡すとステージから降りてきた。
「すまなかったな」バートは私の肩をポンと叩いた。「今夜はお開きだ。送っていくよ」
 私は頷いた。
 店を出て、バートが裏から回してきたリンカーンの後部座席に座ったが、今度は彼は何も言わなかった。グリニッチヴィレッジに向かう途中、彼は一言もしゃべらなかった。道は空いていて、先ほどのようなパトカーの列に会うことはなかった。
 やがて車はブリーカー通りに入り、アパートの前に停まった。車を降りる前に、私は口を開いた。「あんたがやったのか」
「何のことだね」
「とぼけなくていい。ぼくを乗せたのはアリバイを作るためだったんだろ。ぼくを乗せてわざわざ検問のある道を通ったんだ。一人だけで通るよりも、アジア系のぼくが乗っていた方が怪しまれないからね」
 バートは肩をすくめた。「あんたがジャズが聴きたいって言うから誘っただけさ」
「まあ、いいさ。あんたがプロ級の腕前だって言うのはよく分かったよ」
「そうかね」
「マイルス・デイヴィスには敵わないけれどね」
 私が皮肉を言うと、バートは初めてにやりと口元に笑みを浮かべた。「そいつは光栄だ」
「さよなら」私は言った。
「おやすみ」バートが言った。
 私はドアを開けて車から降り、リンカーンが走り去るのを見守った。

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MILES DAVIS
Cookin' With the Miles Davis Quintet
Miles Davis
Miles Davis and the Modern Jazz Giants

MILES DAVIS
Tribute to Jack Johnson

■最後のさよなら■ 第12回


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<11>


 マンハッタンに戻った時にはすっかり暗くなっていた。私はレンタカーを返してから、アパートに戻った。冷蔵庫から瓶ビールを取ってきてテレビのスイッチを入れ、ビールに口を付けようとした時、テーブルの上に茶色い大判の封筒が置いてあるのに気が付いた。封筒の口にボタンが付いていて紐で閉じておく、どこにでもあるタイプのビジネス封筒で、宛名も何も書かれていなかった。分厚く膨れていて、持ち上げて振ると中でガサガサと音がした。

(c) マンハッタン炎上計画
(c) 「マンハッタン炎上計画」
マンハッタン炎上計画
 いつから置いてあったのだろうか。私は記憶の倉庫を掘り返した。この数日いろいろなことが起き、テーブルの上など気にも留めていなかったが、私が置いたものでないことは間違いなかった。
 封をしている紐をほどき、注意しながら中身をテーブルの上に広げた。輪ゴムで束ねたネガの束と数葉の写真と、細かい数字を筆記体で書き殴った便箋が入っていた。
 写真は少々色褪せていたが、戦時下のサラエボの街を撮影したものだった。一枚目の写真には三人の女性が写っており、いずれも痩せて疲れた顔をしていたが、それでも笑顔を浮かべていた。中央に写っているのはサニャのようだった。二枚目は大勢の市民が生鮮品を求めて市場で買い物をしている様子だった。迫撃砲で噴き飛ばされる前の市場のようで、戦時下にもかかわらず忙しく活気に溢れた風景だった。三枚目は少年が二人、悪戯そうな表情を浮かべてカメラを見つめていた。兄弟なのかも知れなかった。よく似た格好をしていた。よく見ると弟の方は洋服の左腕がダラリと下がっていて、中には何も入っていないように見えた。爆撃で腕を噴き飛ばされてしまうことはあの当時、決して珍しいものではなかったが、小さな少年が腕を失われているのはひどく痛々しかった。もう一枚は大きなカメラバッグを少年が肩から提げて持ち去ろうとしている写真だった。バッグを慌てて取り返そうとしてシャッターが押されたのか、画面が大きく傾いていてピントも合っていなかった。
 最後の一枚は他の三枚の写真とは雰囲気が異なり、褪色具合から見てもサラエボではないように思えた。場所はどこかのホテルのロビーかヨーロッパの鉄道の駅舎のように見えた。軍服の胸に勲章をいくつもぶら下げた男と、彫りの深いラテン系の顔立ちの男二人が親しげに話をしている様子を望遠レンズで離れたところから隠し取りした写真のようだった。軍人の方はやり手のビジネスマンのような顔立ちで、相手は中年の実業家のようだった。もう一人の男は不節制が過ぎて脂肪の塊のようになってしまったような体型をしていた。軍人の男にも、相手の男にも見覚えはなかった。
 数字が書き込まれたメモは何が書いてあるのか分からないほどの悪筆で、どうやら英語ではなさそうだった。メモはホテルの部屋に備え付けられているような便箋に書き殴られており、下の方にホテルの住所と印が押してあった。アメリカの住所ではなかった。
 輪ゴムで束ねられていたネガの束を外の光で透かしてみると、どうやらいずれもサラエボの風景のようだった。
 この封筒はジョニーが部屋に残していったもののようだった。テーブルの上にあった雑誌に紛れていたものを私が気が付かずに掘り起こしたのだろう。
 私は受話器を取り、一本電話をかけて翌日のアポイントメントを取った。何も解決はできないかも知れないが、何もやらないよりはましだった。
 それから私はノートパソコンを取り出し、電子メールをチェックした。ニューヨークに来る前に週刊トゥデイの編集部を通して出しておいた取材の依頼を確認したのだ。まだ、何も返信は届いていなかった。私は週刊トゥデイの山脇デスク宛てにメールを書いて念押ししてパソコンを閉じた。
 友達が死んだと言っても、仕事はしないわけにはいかないのだ。


