■最後のさよなら■ 第21回 | KOZミステリーの部屋

■最後のさよなら■ 第21回

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 翌日はみぞれのような冷たい雨が降った。冬の雨は雪よりも始末に負えない。
 私は紺色のスーツにエンジ色のネクタイを締め、爪先の革が剥げたプレーントウを履き、レインコートを着込んだ。冠婚葬祭に出かけても恥ずかしくない格好だ。約束の二時まではかっきり一時間あったが、この雨ではイエローキャブをつかまえるのが難しいかも知れず、早めに出ることにした。サニャとは二時十分前にウォルドルフ・アストリアのロビーで待ち合わせることになっていた。
 手袋を探し出して、部屋を出ようとした瞬間、誰かがドアをノックした。ドアの覗き穴から見ると、ニューヨーク市警のルイス警部とスミス刑事が立っていた。ルイス警部は黒いフェルトのソフト帽をかぶっていてひどく不機嫌そうな顔をしていたので、私は居留守を決め込もうかと思ったが、何度もドアを叩かれ、根負けして応対することに決めた。あまり放っておくと、隣人にまた文句を言われかねなかったからだ。
 努めて笑顔を浮かべながら、ドアを開けたが、私の努力は実を結ばなかった。ルイス警部は太めの腹を揺すりながら、むすっとした表情のまま部屋に入ってきた。スミス刑事は新米の警察官のように警部の後についてきた。
「どうしたんです? そろそろ出かけるところなんですがね」
「何の用かね。こんな天気の日にパーティでもあるのか」ギョロッとした目で私の格好を見て、ルイス警部は言った。
「ご機嫌斜めみたいですね。天気のせいですか」
「なめた口をきいているんじゃないぞ、日本人」
 ルイス警部はフェルト帽を取り、パタパタとはたいた。板敷きの床で水滴が玉になった。
 どうやら本当に怒っているようだった。
「何かあったんですか。あと十分で出かけないと間に合わない。あまり時間が無いんだ」
「知っていることを全部話せと言ったはずだ」
「だから何の話ですか?」
 訳が分からなかった。
「FBIから依頼があったよ。あんたが何をしようとしているか、調べてほしいとな」
「FBI?」
 ジョニーが死んだ日にやってきた捜査官だろうか。
「そうだ。FBIがあんたに興味を持っている。極秘で調べて欲しいと言ってきた」
「極秘?」
 私の部屋を訪ねてきて、どこが極秘の調査なのだろう。第一、私が何をしたというのだ。
「俺はFBIのやり方は好かん。それに、あんたが何かをしでかそうとしているとは思っていないんだ。だからこうしてやってきた。だが、何かを隠しているんじゃあないかとは思っている。あんた、何を隠しているんだ」
「何の話か分からない。警部と会ってから、友人と酒を飲みに行ったし、女性とも食事をした。それが法律に触れるとは思えない」
 どうやら、誰も彼もが私が何か素敵なモノを隠しているに違いないと思っているようだった。おそらく私は自分が知らないようなとてつもない財宝を隠しているのだ。誰もが探していて見つからないもの、きっとそれほど素晴らしいものに違いなかった。私はため息をつき、ろくでもないことを考えるのは止めにした。
 ルイス警部は散らかったままの部屋を見回していた。そしてテーブルに置いてあったプレイボーイを取り上げ、ペラペラをめくると、パンパンと叩いて、コーヒーテーブルの上に放った。
「最近、リトルイタリーにはいつ行った?」
「リトルイタリー?」私は首を傾げた。「ニューヨークに来てからはまだ一度も行っていませんね。イタリア料理は好物だが、食うなと言うなら少しは節制してもいい。毎日食べてるピザを三日に一度に減らしても構わない。ジェラートを食べるのも止めよう。あなたが、ちゃんと理由を教えてくれるならですが」
 ルイス警部は私の言うことなど聞いていないようだった。
「いいかね。今後この街で中国人とイタリア人には一切関わるな。この街にまだいるつもりなら、俺の言うことを聞くことだ」
 中国人というのは王老人や梅鈴たちのことだろうか。だが、イタリア人というのはいったい何のことだ。警部は何かを誤解しているに違いなかった。
