■最後のさよなら■ 第29回 | KOZミステリーの部屋

■最後のさよなら■ 第29回


*********************************************************************************************** 2000年 マンハッタン・春

<27>


 

 空港のカウンターでニューヨークまでの直行便の席を確保し、搭乗前に売店で買い込んだバーボンのミニボトル五本を機内で飲み干し、酔っぱらったままJFK空港に到着すると、搭乗ゲート脇に吊されていたテレビがニュース速報を流していた。ゲート付近で搭乗のアナウンスを待っていた旅行客たちが興奮した口調で誰彼かまわず捕まえて議論を戦わせていた。
 予備選の投票結果の集計値が出て、共和党のスーパーチューズデイはライアン・オニール上院議員がほとんどの州で勝利を収めたことが明らかになったのだ。同党のキンボール・マクミラン下院院内総務は早々と敗北宣言を出し、オニール議員の唯一の対抗馬となったスタイン・カリフォルニア州知事を支持することを表明していた。CNNのニュースキャスターが、これでオニール上院議員と民主党のジェフリー・ゴードン副大統領の争いになる公算が大きくなったとコメントしていた。
 オニールの蛇のような笑いを思い出し、私は胃の辺りに鉛のような重苦しい塊が投げ込まれたような気がした。
 寒風がビュービューと吹きすさぶJFKのロータリーでイエローキャブを待つ長い列に並ぶと、ボストンから来たという裕福そうな老夫婦が話しかけてきて、オニール議員はいかに勇気があって素晴らしい人物であり、彼が大統領になればアメリカは幸せになるに違いないという五つの理由を延々と語り出した。私は吐き気がしてきて口元を押さえると、彼らは不思議そうな顔で私を見ていた。タクシーに乗ってからはパキスタン人の運転手がターバンを巻いた頭を左右に振って共和党批判をまくしたてたので、今度は頭痛がしてきた。ズキズキする頭とムカムカする胃を抱えながら、彼がなぜオニール議員を支持しないかという十の理由のうち七つまでを聞かされたところで意識を失った。
 次に意識がはっきりした時、私はアパートのベッドでうなされていた。タクシーを降りて、部屋にどうやって戻ったのか、どうやってベッドに潜り込んだのかは全く覚えていなかった。頭痛と吐き気が好き勝手に指揮棒を振り回しており、頭の上でオーケストラが滅茶苦茶な演奏を始めていた。熱を計ると華氏で百度を優に超えていた。摂氏に換算すると何度になるのだろうと考えているうちに頭痛がひどくなり、私はアスピリンを三粒飲み込んでベッドに倒れ込み、再び意識を失った。


