KOZミステリーの部屋 -3ページ目

■最後のさよなら■ 第10回


***********************************************************************************************

<09>



(c) FreeFoto.com
「マンハッタン炎上計画」さんの画像
マンハッタン炎上計画
 ジョニーの死体はニューヨーク市警第六分署の地下にある、通称モルグと呼ばれる屍体安置所に運ばれていた。爆発が起きた上に、ガソリンに火が燃え移ったせいで火の回りが早く、車の中はひどい有様になったようだった。彼の身体には頭から白いシーツをかけられていたが、ガソリンと肉が灼けた匂いが混じり合って、吐き出しそうな異臭が漂っていた。検視の時に、監察医が遺体を確認して欲しいと言って、目を背けながらシーツを剥いだが、見分けが付く付かないという状況ではなかった。四肢が噴き飛んでしまい、身体を構成していた肉の塊が検視台の上にまとめておかれていた。髪はチリチリに焼けていて、顔の裏表も区別がつかなかった。着ていたコートは消し炭になって皮膚のように身体にまとわりつき、残った肌の大半も真っ黒に焼け焦げて炭化していた。一度も外したところを見たことが無かった右手は手首から先がどこかに行ってしまっていた。検視の結果、死因は焼死ではなく、爆発の衝撃によるショック死だと、検視をした監察医がニューヨーク市警の警官にちらりと目をやって言った。彼のかかりつけの歯科医から入手した歯の治療結果から、かろうじてジョニー本人であることが確認された。
 やがてモルグには彼の家族や親戚だという中国人が十人以上も集まってきて、誰も彼もが大きな声で泣き叫んでいた。本来は音一つしないほど静まりかえっているモルグも、この時ばかりは泣き声の合唱が鳴りやまなかった。
 一人の老婆が、私の胸を掴んで中国語で何かをまくしたてた。中国語は分からないと首を横に振ると、英語で何かをまくしたてたが、やはり何を言っているのか理解できなかった。老婆は私をなじるように怒鳴り声をあげたが、何を言われているのか分からないので、どうしようもなかった。


 老女が警官の一人に矛先を向けたのを幸いに、中国人の集団から少し離れて息を付いていると、大きな手が私の肩にどすんと乗せられた。「君が事件の目撃者かね」
 振り返ると、額が後退し始めた中年の白人が、火の点いていない吸いかけの葉巻をくわえた口元をへの字に曲げて私を覗き込んだ。身長は私と同じくらいだが横幅は倍以上あって、腰の下にへばりついているズボンがずり落ちないようにサスペンダーで吊っていて、ズボンがはち切れそうになっていた。
「イエス」私は顔を少しのけぞらせながら頷いた。
「私はNYPD第六分署のダニエル・ルイス警部」
 警察バッジをスーツのポケットから取り出して、ぱっと私の前で示して、確認する間を与えずにポケットにしまい込んだ。
「少し話を聞きたいんだが、かまわないかね」
 私は再び頷いた。
「英語は分かるかね」
「イエス」もう一度頷く。
「よかった。どうもほかの連中は何を聞いても要領を得なくて困ってたんだ。スプリングフェスティバルが台無しだとか、どうしてくれるんだとか、何を言ってるのか分からん。俺は中華料理は好きだが、中国語はしゃべれないし、君らの習慣も分からんからな」
「ぼくも中国語はしゃべれない。お互い様ですよ」
「ほお」驚いたように目を丸くした。
「ぼくは日本人だ。彼とは友達でした」
「ほう、中国人と友達なのかね?」
「どういう意味ですか」
 ルイス警部は何か言おうと口を開き、葉巻が落ちそうになって慌てて手にとってスーツのポケットに突っ込み、大きな肩を揺すった。
「まあ、どっちでもいい。ちょっと一緒に来てくれるかね」
 泣き声が充満したモルグを後に、ルイス警部の大きな尻を見ながら寒々としたコンクリートの階段を上がった。