 私は腕時計に目をやった。一時二十分になっていた。
「ウォルドルフ・アストリアまで行かなければならない。もう行ってもいいですか?」
「まあいいだろう。こっちも捜査がある。こんな天気なのに、次はハーレムまで行かにゃならん」
「どうせ車で移動するなら、ホテルまで連れていってくれませんか? 美人と待ち合わせなんです」
 嘘ではないが私はますます彼らの心証を悪くしたようだった。ルイス警部とスミス刑事はじろりと私を睨むと部屋から出ていった。
 二人が部屋を出てから、かっきり二分だけ待って、私は部屋を出た。ドアの鍵を閉めていると、隣人がドアをペーパーバックほどの隙間を開けて、私に声をかけた。
「あんた、いったい何をしたの。いい加減にしてちょうだい」彼女はこれから勤めに出るところだったのか、濃いマスカラをしていたが、無精髭が伸びたままだった。
「すまなかった。これから大統領と会食なんだ。髭を剃っていたところだ」
 私がそう言うと、彼女はバタンとドアを閉めた。どうやら私は頭がイカレているとでも思っているらしかった。
 警官をからかって喜んでいるのだ。確かにイカレていたのかも知れなかった。


 イエローキャブはアパートの前ですぐに捕まったが、雨のせいで道が渋滞しており、パーク街とレキシントン街という二つの大通りに挟まれたウォルドルフ・アストリアに到着した時には、一時五十分をとうに過ぎていた。私はホテルの中のエスカレーターを駆け上り、ロビーで大きなカメラバッグを肩から提げ、当惑した表情で立っているサニャの手を掴むと、そのままエレベーターホールに向かい、上りボタンを押した。
 ほかの客と一緒にエレベーターに乗り込むと、サニャが私の耳許で囁いた。「どうしたの、遅かったわね。そんなに息を切らせて大丈夫?」
 私は深呼吸をしながら笑いかけた。「大丈夫だ。でも未来の大統領になるかも知れない人物だ。敬意は払わないとね。ホワイトハウスに招待してもらえなくなる」
 私がそう言うと、サニャではなく、エレベーターに乗っていたほかの客がひそひそと話し始めた。私はまた余計なことを言ったようだった。
 額の汗を拭い、コートを脱いでいると、サニャが私の首元に手をやり、曲がったネクタイを直してくれた。これで戦闘態勢は整った。私は大きく息を吸った。
 指定された部屋がある階はすべてスイートばかりのようで、ドアの数が極端に少なかった。正確に二時ちょうど、私はドアをノックした。
 ドアを開けたのは黒いスーツにサングラスをかけた軍人のような体格の男だった。ジョニーの葬儀の時にも上院議員の横についていた男かも知れなかったが、彼らはみんな似たように見えるため区別はつけられなかった。
 男は無言で私とサニャを部屋に入れると、ドアのすぐ内側の廊下で制止し、荷物を渡すように言った。男のすぐ後ろには、もう一人、同じような体格の男が腰に手を当てて立っていて、私たちを無表情にじっと見つめていた。
 私は男に鞄を渡し、ペンとノートしか入っていないことを改めさせた。それから上着と靴を脱がされ、金属探知器で全身くまなく調べられた。財布は中身をクレジットカード一枚ごとに調べられ、コイン入れの小銭まで確認された。私は自分が丸裸にされたような気がしてきた。
 続いてサニャの顔を見て、男は困ったような表情を浮かべた。私は写真を撮影するのが女性とは伝えていなかったのだ。しかし、すぐに元の無表情に戻り、彼女が持ってきた鞄の中身をひっくり返して、カメラだけでなく、フィルムを一本ずつ改めていった。彼女の身体に手を触れることはしなかったが、代わりにやりすぎと思えるくらい、彼女の身体の隅々まで金属探知器で調べ回した。サニャはじっと立ったまま、拳を握りしめ、下唇を噛んでいた。