 翌日、アパート近くのドラッグストアでネガフィルムを現像に出し、夕方になってから、地下鉄に乗ってミッドタウンまで上がり、七番街と六番街の間にある高いビルに入った。そこの二十四階に新日本新聞のニューヨーク支局があった。ニューヨークの一等地にあるこの支局は、新日本新聞にとってワシントンDCの米州総局に次いで大きな規模の支局だった。
 フリーのジャーナリストになる前、私は記者として新日本新聞で働いていた。妻が病気で亡くなり、何もかもする気が無くなって新聞社を辞めたが、今でも知り合いは多く残っていた。サラエボに行ったのは会社を辞めてしばらくしてからのことだった。
 エレベーターで二十四階まで上がり、鍵のかかったガラスの扉の脇にあるインタフォンで受付嬢に扉を開けてもらうと、間仕切りの向こうから男が大股で駆け寄ってきた。「やあ、草薙。久しぶりだなあ。辞めてずいぶんになるんじゃないか」
 アメリカ人のように大仰に手を広げて、伏木文彦は私を出迎えた。
 伏木は私と同期で入社した記者だった。三年前からニューヨーク支局に駐在していると聞いていた。
「元気そうじゃないか。君も変わらないね」
「変わらないだって? そんなことはないさ。アメリカに暮らしてると牛のように食ってばかりいるからな。ほら見ろ、すっかり中年太りだ」
 伏木はスーツを開き、たっぷりと脂肪の付いた腹を私に見せた。
「貫禄が出てきたね。昔ラガーマンだったとは思えないな」
「この野郎」伏木は私を突いた。
「草薙は全然変わらないなあ。うらやましいよ。何を食っているんだ、カスミか?」
「貧乏暇なしでね」
 伏木は大きく口を開けて笑った。
「昨日、電話で話をしたが、データベースを貸してもらえるかな」私は小さな声で訊いた。
 新聞社や通信社には様々な情報のデータベースを検索できる端末が据え付けられている。私が東京本社で働いていた時は資料を調べるためにずいぶん利用したものだ。アメリカでは公共の図書館に行けば新聞社の記事データベースを検索することもできたが、餅は餅屋だ。新聞社にある端末からは通常は有料のデータベースだけでなく、様々な人事情報データベースにもアクセスできた。本来は社外には公開されていないため、私のような外部の人間は利用できないのが原則だった。
 伏木は私を資料室まで連れていくと端末の電源を入れて「内緒だぜ」と片目つぶった。何人もの記者が仕事をしている中を通って、部屋に入ったのだ。内緒も何もない。
「それともう一つ、調べられないか」と、私は言った。
「なんだ」
「この写真」私はジョニーの部屋で見つけた封筒に入っていた写真のうち、数人の男たちが写っている写真を伏木に見せた。
「なんだこの写真は」
「分からん。それが知りたいんだ。この場所とか人物が誰かとかが分からないかな」
「うーん、こいつは難しいなあ。誰かに訊いてみてやってもいいが」
「すまない。この便箋の文字とかが何かの役に立つかも知れない」
「なんだこりゃ。読めねぇぞ」
「そうなんだ」
「全く久しぶりに会ったと思ったら難題をふっかけやがって」
 私が持ってきた封筒に写真や便箋などを戻しながら、伏木は苦笑した。「高くつくぞ」
「恩に着るよ」と、私は言った。
「後でおごれよ」
 伏木は私を残して部屋を出ていった。
 私は資料室の一角に置かれたパソコンの前に座り、人事情報のデータベースにログオンした。オニール上院議員についての情報を調べたかったのだ。
 しかし、著名人のプロフィルと履歴を収録したという触れ込みに反して、私が期待したほどにはオニール上院議員に関する情報は調べることができなかった。ニューヨーク・タイムズやらワシントン・ポストに載る有名人物のプロフィル欄でも手に入る程度の情報に過ぎなかった。