 サンフランシスコから戻って三日後、私はベッドから起き出した。髭を剃って、熱いシャワーを浴び、清潔なシャツに着替えると人間に戻ったような気がした。パスタを茹で、ガーリックと唐辛子と一緒にオリーブオイルで合わせ、冷蔵庫に残っていた野菜を炒めて塩胡椒で味付けをして皿に盛り、ちょっと酸化した赤ワインとともに胃の中に収めてしまうと、まだ人生も捨てたモノではないと信じ込めるようになっていた。あと必要だったのはすべてを消し去ってくれるほど苦い一杯のエスプレッソだったが、あいにくコーヒー豆は切らしていた。
 次に辺りを見回して、荒れ果てたままになっていた部屋を片づけた。クリーニングサービスはキッチンの片づけやシーツの交換、床の掃除とゴミ出しはしてくれていたが、出しっぱなしの荷物は部屋の隅に積んだままだった。雑誌類を本棚に戻し、窓を開けて空気を入れ換えると、冷えた空気の中に何か別の匂いを嗅いだような気がした。それは暖かく香しい匂いだった。
 楊老人に宛てて、無事にニューヨークに到着したことを知らせる手紙を書いて無地の封筒に入れ、いくつかの荷物と一緒に紙袋に入れて包装し、フェデラルエクスプレスのオフィスに持っていって発送した。そして郵便局に赴き、ジョニーが隠し撮りして、サニャが現像してくれたオニール上院議員とバリゴッツィが写った写真を無地の封筒に入れ、署名をしないままニューヨーク・タイムズの住所を書いて送った。
 帰り道にコーヒー豆とベーグルを買い込んで店を出た時、歩道の雪がすっかり無くなっていることに気がついた。日陰には崩れかけた雪ダルマが黒く汚れた塊になって忘れられたまま残っていて、生ゴミの袋が積み上げられたりしていたが、冬はそろそろ退却の準備に入っていた。誰かが言ったように、終わらない冬はないのだ。
 アパートの階段を上がり、相変わらず廊下で煙草を吸っている男か女か分からない隣人を横目で見ながら、ドアを開けると電話が鳴っていた。
 ルイス警部からだった。
「ジャンニ・ロッソが死んだよ」開口一番、彼はそう言った。悲しんでも、喜んでもいない声だった。
「殺されたんですか?」
 私は干涸らびたトマトのようになりながら細く延ばした命の火を燃やしていた老人の倦みきった表情を思い出した。
「いや、老衰だ。ファミリーのお抱えドクターを医師法違反でしょっぴいた。保護して欲しいと出頭してきたよ。無免許だったんだ。呆れたもんだ。嘘はついてないだろう。息子のマリオ・ロッソが殺されて、ジャンニも死んだ。ロッソ・ファミリーは解体だ。ロッソの縄張りはほかのファミリーがすぐに食い尽くすだろう」
「ほかの手下や幹部がいると思いますが」
「モレッティを始め、ファミリーの幹部はほとんど死んじまった。サンフランシスコで爆発に巻き込まれたんだそうだ。連中は旅行中だったとさ。フィッシャーマンズワーフにカニでも食いに行ってたんだろう。ドンが死にかけてるのにいい気なもんだ」
 私はゴクリと息を呑んだ。「事故・・・だったんですか」
 ルイス警部は私を諭すように言った。「いいかね、日本人。この世の中には、知っていてもよいことと、知っていても知らない振りをしている方がよいことの二つしかないんだ。現場はサンフランシスコのチャイナタウンの料理店で、爆発の後に黒人の大男と、アジア系のチビ助が店から出てきたのを野次馬が見ている。面白いとは思わんかね。まあ、俺にしてみれば管轄違いだがね」
 私の心臓はバクバクと高鳴った。
「ところで、あんたはここのところ出かけていたみたいだな。アパートに寄ったが留守だった。俺は、何か知ってることがあったら電話しろと言ったぜ。街を出る時にも電話をしろと言ったはずだ。旅行かね」
「すみませんでした。寒さのせいでひどい風邪を引いていて、声が出なくなっていた。電話にも出れなかった。南の島にでも静養に行けばよかった」
 私の答えにルイス警部は黙りこくった。沈黙の向こう側で、いつものように第六分署の騒々しい音が聞こえていた。
 やがて、大きなため息が聞こえてきた。
「まあいい」と、ルイス警部は言った。「俺の望みはこの街で戦争を始めてもらいたくないということだけだ。いいな、日本人。長生きをしたければ大人の言うことをちゃんと聞くもんだ」
「分かります」と、私は言った。
「この国に本当に正義があるかどうかなんて俺は知らない。時にはひどいことも起きているさ。いいかね。人間はいつだって正しいことをしているわけじゃあないんだ。ここだけの話、警察だって間違ったことをすることもある。だが、市民が普通にメシを食って、普通に街を歩いて、普通に恋をすることができるようにするのが、俺の使命なんだ」
「分かりますよ、警部」
「この件はFBIが興味を持っている」
 私は何と答えるべきか、言葉を失った。
「FBIといえば、今朝のニューヨーク・タイムズは読んだかね」
「いいえ。今朝はまだ」と、私は言った。
「チャイナタウンの大火と同じ日に五番街の聖パトリック大聖堂で射殺された捜査官がいたのを覚えているかね」
 私は彼が何を言おうとしているのか分からなかった。私は三秒ほど考えながらゆっくりと言った。「覚えていますよ、警部」
「その捜査官と一緒に殺されていたのがロッソ・ファミリーとつながりがあるチンピラだった。こいつは捜査上の秘密だったが、今朝の新聞で、その捜査官がファミリーに情報を漏らしていたことが内偵の結果分かった、とすっぱ抜かれているよ」
「どうして分かったんですか?」
「彼の銀行口座に多額の預金があったんだな。小切手の振り出し元がロッソに関係のある企業だったことから、彼が捜査データベースにアクセスしていることが発覚したらしい」
「それをニューヨーク・タイムズが掴んだんですね。どうやったんだろう」
「君はジャーナリスト失格だな」ルイス警部が笑った。「そいつがスクープってもんだ。違うかね」
「その通りです」私は苦笑した。
「どこから嗅ぎつけたのか知らんが、今FBIのニューヨーク支局はてんやわんやだ」
「そうですか」
「あんたも余計なことには首を突っ込まんことだ」
「なぜ、ぼくにそんな話をしてくれるんですか」
 ルイス警部は小さく息を吐いた。「なに、理由は無いさ。ただの雑談だ。あんたは日本人なのに、この街の住民の何人かを助けてくれたからな。いいかね、日本人。森の中の住人には森の大きさは見えんものだ。あんたは外国人のジャーナリストだ。この国で何が起きているのかを記録するのもあんた方ジャーナリストって奴の務めなんじゃあないのかね」
「分かりました」私は頷いた。
「結局あんたからは一度も電話してこなかったな」電話の向こうで、ルイス警部は欠伸をしていた。
「恥ずかしがり屋なんです」
「だから、日本人てやつは・・・」そう言いかけて、ルイス警部は言葉を切った。「まあ、いい。今日は徹夜明けなんだ。疲れたよ。ビールでも飲んで寝るとするさ」
「今度、非番の時に電話します」と、私は言った。「うまいビールをご馳走します。賄賂じゃあない」
「なめるなよ、日本人」声が笑っていた。




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