 身体検査は十分以上かかった。ようやく満足したのか、男は無言のまま私たちをスイートのリビングに連れていった。ニューヨークのホテルにしては天井が高く、中央からシャンデリアが下がっていて、ロココ調の家具が置かれていた。続き部屋の寝室の扉は閉ざされていて、リビングには、数人がいた。ボディガードと思しき男たちが四人、リビングの四隅に立っていた。私たちを身体検査した男と、それを見守っていた男を入れると六人。バーカウンターのストゥールには丸眼鏡をかけた小柄な男が腰掛けていた。頭をぺったりと撫で付け、細身のアタッシェケースを大切そうに抱えていた。会計簿をチェックしている税理士のような雰囲気の男だった。税理士から一歩離れてバーカウンターにもたれかかっている背の高い女性がいた。眼鏡をかけて、髪を後ろにまとめ、真っ赤なスーツを着ていた。化粧っけが無いのが妙に違和感を感じさせた。彼女は近づいてきて、秘書のアン・オコナーだと自己紹介した。
 私は彼女の顔を見つめた。機械ではなかったのだ。
 部屋の中央には過度に装飾を施したソファが置かれ、私たちに背を向けて男が一人座っており、その横にもう一人男が座っていた。
「上院議員」
 真っ赤なスーツのオコナー女史が口を開くと、私たちに背を向けていた男が肩越しに振り返って私の顔を見た。男はソファから立ち上がると、満面に笑みを浮かべて近づいてきた。ライアン・オニールその人だった。「やあ、よく来てくれたね」
 上院議員は大仰な身振りで両手を広げ、私の両肩をパンパンと叩き、自ら握手を求め、私の手を堅く握りしめた。ぬめっとした感触の大きな手だった。そのまま抱きつかれるのではないかと身構えたが、彼はそうはしなかった。顔は笑っていたが、目は決して笑っていなかった。政治家になるために生まれたような人物だった。
 オニール議員は私の後ろに隠れるように立っていたサニャに気が付くと、今度は作り物ではない笑顔を浮かべた。「これはこれは、素敵なレディだ。あなたのような美しい女性に写真を撮られるとは光栄だ」
 上院議員は私にソファを勧め、オコナー女史に飲み物を持ってくるように頼んだ。
「紹介しよう」
 先ほどまで議員と話していた男が立ち上がり、私たちに一礼した。
「私の古くからの友人なんだ。ジャンカルロ・バリゴッツィ君だよ。彼は私の選挙参謀を務めてくれていてね、インタビューの前にちょっとした相談をしていたところなんだ」
 バリゴッツィは紺色のソフトスーツを着たがっちりとした体格の男で、鋭い目つきと大きなわし鼻を持っていた。ボディガードでも税理士でもなさそうで、強いて言えば大企業の副社長といった雰囲気だった。
「どうぞ、私のことは気にせんで続けてくれたまえ」バリゴッツィは大袈裟な身振りでソファにふんぞり返り、堅太りした脚を組んだ。
 ボディガードの男たちやオコナー女史が見つめる中、サニャは持ってきたライトのセッティングを始めた。部屋の暖房のせいで、彼女はうっすらと額に汗をかいていた。
 私はライアン・オニール上院議員の向かいに座り、メモ用紙を準備した。彼の要求でインタビューの録音は禁じられていたため、彼の言葉のメモを取らなければならなかったのだ。
 私は用意していた質問を未来の大統領になるかも知れない男に投げかけた。
 彼は、なぜアメリカが強くなくてはならないのか、アメリカが強いことで世界はどう変わっていくのかという自説を滔々と語った。時に大きな身振りで、時にジョークを交え、彼は決して魅力的な笑顔を絶やさずに私の質問に答えていた。
 立て板に水という奴だ。分厚い想定問答集が用意されていて、どんなに鋭い質問を投げかけられても当たり障りなく応えられる術を彼らは身につけているのだ。
 つやつやした毛足のグレーのスーツに青と緑のレジメンタルタイを結び、堂々と語りかけるその姿は、八割方は演技が混じっていたとしても、十分に彼の支持者を満足させるものだった。伊達に上院議員を何年も務めてきたわけではない。支持者だけでなく、犬や猫でも彼の演説に参ってしまいそうだった。
 サニャがシャッターを押す度にフラッシュがたかれ、オニール議員はにっこりと微笑んだ。まるでマネキンに話しかけているみたいだ。私はそう思った。彼は何を語るべきかを知っていた。しかし、それはまるでロボットが人間の問いかけに正確に反応しているのと変わりはなかった。
 インタビューを始めて、二十分ほどが経った頃だろうか。バリゴッツィが上院議員に目配せをして、両手をパンと叩き合わせた。「さて、インタビューはこれでお終いだ」