 一階のドアを開けると途端に喧噪が戻ってきた。外は雪が降っていたというのにミニスカートやショートパンツに厚手のコートを引っかけた濃い化粧の女性が集団でカウンターをどんどん叩きながら文句を言っており、カウンターの奥では初老の警官が肩肘を付いて欠伸をしながら女性たちをあしらっていた。どうやら街角で客を引いて連れてこられたようだった。その脇では私の三倍ほど体積がありそうな女性警官が、ボロボロのコートを何枚も重ね着して床に座り込んで居眠りしている黒人の老人を揺り起こしていた。
「グレッグ、グレッグはいるかぁ」ルイス警部は怒鳴り声をあげた。
「すいません、警部。この雪で事故があって、そっちに手間取ってまして」
 グレッグと呼ばれた若い白人の刑事が走り寄ってきた。テカテカ光ったグレーのスーツを着ていて、警官というよりも経営学修士(MBA)を取ったばかりのウォール街の証券マンといった雰囲気だった。
「なんで、おまえが事故処理なんてやってるんだ。そんなの交通課に任せとけ」
「事故を起こしたのは刑事課のミックの奴なんです」
「チッ」
 ルイス警部はブツブツ口の中で一頻り文句を言った後、若い刑事の肩に手をかけて耳許で何かを囁いた。
 彼が離れていくと、ルイス警部は私を振り返って口をへの字に結び、こっちへと指図した。私はカウンターの中に入り、雑然と並んだスチール製の机の脇に置かれた古びたソファに座らされた。
「何か飲むかね。コーラがあるよ」
「コーヒーはありますか」
 警部はちょっと待ってろと言うと、部屋の奥によたよた歩いていき、プラスチック製のカップと、反対の手にはダイエットコークを三缶抱えて戻ってきた。私の前のテーブルにはコーヒーが入ったカップと、粉砂糖の束を置いた。
「最近、コーヒーの粉を変えたんだ。スターバックスとはいかないが、ちょっとはましなはずだ」
 砂糖は辞退してブラックで一口飲んだが、朝淹れたままに違いない焦げた味がした。
「まあまあですね」と、私が言うと、ルイス警部はガハハと笑ってコーラをあおった。
「それで、君はどうしてワシントン広場になんていたんだね」
「あそこで彼と待ち合わせをしてたんです」
 私は彼と友人であることを説明しようとした。
「ああ、ちょっと待っててくれないか。その辺の話はきちんと記録しなくちゃならんからな」ルイス警部は私を制止してコーラを飲み干して缶を握りつぶし、もう一本を開けた。
 しばらくして、グレッグが戻ってくると私に手を差し出し、グレッグ・スミス刑事です」と挨拶した。私は立ち上がって彼の手を握り、自己紹介をした。
 スミス刑事はルイス警部の横に窮屈そうに座ると、小脇に抱えた茶色の封筒から何やらレポート用紙を取り出して警部に見せた。
「グレッグ、調書を取っといてくれんか」
「了解」
 無線用語でグレッグが言うと、ルイス警部は眉をしかめた。
 私はジョニー・リーの友人であること、彼のアパートを借りていて、待ち合わせの約束をしていたことを最初から説明した。私が説明を終える間にルイス警部は三本目のコーラを飲み終わり、私が話をしているのに部屋の奥に行ってダイエットコーラを取ってきた。
「警部、飲み過ぎですよ」スミス刑事が記録を取りながら、視線を上げずに諭した。
「こいつはカロリーゼロなんだ」
「知ってますよ。でも、身体に悪い。人工甘味料ですよ」
 ルイス警部は顔をしかめてゲップと息を吐き、プルトップを引き上げ、「中国人はコーラは飲まんのか?」と、私に質問した。
「さあ、分かりませんね。私は日本人ですし・・・」
 そう言うと、スミス刑事が顔を上げ、驚いたような表情で私を見た。どうやら彼も私を中国人だと思っていたらしかった。最初に名前を教えていたが、日本人の名前も中国人の名前も区別できていないようだった。
 私はコートのポケットから日本政府が発行したパスポートを取り出して、テーブルに置いた。
 ルイス警部が手にとってペラペラとめくった。白い紙の入国管理カードに押されたスタンプの日付を確認して、ジャーナリスト用のビザと、顔写真が貼ってあるページを開いて私の顔と何度も見比べて、調書に書いた名前が間違っているのに気が付き、スミス刑事に訂正させながら番号を控えた。
 私は彼らの手際の悪さに呆れ、壁に掛かった時計を見上げた。時計が動いているのなら今は十一時過ぎのはずだった。第六分署に連れて来られてから五時間以上、ジョニーが爆死してから半日が過ぎていた。
 欠伸をしながら、ルイス警部の顔を見た。「ジョニーの車はどうして爆発したんですか。ぼくは肝心なことを教えてもらっていない」
 スミス刑事の手の動きが止まった。
 ルイス警部はポケットから吸いかけの葉巻を取り出して口にくわえた。
「警部、こんなところで吸わないでくださいよ。禁煙ですからね」
「ふん。ニューヨークも住みにくくなったもんだ」警部が大きな鼻を鳴らした。
 スミス刑事がルイス警部に耳打ちしたが、しっかり聞こえていた。
「どうします?」
「まあ、教えてもかまわんだろう」そう言うと、テーブルに先ほどスミス刑事が持ってきたレポートをポンと置いた。「君はどうしてあのジャグァーが爆発したと思う?」
「さあ・・・分かりませんね。ガソリンが漏れていたのか、欠陥車なのか・・・」
「あの車には軍用のプラスチック爆弾が仕掛けられていた」
「爆弾ですって?」
「そう。ガソリンタンクの真下に付けられていた」
「彼は命を狙われていたんですか? でもなぜ・・・」
「さあてね。それはこれから調べることだが・・・彼から何か聞いておらんかね。誰かに恨まれていたとか、脅迫されていたとか」
「いえ、特に何も」
「ふむう」
「そう言えば、最後に電話があって待ち合わせの約束をした時、彼はぼくに渡したいものがあると言っていた」
「何をだね」
「分かりません。ぼくが知りたいくらいだ。ぼくと会った時に渡すと言っていた」
「車の中にあったものはグローブボックスの自動車登録証まで燃えちまったよ」
「携帯電話とか財布とかは残ってなかったんですか」
「そうした荷物類は車内からは見つからなかった。車内はひどい有様だったよ」
 その後、私は二人からいろいろな質問を受けたが、いずれも答えることができず、首を横に振るしかなかった。