 一九四五年、第二次世界大戦が終戦した年にコネティカット州で生まれ、ニューヨーク育ち。故ジョゼフ・オニール元上院議員の長男で、ハーバード大学を中退して陸軍大学校に入り直したという異色の経歴で、陸軍指揮参謀大学校卒。元陸軍情報将校。戦略事務局、陸軍参謀本部、外国駐在武官、NATO司令部の国際軍事参謀部などで勤務の後、退役。ニューヨーク州から上院議員に立候補して当選。今回、共和党より大統領選への出馬を表明した。

 それが彼のプロフィルだった。大統領選は、これから党としての候補を決める予備選がある。共和党では彼のほかにも三、四人が立候補を表明していて、実績や党員の人気から見てもオニール上院議員が党の大統領候補として公認を受ける可能性は低い、とワシントン・ポストは書いていた。右寄りの言動が多いオニール上院議員に対して、ワシントン・ポストは批判的なようだった。
 私はそのほか、いくつかデータベースを検索し、オニール上院議員に関する情報を何枚かプリントアウトして、パソコンの電源を切った。資料室を出て、記者が忙しそうに仕事をしている大部屋の中でただ一人、手持ち無沙汰そうにボールペンをもてあそんでパソコンのモニターを眺めている伏木に近づき声をかけた。
「どうもありがとう。助かったよ」
「おお。終わったか。じゃあ、メシでも食いに行くか」
「仕事の方は大丈夫なのか」
「ああ、今日はウォール街も静かだったし、すべてこの世はこともなしって奴だ。後で戻ってくれば日本の夕刊の作業には間に合うよ」
 伏木はジャケットを着てコートを羽織ると、隣にいた記者に「二、三時間出てくる」と言って私を連れ出した。
 伏木と私はブロードウェイから一本入ったところにある日本料理店に入った。マンハッタンに多い接待用の高級な料理店ではなく、家庭料理を提供していて駐在員などが普段使うような気の置けない店だった。
 つまみを数品注文して、ビールで乾杯し、しばらくの間はお互いの近況を話した。やがて、伏木が訊いた。「それで何を調べてるんだ。大統領選をレポートするとか言ってたな」
「ちょっとね。候補者の中でオニール上院議員に注目してるんだ」
「ああ、確かに彼は興味深い人物だね」
「上院議員に当選してわずか一期で大統領選に出馬。共和党議員の中でもまだ経験の浅い彼のどこからそんな自信が出てくるんだ?」
「親父の威光だな。死んじまった父親のオニール元議員は共和党でも実力者だったからな。親父と仲違いして軍人になったが、父親が死んだことで改心し、上院議員選挙に出馬したら当選しちまったんで欲が出て、父親でもなれなかった大統領職に興味を持ったってところだろう。だがまあ、本気で大統領になろうとしているのかどうかは疑問だな。多分、無理だろう。予備選で票が取れずに落ちるのが関の山だ」
「じゃあなぜ出馬しようなんて考えるんだ」
「確かに大統領にはなれんかも知れんが、党内の発言力は上がるだろうな。共和党が政権を取った後は政権の中枢に入り込むことだってできる。彼の経歴を考えたら、国務長官や国防長官級の人事だってあり得るぞ。上手くすりゃあ副大統領だ」
「つまり党内での権力基盤固めが目的ってわけか」
「彼がニューヨークで上院議員になれたのだって、死んだ父親の弔い合戦ってことを強調したから当選したようなもんで、棚ボタみたいなもんだからな。大統領になれなくったって、党内基盤を固めちまえば勝ちさ。この国は下から這い上がるのはひどく大変だが、一度上がっちまったら誰も何も文句を言わなくなる。まあ、日本の政治家ほどはひどくないがね」
「彼が本気で大統領になりたいとしたらどうするかな」
「難しいな。よっぽど世間の評価が高くないと、この国は大統領にはなれない。彼の人気は南部の保守的な白人層が中心だからね。次の大統領選ならともかく、今回は政治家としての指導力をどうやってアピールするかで、どこまで得票できるかが決まるだろうな。ただ、共和党が政権を取っちまったら次は大統領が防衛に回るから、彼の出番は無くなるね。その意味では今回限りとも言える」
「勝つためには全米的な人気が必要、か」
「そうだな。彼は元軍人だから、強い政治家ってのをアピールするには戦争が一番だが、今はそんなご時世じゃあないしな。第一、世論が戦争は許さんし、戦争を始めるのは大統領の専権事項だしな」
「ライバル以上に指導力をアピールしたいってところだね」
「まあそんなところだな」伏木はビールをぐいっと飲み干すと、私の耳許で声を潜めて囁いた。「ところで、これはワシントン総局の記者から聞いた話なんで裏は取ってないがな、あのオニールって奴は、ずいぶん食わせ物らしいぞ」
「食わせ物?」
「共和党が彼の出馬表明を黙認している背景には、かなりの裏金が流れてるって噂だ」
「政治献金かい?」