 オニール議員はソファ越しにオコナー女史とボディガードの方を振り向いて言った。「君たちは少し外していてくれないか。私は彼と話したいことがあるんだ」
 私とサニャが当惑して、対応できずにいる間に、ボディガードの男たちとオコナー女史、カウンターでちびちびとグラスに口を付けていた小男は最初から心得ていたように部屋を出ていった。隣のソファに座っているバリゴッツィだけがニヤニヤしながら、私たちの当惑した表情を眺めていた。
「上院議員、いったいどういうことですか」私は彼に問いかけた。
「オコナー君は、インタビューを受けるのは三十分だけだと話したと思うがね」今まで、人形のように私の質問に答えていた男は突然、狡賢なキツネに変わったようだった。まるで元の人間に戻るのが嬉しくてたまらないと言うような笑みを口元に浮かべていた。
 テーブルの端に置かれていた葉巻入れを開けて、口を切っていない真新しい葉巻を取り出し、葉巻切りを使って端を切り取った。バリゴッツィが金色のライターを取り出し、火を点けるのを助けた。
「それで君たちの目的は何なんだね」オニール上院議員は、葉巻の煙を肺いっぱい吸い込み、大きな息とともに吐き出した。
 サニャが写真を撮るのを止め、カメラを抱くように持ったまま、私の隣に座った。彼女の鼓動が聞こえてきそうな距離だった。
「何のことですか」私は用心しながら口を開いた。
「とぼけなくていい。本当はインタビューにかこつけて、私と話をしようということだったのだろう。ボディガードと秘書は外させた。バリゴッツィ君には残ってもらったがね。話を聞こうじゃないか」
 私は長い間、疑問に思っていたことを口にした。「ジョニー・リーとはどのような関係だったんですか」
「ジョニー?」
「あなたは彼の葬儀に来ましたね」
 上院議員は狡猾そうな光を目の端に浮かべ、口元に薄い笑いを浮かべた。「そうか。君は彼の知り合いだったか」
「友人でした。サラエボで彼と知り合った。ここにいるサニャはサラエボで生まれ育ちました」
「ほう、それはそれは」
 彼の頭の中で猛烈な勢いで何かが計算されているようだった。どう答えるべきかをシミュレーションしているのだ。
「いろいろ大変な想いをされたみたいだね」値踏みをするようにサニャのことを観察していた。
 続いて彼の口から出てきたのは、当たり障りのない言葉だった。「彼の父親と私は一時期、仕事をしていたことがあるのだよ。その縁で彼のことは知っていてね」
「彼の死の原因をご存じなのではありませんか」
「ふむう」上院議員は何かを考え込んでいるようだった。「彼は自動車事故で亡くなったと聞いているがね。そうじゃなかったのかね」
「分かりません。でも少なくとも普通の事故じゃないと、ぼくは思っています」
「なるほど。私に何ができるか分からないが、できる限りの支援をしよう。それでいいかね」彼は支持者に見せる笑顔を私に向けた。
私は何も言えなかった。こんな時は何を言えばいいのだろう。感激して、彼の手を握りしめればよいのだろうか。
 やがて、バリゴッツィが身を乗り出した。「上院議員、そろそろ時間です」
 上院議員の表情が元の人形のそれに戻った瞬間だった。腕の時計にちらりと目をやると、スーツの乱れを直し、すくっと立ち上がった。「さて、諸君。実に有意義な時間だった。すまないが、私はバリゴッツィ君と一緒に出かけなければならん。これから市長と約束があるんだ。記者会見を行わなければならん」
 私とサニャもつられて立ち上がった。
 上院議員は私に手を差し出し、力を入れて握りしめた。サニャの手を握った時、彼の目には奇妙な光が浮かんでいた。「いつかまた、ゆっくりと話ができるのを楽しみにしているよ」と、言った。
 私とサニャを残し、バリゴッツィとともに部屋から出ていく後ろ姿を見ながら、私は背中に汗をかいていることに気が付いた。
 私のスーツの肘の辺りをサニャは堅く掴んでいたのに気が付いたのは、彼らが部屋からいなくなってしばらくしてからだった。
「ごめんなさい。」サニャが謝った。
「なぜ君が謝るんだ」
「分からないわ」サニャは頭を振った。「でもなぜだか怖かったの」
 サニャは震えていた。ライオンに睨まれ、すくんで走れなくなった牝鹿のようだった。