(c) FreeFoto.com
「マンハッタン炎上計画」さんの画像
マンハッタン炎上計画

 ジョニーは殺された。だが、彼に殺される理由があるのかどうか、そもそも彼がどんな生き方をしていたのか、私はジョニーについてほとんど何も知らなかったことを改めて思い知らされた。分かっていたのは、ジョニーとはもう会うことができなくなったということくらいだった。
 制服姿の警官が近づいてきて、スミス刑事の耳元で何かを囁いた。スミス刑事はそのままルイス警部の方を向いた。「どうします、警部。被害者の家族という中国人がいつ遺体を返してくれるのかと騒いでいるそうです」
「もうちょっと待たせておけ。検視報告書を書いてからだ」ルイス警部がイライラした声で警官を追い払い、コーラを飲み干した。
 時計は深夜一時を回っていた。「もうそろそろ帰ってもいいですか? ぼくに答えられることはなさそうだ」
 スミス刑事がルイス警部に隠れて欠伸をし、私は欠伸をかみ殺した。カップの底で冷め切ったコーヒーを口にしようかどうしようか三秒ほど迷い、止めておくことにした。夜が遅いマンハッタンでも、さすがにこの時間ではコーヒーショップは開いていないだろうが、このコーヒーを飲む気にはならなかった。
「ダニー、その日本人にお客さんだよ」先ほど入り口で見かけた太った婦人警官がカウンター越しに大きな声をあげた。
 バーバリーのレインコートを着た日本人の男性が私たちが座るソファに駆け寄ってきた。銀縁の眼鏡をかけ、髪を短く刈って、神経質そうな顔をした男だった。
「あなたがクサナギさんですか」
「そうですが」
「ワシントンの外交ルートを通じて、さっき連絡がありました。事件に巻き込まれたとか」男ははあはあと荒い息を吐きながら、ずり落ちかけた眼鏡を押し上げた。
「あなたは?」と、私は訊いた。
「日本領事館の領事で、村井といいます」
「領事館? 領事館に連絡が行ったんですか? どこから?」
「外交ルートを通じてです」
「外交ルート? ぼくが事件を目撃したことが外交問題になるんですか」
「あなたねぇ。困るんですよ。なんですぐに領事館に連絡してくれないんですか。こっちにも都合があるんだ。まず領事館に知らせるのが国民としての義務でしょう。これじゃあ、あなたのことを保護できませんよ」
「領事館が在留邦人を保護してくれるなんて話は初めて聞いた」
 私は嫌みを言ったつもりだったが、村井は気にした様子は見せなかった。事実だったから、気にもならなかったわけだ。
「あなたはニューヨークに滞在しているみたいですが在留届も出してないじゃないですか。困るんですよ、何かあったら領事館の責任になる」面子だけを気にする官僚らしい物言いだった。
「ニューヨークに来てから、大して時間も経ってない。領事館に文句を言われる筋合いじゃあない」
「さっき霞ヶ関から連絡があったんですよ。あなた、いったい何をやらかしたんですか」
「霞ヶ関? どこからぼくの話が行ったんですか」
 訳が分からなかった。私が事件を起こして逮捕されたのならともかく、爆発現場を目撃しただけでは、日本のアメリカ大使館などから外務省に報告が行く理由は無いはずだし、それほど暇な役所ではないはずだ。
「クサナギさん、あなた現場で何か見たんですか」
「別に何も」
「知ってることがあったら、すぐに話した方があなたのためですよ」
 その言い方が気になって、私は訊いた。「村井さん、あなたはどちらの省庁出身ですか。外務官僚じゃあないですね」
 村井は奇妙な顔をして、警戒の色を浮かべた。しばらくためらった後、村井は口を開いた。「警察庁ですが、それが何か」
 外務省のキャリア組の出世コースである総領事はともかく、領事館が何人も抱えている領事は、外務省以外の省庁から出向してきた官僚であることが多い。村井という領事は警察庁からの出向組なのだ。
「なるほど。それであなたが飛んできたというわけですね。ぼくが彼の車を爆破した容疑者だと思っているわけだ」
「そんなことは言ってない」
「じゃあ、なんだって言うんですか。あなたがここに来たのは、ぼくの心配をしたからじゃない。ぼくが何かしでかしていたら、あなただか総領事だかが、日本から突かれると心配したからだ。それなら放っておいてくれないか。アメリカの警察へはぼくが見た通りのことを説明する。あなたはさっさと家に帰ってテレビでも見てたらどうです」
「な、何を・・・」村井は絶句した。人に命令するのは慣れているが、言い返されるのには慣れていないのだった。
「さあて、仲間割れはそのくらいにしといてもらおうか。相談事があるなら、後で勝手にやってくれないか。こっちも暇じゃあないんだ」日本語でのやり取りを訳も分からずに眺めいたルイス警部がしびれを切らして声をかけた。
 願ったりかなったりだ。私もこんな愚にも付かない議論はさっさと終わらせたかった。
「ミスター・ムライでしたな。調書はこちらの方で取りますので、必要でしたら明日にでも署長に掛け合ってもらえますかな」と、ルイス警部が言った。
「し、しかし・・・」
「彼は犯罪を犯したわけじゃない。目撃者ということで話を聞いているだけだ。どんなルートでそちらに連絡が言ったか知らんが、今日が明日になっても、あんたのところの面子はつぶれんだろう」
「それはまあ・・・」村井はポケットから派手な色のハンカチを取り出し、額の汗を拭った。
 やれやれ。私は息を吐いた。