「あくまでも噂だから、よく分からんがな。どうもそんなにきれいな金じゃあないらしい。党の主力議員が取り込まれているんだから相当な金額だろう。第一、大統領選はものすごい金がかかるからな。党としても集められる金はいくらだって欲しいところだ」
「だが、彼は元軍人だろう。実業家でもないのに、どこにそんなに資金があるんだ? オニール家っていうのはケネディみたいに名家なのか」
「さてねぇ。まあ、親父が元上院議員で、ハーバードを途中で退学しちまうくらいだから、金持ちには違いないさ。ハーバードなんて入学するだけでも、馬鹿みたいに金がかかるからね。それに成績が悪くて追い出されたわけでもないらしい。相当優秀だったって聞いたがね」
「確かに昨日会った時は、鋭そうな感じではあったね。いかにも軍人らしい面構えだった」
 伏木はビールを吹き出しそうになった。「昨日会ったって? どこで?」
「直接話したわけじゃあない。知り合いの葬式に出ていて、たまたま出くわしたのさ」
「葬式? この前ダウンタウンで爆死した中国人の葬式かい?」
「知ってるのか、ジョニー・リーを?」私は息を呑んだ
「知ってるってほどの付き合いじゃあないさ。去年、取材先の中国人に招待された年末のパーティに来ていて、名刺を交換したんだ。葬式があるってのはニューヨーク・タイムズで読んだんだ」
「それにしては、よく彼のことを覚えてるじゃないか」
「ああ、彼は中国人社会じゃあ有名人だったらしいぞ。それに部屋の中でも黒い手袋を外さないし、握手もしなかった。ちょっと変わったところがあったね。それに俺が日本人だって分かったら、いろいろ話を聞きたがったよ。彼の友人とかいう連中とこっちの記者二、三人とで飲みに行こうって誘われて、彼の知ってる店に連れて行かれたんだ。日中友好ってわけさ。まさか死んじまうとはな」
「そのとき、どんな話を?」
「ああ、よく覚えてないが、日本人のジャーナリストに興味を持ってるような話をしてたかな。それに腕っ節が強そうな取り巻き連中がいたな。中国のヤクザみたいでビビったよ。それにしちゃあ親しげに話をしてたけれどね。それっきりさ」
 私がジョニーから絵葉書をもらったのは去年の暮れだった。パーティで伏木に会って私のことを思い出したのかも知れなかった。
「それで草薙。お前はなんで、あんな中国人と知り合いなんだ。彼は本当に実業家なのか」
 私はサラエボで彼と会った話を聞かせた。爆発に巻き込まれた話は生々しすぎて話さなかったが、伏木は彼に興味を持ったようだった。「ふーん。不思議な縁だな。爆死した中国人の実業家と大統領候補の上院議員か。こりゃあちょっとミステリーとしては面白いな。それで、昨日は上院議員と話はできたのか?」
「まさか。話しかける前に帰っていったよ」
「珍しいね。彼が中国人の葬式に出るなんて」
「彼は中国人が嫌いなのか?」
「そうじゃあないさ。彼は日本人も嫌いだよ。白人、それもWASP以外は相手にしないって話だ。日本のメディアのインタビューだって受けやしない。うちからのインタビューの申し込みもけんもほろろに断られたよ」
「ぼくもインタビューを申し込んでるんだがね」
「そいつぁ望み薄だな。万が一インタビューが入ったら、ここからタイムズスクエアまで逆立ちして行ってやるよ」
「そいつは楽しみだ」
 私と伏木は笑いあった。
「それにしても世間は狭いね」と、伏木は言った。
「どうして?」
「いいか、考えてもみろよ。世界には十二億人以上の中国人がいるんだぜ。その中国人の中でただの一人を俺もお前も知ってるなんて、奇妙なもんさ。そうは思わないか?」
 確かに不思議な話だった。ジョニーが伏木に出会わなければ、彼は私に絵葉書など送ろうと思わなかったかも知れないし、私もニューヨークに来ようなどと考えなかっただろう。彼がワシントンスクエアで爆死する現場に立ち会うこともなかったはずだ。第一、私が伏木に会いに来なければ、こんな話も知ることはなかったのだ。
「確かに狭いね」と、私は言った。
「ボスニアといやあ、俺も一人、女の子を知ってるぜ。女の子って言うのは失礼かな。妙齢の女性だ」
「君らしいね」私は笑った。
 確かに伏木は日本にいた頃はプレイボーイで通っていた。
「そういう関係じゃあないんだ。たまに行く店で働いているんだ。そうだ、これから行ってみないか」伏木は私を誘った。
「仕事があるんだろ」と、私。
「夜中にやるさ」と、伏木は笑った。
「今夜は止めておくよ。ぼくのせいで締め切りが遅れたなんて言い訳をされたら寝覚めが悪い」
「そおかぁ」伏木は心底残念そうな顔をした。
「次はちゃんと付き合うよ」
「オーケー。じゃあ、連絡先を教えろ」
 電話番号と電子メールのアドレスを伏木に教え、また連絡すると言って私は約束通り店の勘定を支払った。
 なるほど、世界はずいぶん狭くなったのかも知れない。ニューヨークは特に狭い街なのかも知れなかった。

