■最後のさよなら■ 第24回 | KOZミステリーの部屋

■最後のさよなら■ 第24回

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 老人の容態が悪化して家の中が騒々しくなる中、私は入り口近くの床に座らされ、リッカルドに銃を突きつけられていた。リッカルドは、今までに嗅いだことがないほどひどい臭いの煙草を吸い、煙を私に吐きかけた。私は顔を背け、黙って座っていた。
 しばらくすると、寝起きの虎のように機嫌が悪いクラーク捜査官がドアをバタンと開けて入ってきた。「おい、リッカルド。いったい何なんだ。俺は忙しいんだ」
「分かってますって。ロッソさんからの連絡事項だ。この男を連れていって、写真を持ってこいとさ」
「チッ」クラークはいまいましそうに舌を鳴らした。「俺をなんだと思っているんだ。使い走りみたいに扱いやがって」
 周りを見回し、リッカルドが耳打ちした。「そう怒りなさんな。あの方も長いことはないんだ。あんたのお役目はもうしばらくさ」
 不機嫌そうな顔のまま、クラークは私を小突いて立たせ、建物を出て目の前に停めてあるアコードに乗るよう促した。私は後ろの座席に座り、隣にリッカルドが座った。腰の低い位置に拳銃を構え、銃口を私に向けていた。
「おい、安全装置をはめとけよ。車の中でぶっ放したりするな」運転席に座り、エンジンをかけながら振り向いてクラークが怒鳴った。
「分かってますよ」リッカルドは薄笑いを浮かべていた。
 銃を納める気はないようだった。私はなるべく銃口の向きから離れる場所に座った。
「写真はどこに隠したんだ」クラークが私を睨み付けた。
「五番街の五十七丁目だ」と、私は言った。
「ティファニーで買い物でもする気か」クラークがバックミラー越しに私を見た。
 当てがあったわけではなかった。思いついた住所を言ったまでだった。五番街のようなこの街で一番人出が多いところなら、連中も銃を振り回すことはできないだろうと思ったのだ。
 クラークは終始不機嫌そうな顔で車を運転して、ブルックリン・ブリッジを渡ってマンハッタンに入った。リッカルドは下手くそな口笛を吹き出し、クラークがいまいましそうに舌打ちをした。
「おい、そろそろ銃を隠せ。市警の連中が出張っている」
「おっと」リッカルドは私に向けた銃を派手なデザインのジャンパーの内側に入れ、私には銃を向けていることを誇示するように手を動かした。
 しばらくすると、リッカルドの携帯電話が鳴った。銃口を私に向けたまま通話ボタンを押し、話し出した。時折、顔色が変わり、私を何度も睨み付けた。
「はい。分かりました。ご命令通りにします。はい」電話を切り、リッカルドは携帯電話を持った手で私の頬を殴った。
「誰からだ」
「モレッティさんからだ。写真の件はもういいとさ。こいつは持ってねぇようだ。モレッティさんが処分するとさ」
「どういうことだ」唇の血を拭いながら私は言った。
 背中を冷たい汗が落ちていった。
「お前はもう用無しってことさ」リッカルドは銃を取り出し、私に向けた。
「馬鹿野郎、何やってるんだ。銃をしまえ。ここはマンハッタンのど真ん中だぞ。昨日の今日で、何人の警官が出てると思ってるんだ」
 リッカルドは舌打ちして銃をまたジャンパーの内側にしまった。
「ふざけた野郎だぜ」
「どうしたんだ」
「こいつはハナから写真なんて持ってなかったとさ」
「なぜ分かった」クラークが横目で私を見やった。
「ジャックの奴が回収したとさ。今の電話はそれを知らせてきた」
「それで?」
「だから、言ってるだろ。こいつは用無しだってな」リッカルドが金切り声をあげた。
「おい、俺をおかしなことに巻き込むな。これ以上は御免だ」
「何言ってやがる。ロッソさんに借りはまだ返してないんだろ。押収したヤクをくすねちまったのを揉み消してもらった・・・」
「黙れ」クラークが怒鳴った。「いらんことをしゃべるな」
「かまわねぇさ。こいつはもうじき何もしゃべれなくなるんだ」
「やるならお前が勝手にやれ。俺は知らん」
「チッ、意気地なしめ」リッカルドが舌打ちをした。「このままブロンクスに向かってくれ」