 ルイス警部は私の連絡先を再度確認して村井にもそれを知らせ、彼を丁重に追い返してくれた。やがて、私には興味を失ったのか、ルイス警部は大きな欠伸をしてから、帰ってもいいと言った。
 アパートまで送ってくれるのかと思ったが、警察署の前で勝手にタクシーを拾えということのようだった。夜中を大きく回っていたため、営業中のランプが点いたイエローキャブはなかなか通りかからず、十分以上も雪の中で凍えながら、やっと通りかかったバングラディッシュ人の運転手の車をつかまえた。運転手は奇妙な音楽を大きな音でかけながら、この雪では商売にならないとブツブツ文句を言いながら運転した。
 私はため息をついた。散々な一日だ。友人を失くした上に、警察には長い時間拘束され、タクシーの運転手からは愚痴を聞かされた。だが、散々な一日はまだ終わっていなかった。
 アパートの中に入って階段を上がると、私の部屋のドアの前に黒いコートを着た男が二人立っていた。私の顔を見ると、目つきの鋭い若い男と、彫りが深く多くの皺を顔に刻んだ初老の男が近寄ってきた。深夜の廊下に革靴の音がコツコツと響いた。
「ミスター・クサナギ?」
「イエス」私は身構えた。
 私がこのアパートにいることを知っている人間はジョニーとニューヨーク市警以外にはいなかったはずだし、第一、男たちの黒ずくめの格好はとても真っ当な人間には見えなかった。
「FBIだ。私はビル・クラーク捜査官」若い男が言った。
 私よりもずっと若く、墨色のウールのコートを着て、白いマフラーを巻いていた。FBIの捜査官というよりは、チンピラ上がりのナイトクラブのボディガードといった方が似合っていた。
カール・シュミット捜査官です」と、初老の紳士。
 シュミット捜査官は元々メラニン色素が薄いのか青白い顔色をしていて、肌も水気がなく生気を感じさせなかった。ただ、落ち窪んだ目の奥の光は、棺桶の中のミイラが睨み付けるように鋭く光っていた。
 二人はスーツのポケットからFBIという写真付きの身分証明書を取り出し、私の目の前に掲げた。FBIの証明書などテレビか映画の中でしか見たことがなかったが、少なくとも本物らしく見えた。
「映画で見るのと同じだ」
「これは映画ではない。ミスター・リーの車が爆発した状況について話が聞きたい」クラーク捜査官が冷たい口調で言った。
 私は市警での長時間の事情聴取で疲れていた。
「警察に聞けばいい。第六分署のルイス警部に同じ話をもう何時間も繰り返した。調書も取っていたからゼロックスでコピーすればいい」
「君には捜査に協力する義務がある」
「あいにくだが、御免蒙りたいね。FBIのやり方も知らないね。ぼくは合衆国民じゃないが、君たちの法律は尊重するし、捜査にも協力する気はあるが、もう少し効率よく仕事をしてくれないか。今、何時だと思ってるんだ。ぼくは彼の車を噴っ飛ばした容疑者なのか? 逮捕するつもりならともかく、そうでないなら今日はもう閉店だ。話が聞きたいなら営業時間中に来てくれ」
 FBIの威光をもってしても、今の私に言うことを聞かせることはできない。今ならホワイトハウスから招待を受けても断れそうな気分だった。
 私の口調に、クラーク捜査官は気色ばんだ。「な、なんだ、その言い方は。オフィスに来てもらってもいいんだぞ。そこで同じような口がきけるか」