to be continued.

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■最後のさよなら■ 第11回


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<10>


 昼近くになってベッドから起き出した時、窓の外はどんよりと暗い雲に覆われていた。私は、外の風景と同じようにどんよりと重い頭を振って髪の乱れを直し、寝たままの洋服の上にコートを引っかけて部屋から出ると、アパートのすぐ近くに開いているニューススタンドでニューヨーク・タイムズとUSAトゥデイを手に取った。毛糸の帽子を目深にかぶり、ストーブを足下に置いて足踏みをしながら暖を取っている黒人の売り子に二十五セント・コインを何枚か渡して、私は急ぎ足で部屋に戻った。
 テレビのスイッチをつけて、冷蔵庫からオレンジジュースとベーグルを取り出し、コーヒーメーカーに近くの酒屋で買ってきたコーヒーの粉をセットした。フライパンにベーコンを何枚か敷いて卵を落とし、サニーサイドエッグを作って皿に盛りつけ、テーブルに置いた。
 テレビのローカルニュースが、昨日のワシントン広場での爆発を取り上げていた。消防車やパトカーの赤色灯が映像の背後に映っていた。ワシントン広場で夜のうちに撮影したようで、警察の黄色いテープが張り巡らされた爆発現場のすぐ後ろで、耳当てをした若いレポーターが寒さに震えながら中国人実業家のジョニー・リー氏が車の爆発に巻き込まれて死亡したこと、警察によると車が爆発した原因は不明で整備トラブルの可能性があること、リー氏はチャイナタウンで貿易会社を営んでいこと、などを報じていた。カメラマンも寒くて震えているのか、映像が手ぶれを起こしていた。きっとあまりいいカメラを持ち出さなかったのだ。この寒さなら、取材に出かけないための理由を十くらい見つけるのは簡単だ。きっと新人のレポーターが送り出されたのだろう。
 ニュースでは、爆弾の話は一言も出てこなかった。映像がスタジオに切り替わると、胸の谷間を強調するピンクのスーツを着た派手な金髪の女性キャスターが真っ白な歯を自慢げに見せながら、警察が現在事故原因を調査中ですとありきたりのコメントをすると、すぐにクイーンズの動物園で虎に双子の赤ちゃんが誕生したというニュースに移ってしまった。
 彼は本当に殺されたのだろうか。何かの間違いではないのか。殺されたのだとしたら、何のために。私は彼のために何をすべきなのだろうか。
 胃が早く食事を持って来いというので、クリームチーズを塗ったベーグルを齧りながらニューヨーク・タイムズを開いた。こちらの方にはもう少し詳しい情報が載っていた。ジョニー・リーとして知られる李祥榮はニューヨーク出身の華僑の実業家で、五年前に亡くなった父親のデビッド・リー氏の跡を継ぎ、ニューヨークを拠点にアジアやヨーロッパとの貿易を営んでおり、中国人社会で大きな成功を収めていた、とプロフィルが記されていた。記事の最後には、ブルックリンにあるリーの家の住所が載っていて、今日から弔問を受け付け、明後日に埋葬されると書いてあった。
 食事を済ませ、何件か電話で連絡を取り、当面の用事を済ませると、持ってきたスーツの中で一番黒く見える服に着替え、ハドソン川沿いのレンタカー屋からカローラを借り出した。マンハッタン島を出てブルックリンに入り、ダウンタウンで中国人が経営する酒屋に立ち寄った時に、ミスター・リーの家を知っているかと聞いたところ、葬式に行くならあっちだとすぐに教えてくれた。
 ジョニーが会社を経営していて財産を築いていることは知っていたが、これほどまでの大金持ちだったとは想像もしていなかった。鬱蒼とした林の中を入っていくと巨大な鉄の門が開きっぱなしになっていて、石畳の私道からは雪がすっかり取り除かれ、その先を進むと映画の中でしか見たことがないような跳ね上げ式の窓を壁に整然と配したジョージア様式の邸宅が立っていた。噴水を囲んだ石畳の車寄せにはぎっしりと高級車が駐車しており、私はみすぼらしい赤いカローラを入り口脇の木の陰に隠すように停めた。