「ブロンクス?」クラークが振りかえった。「何をする気だ」
「俺のヤサがあるんだ。そこで始末する」
 クラークは何も言わず、頷いた。
 私は早急に次の手を考える必要に迫られていた。だが、次の手など、一体どこにあるのだ。
 車はイーストヴィレッジを抜け、北に向かっていた。アコードは信号の度に捕まった。ミッドタウンを移動するのに自動車ほど不便な手段は無い。多くの道路は一方通行で、おまけにいつも渋滞している。しかも、市長と上院議員の狙撃事件で警察の検問は厳しくなっているはずだった。中心部なら安全だ。しかし、マンハッタン島の北にあるブロンクスに向かうのに、高速道路に乗られたらお終いだった。市街地ならまだチャンスはある。私はそこに賭けた。
 アコードはパーク街を北に上がり、五十丁目辺りで再び赤信号で停まった。
 リッカルドがひどい臭いの煙草に火をつけ、カタカタと足を動かし、貧乏揺すりを始めていた。
「おい、車の中でその煙草を吸うな」クラークが怒鳴った。
「うるせぇなあ」リッカルドは煙を天井に向けて吐いた。
「煙草の臭いが車に染みつく。とっとと捨てろ」
 再びチッと舌打ちをして、窓を開けた「分かったよ。捨てりゃあいいんだろ、捨てりゃあ」
 煙草を手に取り、身体をひねって窓から捨てたその瞬間。私は反対側のドアを開け、車道に飛び出した。パーク街の広い通りのど真ん中に私は落ちた。
「てめぇ」
 リッカルドが追いかけるべきか迷っているうちに、信号が青に変わり、後続車がクラクションをけたたましく鳴らした。クラークは車を発進させざるを得なくなった。
 私は後ろから迫ってくる車に轢かれないように身体をねじりながら、五番街の方に渡った、そのまま駆け出して五十丁目の細い通りを走り、買い物客が抱えているサックスやカルティエの大きな紙袋にぶつかりそうになってよろけながら、後ろからアコードが迫って来ないか何度も振り返った。そのままマジソン街を渡ると右手に大きなゴシック様式の尖塔が見えてきた。アイルランドの守護聖人である聖パトリックをまつったカソリック教会だった。
 ここに逃げ込んだとは、彼らも思わないだろう。私は石段に腰掛けて写真を撮影している日本人の集団を避けながら、大聖堂の重い木の扉を押して中に入った。教会の中は、ステンドグラスを通して入ってくる外光と、正面の祭壇と壁に沿って並べられた燭台でちらついているロウソクしか灯りは無く、人工の光源は全く無かった。昼間でも薄暗いこの中では数メートル先の人の顔も見分けることは難しかった。逃げ込むには格好の場所だったのだ。
 それにいくら気が立った連中でも、ここでは派手なことはできないはずだ。何しろここは彼らの神様が見下ろしている場所なのだから。信心深いカソリックが多いイタリア人なら、教会の中で銃を抜くこともないだろう。私はそう考えた。
 正面の演台では神父がマイクを通して説教をしていた。私は人影のほとんどない木製のベンチに座り、頭を垂れて顔を隠し、祈るふりをしながら荒れた息を整えた。だが、ふりの祈りは神様には通じなかった。そもそも神様はキリスト教徒でない私の祈りなど聞いてくれないのかも知れなかった。
「お祈りなんてしたって無駄さ」リッカルドが私のすぐ耳許で囁くように言った。「この街じゃあ、神様はいつだって休暇中だ」
 彼は腰だめに銃を向けていた。「残念だったな。ここはバチカンじゃあねぇ。マンハッタンの五番街だ。神様はさっきトランプタワーで茶を飲んでたぜ」
 ベンチの反対側からはビル・クラークがジャケットの内ポケットに右手を入れながら歩いてきていた。私は二人に挟み込まれてしまった。最悪の状況だった。
 リッカルドが私の腰骨の上にゴツゴツしたものを突き当てた。「世話ぁ焼かせやがって。今ここでぶち殺してやりてえところだ」
 クラークは私のすぐ隣に座った。「あんたも大したタマだな。まさかあそこで逃げ出すとは思わなかった」
 数列先に老夫婦が座っていて、老人が振り向き私たちを睨んだ。
 リッカルドは私を銃で小突いて座らせると、クラークに小さな声で言った。「面倒だ。連れ出して早く片づけようぜ」