「どうしてもと言うなら、一本電話をかけさせてもらいたいね。この国では逮捕される前にはどこかに一本電話をかけられるんだろう。日本の領事館に連絡をしたい。さっき領事とかいう人物に会ったばかりなんだ。あまり役に立たないとは思うけれど、日本のパスポートを持った市民がFBIに連行されそうになっているんだ。弁護士くらい連れて事情を聞きに来てくれるだろう。それに逮捕するんだったら、『君には黙秘権がある』とかなんとか、ぼくの権利について説明する義務があるんじゃないのか。ハリウッドの警官はみんなそう言ってるぜ」
「なんだと」クラーク捜査官が顔を紅潮させて、私につかみかかろうとした。気が短いに違いない。地道な捜査をするには不向きの性格だ。「ジャップのくせに生意気な」
「止めておけ。面倒なことはしたくない」シュミット捜査官は顔をひきつらせながら、クラーク捜査官の肩を叩いてなだめた。
「こんな冗談を聞いたことがある。NYPDは四文字なのに、どうしてFBIは四文字言葉じゃないのかってね」
「貴様」
「おい、ビル。いい加減にしないか」シュミット捜査官が眉をしかめた。「ミスター・クサナギ。確かに夜中に訪れた非礼はお詫びをする。しかし、こちらも仕事なんだ。喧嘩腰になることはないだろう。少し気を落ち着けてくれないか」
 私はふうと息を吐いた。確かに彼らにあたることではなかった。
「すみませんでした。ぼくの友人が目の前で爆死したっていうのに、警察で何時間も足止めをくらって同じ話を繰り返しさせられ、ちょっとイライラしていたんです。失礼なことを言いました。謝ります」
「ニューヨーク市警とFBIでは、事件の見方が違うところがある。同じ話でも別のストーリーが見えてくるかも知れない。あなたはミスター・リーの部屋を間借りしているそうだね」馬鹿丁寧な口調でシュミット捜査官が言った。
「誰がそんなことを言ったんです?」
「違うんですか?」
 私は肩をすくめた。「ええ、確かに彼から部屋を借りています」
「ミスター・リーから何か預かりませんでしたか?」
「いいえ、別に何も」
 そう言えば、ジョニーが私に渡したいと言っていたものは何だったのだろう。
「最後に会ったのはいつですか?」
「一昨夜、一緒に食事をしました」
「その時、何か言っていませんでしたか?」
「ぼくはメッツのファンなんだが、彼は野球には興味が無いと言っていた」
「ほかには?」
「いいえ、別に。ニューヨークは狂った街だが、まだ腐っていないとか」
「どういう意味でしょう」
「さあ」
 シュミット捜査官はクラーク捜査官と早口で何かを話し合った。彼らが何を話しているのか聞き取れなかった。きっとFBI語をしゃべっていたのだ。あるいは英語を暗号に変えて話していたのかも知れない。FBI捜査官なら、それくらいはできるのだろう。
 やがてシュミット捜査官が私を見て言った。「ミスター・クサナギ。お手数をおかけしました。今日のところは引き上げますが、また来ます。その際には部屋の中を見せていただけますか」
「捜査令状を持ってくればいつでも部屋にお通しします。それなら、ぼくには断る理由はない。手続きを踏むのが法治国家のやり方だ」
「分かりました」
 クラーク捜査官は不満そうだったが、それを押し止めてシュミット捜査官が笑顔を作った。けれども目は決して笑っていなかった。
「では、失礼」
 二人は私に背を向け、廊下を歩き始めた。クラーク捜査官がチッと舌打ちをする音が寒々とした廊下に鳴り響いた。