 それは私も同じだった。私自身が震えていることに気が付いたのは、それからさらに時間が経ってからだった。


 私たちはカメラやスポットライトなど撮影用の機材を片づけ、誰もいなくなったスイートルームを出た。
 ホテルのロビーに降りて、私は封筒に入れて持ってきていたジョニーのネガフィルムを彼女に渡した。
「これは?」サニャが封筒を明かりに透かした。
「ジョニーがカメラの中に隠していた写真のフィルムだ。何が写っているのか分からない。でも、見たところ人物を撮影した写真みたいだ。彼はこの写真を持っていたことで殺されたのかも知れない」
 サニャは緊張した面持ちで私を見つめた。
「何が写っているのか知りたいんだ。街のラボで現像してもらわうのは気が進まない。君に頼めないか?」
 考え込むような表情でサニャは俯き、やがて顔を上げて私をじっと見た。「この写真を見て、あなたはどうするつもりなの?」
「分からない」私は首を振った。「でも、ここにはジョニーが殺された真相が写っているかも知れない。彼のために何かできることがあるなら、それが何なのかぼくは知りたいんだ」
「それが彼のためにならないかも知れなくても?」と、サニャは言った。
「どういう意味だい?」
「ごめんなさい」サニャは俯いた。
「なぜ君が謝る?」
「何でもないの」そう言って、彼女は首を振った。
「君はジョニーのことで何かを知っているのか」
 彼女は押し黙り、やがて再び首を振った。「いいえ。ただ、そんな気がしただけ」
「写真に何が写っているか知っているんじゃないのか」
「いいえ」サニャが首を振る「分かったわ。それであなたの気が済むなら」
 サニャは私の手から封筒を手に取った。「現像すればいいのね?」
 私は頷いた。
「これから写真学校に行く予定だから、そこで現像してあげる。今日のインタビューの写真と一緒に渡すわ」
「ありがとう」
 カメラのバッグを肩から提げ、歩いていくサニャの背中を見ながら、なぜだか私は彼女に頼んだことを後悔し始めていた。


 雨があがったので、私は混雑した地上ではなく、地下鉄を使って帰ることにした。マンハッタンの地下鉄はいつ列車がやってくるか予想がつかず、お世辞にも車内はきれいとは言い難かったが、慣れてしまえば使いやすく便利な交通機関だった。チャイナタウン近くの駅で降りて、九龍飯店を覗いてみると「臨時休業」の札がかかっていた。
 しばらくの間、交差点の陰から店を見ていたが、店の中には何の動きもなく、私はアパートに戻ることにした。途中、ハウストン通りの南側にかたまっている絵画のギャラリーを冷やかしながら歩いていると、急に街全体が慌ただしくなり始めた。近くの通りを白と黒に塗り分けられたパトカーが何台も大きな音を立てて、走り抜けていった。パトカーはあちらこちらから集まっていて、まるでマンハッタン中の警察署から呼び出しがあったようだった。
 ギャラリーの中から店員が何人も顔を出し、不安そうな面持ちで何があったのかと噂しあっていた。私は近くに停まった車の運転手に声をかけ、何が起きたのかと訊いた。丸々とした顔の男が私を見て「撃たれた。テロだ」と口の端に泡を吹きながら怒鳴り、アクセルを踏み込んで走り去っていった。
 近くのコーヒーショップに駆け込むと、あちらこちらから集まってきた客が店の奥に吊されたテレビに釘付けになっており、店員も腕組みをして画面に見入っていた。誰もコーヒーを注文しようとはしていなかった。隙間から覗き込むと、ザーザーとノイズで荒れた画面の中でニュースキャスターの男性が緊張した面持ちで原稿を読んでいた。
「・・・シティホールの正面入り口で行われた記者会見の最中に、・・・が狙撃されました。幸いオニール上院議員とビエリ市長に怪我はありませんでしたが、石畳に跳ねた弾丸が列席していた書記官の腕に当たり、現在・・・病院で治療を受けています。繰り返します・・・本日午後、シティホールで行われた・・・」
「狙撃? テロなのか?」私は近くでテレビをじっと見入っている白人の男性に声をかけた。