「殺るなら、ここは駄目だ。人が多すぎる。第一、教会で殺しをしたら寝覚めが悪い」
「こいつも薄汚ねぇチャイナタウンと一緒にきれいさっぱり燃えちまえばいいんだ」
 私は耳を疑った。
「無駄口が多すぎるぞ」クラークが小さな声で言う。
「もうこいつは逃がさねぇ。大丈夫さ」
「さあ、行こう。早いところ片づけるんだ」左側に座ったリッカルドが私の腕を掴み、クラークが反対側から立ち上がらせようとした。
 そのとき、プシュプシュと二回、風船から空気が漏れるような音が背中の方から聞こえてきて、左右の男たちは声もなく崩れ落ちた。男たちの額や顎がベンチの背に当たってゴツンと鈍い音を立て、前に座った老婆が再び振り返って、シッと口元に指を当てた。
 薄暗がりの中で、二人の後頭部の髪の生え際から、黒い液体のようなものが流れているのが見えた。鉄が焼ける匂いと火薬を燃やした匂いが背後にあった。私が振り向く間もなく、その匂いは後ろのベンチから立ち上がって横の通路を通り、私と二つの死体がいるベンチの前にやってきた。黒い大きな身体が振り向いた。
「レクイエムでも歌ってやるんだな」鳩のように笑いながら、バート・キングが言った。
 彼は手袋をした手で消音器付きの拳銃を握っていた。
 バートは二人のスーツの内ポケットを探り、クラークのポケットからFBIのバッジを取り出してじっと眺めると、面白くもなさそうにフンと鼻を鳴らして自分のポケットに落とし込み、その上から拳銃もしまい込んだ。
 次に、男たちの死体を無造作に起こして両手をベンチの背の上に組ませ、頭を乗せた。暗い教会の中では、二人は居眠りをしているか、お祈りをしているように見えた。頭から血が滴っていたが、この暗さでは誰も気にする者はいないだろう。
 作業が終わると、バートは私に視線を向けた。
「さて、椅子を跨いでこっちに来たらどうだ。いつまで死体と一緒にいる気だね」
 私は彼が常に色の濃いサングラスをかけている理由を知った。彼の左目は透き通ったビー球のような義眼で、黒目の部分に精巧な虹彩の模様が描かれていた。さすがにこの暗さではサングラスを外さざるを得なかった。ロウソクの灯りがガラスの目に反射していた。
「なんで、君が・・・」
「ハーレムで一度助けてもらったからな。その借りを返しただけだ」
「市長を狙撃したのも君なのか」
 バートは暗がりの中で私に顔を近づけ、ガラスの目を見開いた。
「この目で遠方から照準を合わせられると思うかね。俺は狙撃は苦手なんだ。あんたはサラエボに行ったと聞いたが、あそこでは何も学ばなかったようだな」
「それじゃあ・・・誰が」
「テロというのは、時として加害者ではなく、被害者の方に利益がある場合がある」
「どういうことだ」
「被害者は加害者に報復をしてもたいていの場合は目をつぶってくれる。それに被害者を装えば、世間の同情が引ける。政治家にとっては格好の宣伝の道具だ。市庁舎では、誰も死ななかったはずだ」
「まさか、連中自身が・・・」
「しゃべりすぎだな」そう言って、バートは立ち上がった。
「待てよ」私は言った。「その目はいったいどこで・・・」
 バートは虚をつかれたように私を見つめた。「くだらんことを思い出させる」
 しばらく考え込むような素振りを見せた。その間、彼の左目は一度も瞬かなかった。「クウェートだ。湾岸戦争の直前だった。馬鹿な整備兵のおかげでこのざまだ」
「それで除隊したのか?」
「見えない目で、照準は合わせられない」
「そうか」
「あんたと話していると、調子が狂うな。風邪でも引いたか」そう言うと、バートは立ち上がって通路に向かい、後ろの出口に向かって歩き出した。
 私は左右の死体を倒さないようにベンチの背を跨いだ。狭い通路に出ようとして、神父の説教を聞き終えて帰ろうとしている老夫婦に通路を阻まれた。
 二人を追い越そうとしたが、老人が足をよろめかせてつまづき、杖を落としてしまった。
「すみません」
 私は杖を拾って、老人を助け起こした。
 顔を上げた時にはバートの姿はどこにも見えなくなっていた。


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