 私はジョニーの家族を誰一人として知らなかったが、玄関で弔問に訪れたと英語で話しかけると、喪服を着た家政婦だろうと思われる中国人女性が親切に招き入れてくれた。一人くらい知らない人間が紛れ込んでいても誰も困らないのだろう。誰も私のことをとがめたりはしなかった。
 屋敷の中は外観とは異なって、中国風の家具があちこちに置かれ、建物と妙な違和感があった。きっと資産家になったジョニーの家族が、この辺りの邸宅を買い取ったのだろう。巨大なリビングルームの奥に祭壇が設けられており、中国風の彫刻を施した棺が置かれていた。正面にはジョニーの遺影が大きく飾られ、棺の周りは生花や香炉が飾られ、ロウソクに火が灯されていた。
 棺に辿り着くまでに何人かの中国人が悲しげな顔をして私に中国語で話しかけてきたものの、私は首を横に振らざるを得なかった。彼らは怪訝そうな表情で私を見ていたが、やがて立ち去っていった。
 私は棺の脇に置かれた椅子に疲れ切った表情で座っている老人に英語で話しかけた。
「彼が亡くなって、とても残念です」
「あなたは?」老人は皺くちゃな顔を上げ、私を見上げた。
「草薙といいます。ジョニーの友人でした。車が爆発した時、彼とワシントン広場で待ち合わせをしていました」
「おお」老人は椅子の脇に置いてあった杖を手にすると、よろよろと立ち上がろうとした。私は彼を支えてゆっくりと立たせた。
「ジョニーとはサラエボでも一緒でした」
「そうでしたか。あなたのことは祥榮から聞かされていました。私は彼の父親の古い友人で、王宋雲(ウォン・ソンユン)といいます。あの子の父親李大榮(リー・ダイロン)が死んでからは私があれの後見人みたいなものでした。どうぞ、祥榮が安らかに眠れるよう祈ってやってください」
「彼にはいろいろ助けてもらいました。実はグリニッチヴィレッジにある彼のアパートも借りているんです。あそこには彼の荷物もそのまま置いてあります」
「どうぞ、あの部屋は使っていてください。あの子がずっと大切にしてきた部屋だ。サラエボから帰ってきてからほとんど行かなくなってしまったみたいだが、あそこには祥榮の思い出が詰まっているでしょう」
「多謝。大変感謝します。しばらく部屋を使わせていただきます」
「あなたはお若いが礼儀をご存じのようだ。日本の方かな」
「そうです」
「わしが子供の頃、関東軍に追いかけられ、父親に連れられて、あの子の父親と一緒に大陸中を逃げ回ったものです。戦争が終わったと思ったら今度は毛沢東が農民の軍隊を率いてやってきて大陸から追い出されてしまいました。蒋介石の国民党も好かんかったが、紅軍も馴染めんかった。上海から貨物船に乗ってこの街に着いた時のことは、今でも忘れられんよ」
 老人は遠い目をしていた。
「老師。もしお分かりだったら、教えていただけませんか。ジョニーは誰かに恨まれていたり、脅迫されていたりしませんでしたか」
 老人の顔に奇妙な表情が浮かんだ。「なぜ、そのようなことを?」
「彼の車は事故で爆発したのではないと思えるんです」
 老人は私から目を逸らした。「そのようなことはないと思うがの」
「ぼくは彼がなぜ死んだのか調べようと思います」
「そのようなことに興味は持つのはお止めなさい。そのためにこの街に残るというのなら、お国に帰った方がいい。賢明な君子は危険なことに近寄ったりはしない」
「何が危険なんですか? それに、ぼくは君子ではない。彼の友達というだけだ。なぜ彼が殺されたのか知りたいだけだ」
「盲人騎瞎馬、夜半臨深池」老人が中国語を口にした。
「何ですって?」
「中国の古い諺です。盲人が目の見えない馬に乗って夜中に深い池に近づく、という意味です。あなたは危険なことに足を踏み入れようとしていることに気が付いていない」
 老人は目を閉じ、悲しげに首を振った。「あの子は自分が正しいと思うことをやろうとした。それだけのこと。あなたが関わることではない」
「どういう意味ですか」
「この街にはわしらの同胞だけが住んでいるわけではない。わしらの国でもない。この街ではどんなことも起こる。何が起きても、それが道理と言うもの」老人は首を振り、私がいたことを忘れたかのようにゆっくりと歩き去っていった。
 私は老人の背中を見つめた。この街ではどんなことも起こる。確かにここはニューヨークなのだ。