 男は私の顔を見ると、急に表情を変えてじっと見つめ、何も言わずにテレビに視線を戻してしまった。ニュースキャスターが続ける。「繰り返します・・・現場近くで拳銃を持った東洋系の男が走り去る姿が目撃されたとの情報が寄せられました。現在、市警が市内全域に緊急配備体制を敷いて捜査を続けています・・・。繰り返します・・・」
 狙撃事件が起きたのはアントニオ・ビエリ市長とライアン・オニール議員の記者会見の最中だったようだ。私のインタビューが終わった直後だ。私はあの時のオニール議員の様子を思い起こしていた。
「新しい情報が入りました。ビエリ市長とともにシティホール内に避難したオニール上院議員が緊急の会見を行う模様です。会見が始まり次第、映像をお送りします」
 私の肩を誰かが掴んだ。「おい、あんた」
 白人の男が私のことを睨み付けていた。「市長たちを撃とうとしたのは東洋系の男だそうだな。あんたがそうなんじゃないのか」
「バカな・・・」取り合うのも馬鹿らしかった。
「おい」
 なおも声をかけてくる男を無視していると、男が私の肩を掴んで振り向かせようとした。
「止めてくれ」と、私は言った。
「なんだと、貴様」
 白人の男が手を振り上げようとするのを、隣にいた黒人が止めた。「いい加減にしろ。証拠も何も無いのに、他人を疑うのはよせ」
「はん、この街が腐りきってるのはこいつらのせいだ。お前もこいつらの味方なのか」
「おい、なんだって、もう一度言ってみろ」
 コーヒーショップの店内に険悪な空気が漂った。人が人を信じられなくなり、ほかの人種、民族を排斥しようとする。人類が数千年前から繰り返してきた愚かしい過ちの縮小版がここでも演じられようとしている。
「おい、見ろ」誰かが声をあげた。
 テレビの画面はいつの間にか切り替わって、オニール上院議員が大写しになっていた。「ニューヨーク市民の皆さん。そして、アメリカ国民の皆さん」厳粛な表情でカメラに向かって話しかけ始めていた。「・・・我々はこのような卑劣なテロ行為に決して屈することはなく、自由を愛しつつ、世界で最も強い国、アメリカを守り抜かなければならない。我々は犯人は必ず追いつめ、この愚かしい行いに対する制裁を受けさせなければならない。そのためには強力な指揮を執ることできる人間が必要であることも忘れないでいてもらいたい。自由の国、アメリカ万歳。私はいつもあなた方とともにいる。卑劣なテロリストには罰を、自由を愛する私たち国民には神のご加護を・・・」
 店内に拍手と歓声が沸き起こった。先ほどまで険悪な雰囲気を漂わせていた客たちが、彼の演説に感動をし、肩を叩き合っていた。
 私は熱く沸き立った渦の中で、一人冷めていた。彼の演説は力強く、感動的に聞こえるものだった。事件の直後で、市民が暴走しそうなほど興奮している中で行われた非常に効果的な演説で、市民一人一人の頭に焼き付く効果を持つに違いなかった。だが、それは一方で一歩間違えば、人々を危険な方向に導く煽動に近いものだった。
 私は興奮の声が沸き上がる店を出た。あちこちで、今行われている上院議員の演説に賛意を表明して、クラクションが鳴らされていた。パトカーがサイレンを鳴らして慌ただしく南に走っていった。
 狙撃事件が起きたシティホールは周囲を高いオフィスビルに囲まれた場所にあり、警備員がいるとはいえ正面の入り口は誰もが出入りできる公共の場だった。逆に言えば、狙撃をしようと考えるなら場所はいくらでもあるはずだった。なぜ、犯人はわざわざすぐに見つかるような場所から拳銃を撃つような真似をしたのだろうか。シティホールはチャイナタウンのすぐ西側だ。犯人は迷路のように細い路地が入り組んでいるチャイナタウンに逃げ込んだのかも知れなかった。もしかすると犯人は中国人なのかも知れない。
 そう考えて、私は首を振った。これでは私も店にいた連中と変わらない。証拠も何も無いのに状況だけで誰かを犯人扱いするのは愚かなことだ。
 今、チャイナタウンに戻るのはよした方がよいだろう。私はアパートに戻ることにした。街角にはあちこちに警官が出ており、何人かは私に身分証明書を見せるように要求し、パスポートを提示すると何度も私と写真を見比べていた。


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