(c) FreeFoto.com
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 二日後、ジョニーはブルックリンにある墓地に埋葬された。マンハッタンで巨額の財を築いた李家の子息の葬儀ではあったが、一昨日会った王老人や、十数人程度の身内の華僑を除くと、私のような外部の参列者は少なく、ひどく質素な葬儀だった。
 墓地は公園のように広々としており、地面には十字や石版の形をした墓石があちこちから生え、寒々しさをいっそう強調していた。本来は青々とした芝生が敷き詰められているようだったが、先日降った雪が凍って枯れ草すら顔を覗かせていなかった。銀世界には整然と十字架が並び、セントラルパークに集まる小さなカラスのように黒いスーツに厚手のコートを着込んだアジア系の容貌の集団が白銀の世界に集っている様子はモノクロームの銀塩写真の一葉のようだった。
 墓地の一角にジョニーのために墓穴が掘られ、脇には豪華な装飾を施した棺桶が置かれて、掘り返された茶色い土が穴の近くに盛られていた。私はサラエボのサッカースタジアムで見かけたムスリムの葬儀を思い出した。
「人は死に慣れるんだよ」ジョニーはそう言っていた。
 死んでしまえば、悲しみは人々の記憶から徐々に薄れ、やがて思い出になって消えていく。しかし、目の前で爆死した友の姿を記憶から消し去るのは簡単なことではなさそうだった。
 私は群衆の後ろに立ち、別れの儀式が進むのを見守った。
 墓地は少し傾斜のある丘の上にあった。谷に当たる道に沿って三台分のリンカーンをぶつ切りにしてつなげた真っ黒なストレッチ・リムジンが、同じように黒塗りのリンカーン二台に前後を挟まれ、雪の上を滑るようにやってきて丘の下に停まるのが見えた。
 リムジンの中からはがっしりとした体格で、険しい表情をした初老の紳士とやせぎすの小柄な男が降りてきた。二人を囲むようにがっしりとした体格で、髪の毛を短く刈って黒いサングラスをかけた男たちが数人降りてきた。
 群衆の間でざわめきが起こった。
 その二人が誰かすぐには気が付かなかったが、どこかで見たことがある人物であることは分かった。すぐ近くから「上院議員だ」という小さな声が聞こえてきて、その人物の名前を思い出した。
 がっしりとした軍人のような男は、ニューヨーク州選出のローレン・オニール上院議員だった。タカ派的な言動が物議を呼ぶことの多い軍人上がりの上院議員という経歴だけでなく、今や大統領選の台風の目となりつつあることでメディアの注目を集めていた。
 その後ろを追いかけるように付いてきているのは、彼の秘書だろうか。彼らの周りをがっしりした体格のボディガードの男たちが壁のように囲んでいた。
 オニール上院議員は、運動不足で息切れをしているもう一人の小男を置き去りにしたまま、雪の中を息一つ切らせずに上がってくると、群衆に向かって軽く一礼した。彼は灰色の眼に銀色の髪をしており、同じ色の口ひげをきれいに整えていて、確かに軍人に多いタイプの容貌に思えた。
「今回のことを聞いて大変残念に思っています。言葉に表せないほど悲しいことだ」紋切り型の台詞だが、絶妙の言い方と表情だった。政治家として上り詰めるためには、演技力も必要なのだ。
「ニューヨーク州と市を代表して一言いわせていただきたい。ミスター・リーが亡くなったことは、我々にとって大変な損失となりましょう」
 遺族の間でざわめきが起きた。
 遺族の中で、一際小さな李老人がよろよろと前に出て言った。「上院議員。わしらの祥榮のために、わざわざ弔問に来ていただいたのは光栄なことだが、小李の葬儀はわしらの一族だけで執り行いたいと思っています」
 オニール上院議員の眉がぴくりと上がった。「それはどういう意味かな」
「大変失礼な言い方だが、お引き取りくださらんか」
 上院議員の周りに壁となって守るように取り巻いていた黒眼鏡の男たちが一歩前に出たのを制しながら、オニールは言った。「それは残念ですな。私と彼の父親のデビッドは友といっても良い仲。かつてはビジネスも一緒に行っていたのはご存じのことでしょうな」
「それも昔のこと。蜜月は長くは続かなかったと聞いております。あなたはご存じないかも知れんが、中国には呉越同舟という言葉がありましてな。不仲な者同士でも同じ船に乗り合わせて嵐に遭えば助け合うものだ」
「ふん」オニールは蔑んだような表情で鼻を鳴らした。「中国人は礼儀を知る民族と聞いていたが、私の勘違いだったようだ。これを機に新しい友情を築けると思っていたが、残念だ」
「それも相手によってのこと」
 上院議員の脇で発言の機会を待っていた丸眼鏡の男が口を開いた。「敬愛すべき上院議員に向かって何という失礼であろう」
 男は髪の毛をぴっちりと撫で付けていて、税務署で申告書類に文句を付けて突き返すタイプの税務官僚のような口振りだった。
「私としても合衆国の同じ市民として助け合っていきたいと思っていたのですがな」オニールは頬に皮肉っぽい笑みを浮かべながら言った。
「君子之交淡如水、小人之交甜如蜜」
「何と言ったんだ」と、税務官僚が呆けた表情で訊いた。
「立派な人物は、あっさりしていてけじめがある付き合いをするが、つまらない人物は、べたべたと甘い付き合いをする。熱が冷めればお互いに背きやすい、という意味の中国の格言です」
「失礼な。それが上院議員に対する言葉か」
 税務官僚は気色ばみ、オニール上院議員はそれを制した。
「ご老体。意気盛んで結構ですな。私もあなたの同胞の言葉を一つ知っている。黒でも白でも、ネズミを捕るのは良い猫だ。これは鄧小平の台詞でしたな。役に立つならどんな猫でも利用するべきだ。違いますかな」
 中国人の間でざわめきが起こった。
「何にせよ、ミスター・リーが亡くなったのは悲しむべきことだ。お悔やみを言っておく」
 上院議員は葬儀の参列者をじっと見回して、棺に対して一瞥をくれると、ボディガードを引き連れて丘を降りていった。彼らを乗せてリムジンはゆっくりと走り出し、やがて視界から消えていった。
 彼らの行方を見守っていた王老人は精根尽きたようにがっくりと肩をうなだれて杖に寄りかかり、近くの参列者に支えられた。老人を支えたのは、黒髪が美しい背の高い女性だった。彼女は老人を抱くように列の中に戻っていった。
 やがて葬儀は再開された。親族の弔辞が読み上げられ、参列者の間からすすり泣く声が聞こえてくる頃になって、墓守が棺を墓穴に降ろしていった。奇妙な葬儀だったが、ジョニーの風変わりな人生の幕を引くにはちょうど良かったのかも知れなかった。
 棺に土が被せられていくのを見守りながら、私はジョニーに告げる別れの言葉を探していた。so long、farewell、good-bye、そしてsayonara。英語には別れを告げるのに適した言葉がいくつもある。けれども、人生で二度も爆弾に噴き飛ばされ、一度目の爆発では将来の夢を失い、二度目には命まで失った友に対しては何と言って別れを告げれば良いのか私には思いつかなかった。

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