 私は二人が階段を降りていったのを目で追ってから、部屋の鍵を開け、急いで部屋に入って鍵を二つともかけた。
 部屋の中はすっかり冷え切っていた。灯りを点けると何か妙な違和感を感じた。テーブルもソファも昼間に出かけた時のままだったが、奇妙な感覚だった。きっと私の気のせいだったのだろう。夜中の二時を回っていれば、誰だって目が開いていても夢を見たりするものだ。
 スチーム暖房のバルブを回して部屋に暖気を入れた。寒々とした部屋はまるで主人を失ったことを悲しんでいるように冷え切っており、私はぶるっと身震いをした。
 私はコートを脱いで椅子の背にかけ、キッチンのカウンターからグラスを取り、リビングの本棚に置いてあったワイルドターキーの瓶を手に取ってグラスに注いだ。そのまま一口あおると、バーボンが喉を焼きながら胃の中に落ちていった。グラスの三分の一ほど注いだ琥珀色の液体を飲み干して、そのまま着替えずに氷のように冷え切ったベッドの中に倒れ込んだ。
 いろいろなことが起こり、神経が高ぶってなかなか寝付けなかった。しかし、ベッドの上を泳いでいるうちに疲れた身体が私を泥のような眠りに引きずり込んでいった。底なしの沼に足を取られる中で、日本にいるはずの息子がジョニーと一緒にセントラルパークで遊んでいる夢を見たような気がしたが、それは夢を見た気がしただけなのかも知れなかった。しかし、ここはニューヨークだ。何が起こっても不思議はなかった、夢の中でさえも。



***********************************************************************************************



ドミニク・J.ミシーノ, ジム・デフェリス, 木下 真裕子
NYPD No.1ネゴシエーター最強の交渉術
太田 弘
ニューヨーク都市地図集成

■最後のさよなら■ 第9回


***********************************************************************************************

<08>



 ジョニーの部屋はブリーカー通りをクリストファー通りに曲がったところにあるアパートメントの二階で、オー・ヘンリーが小説を書いていた頃から変わっていないに違いない古びた石造りの建物だった。建物のドアを開けると短い廊下と上に向かう階段があって、二階にはいくつかの部屋が並んでいた。ジョニーの部屋は廊下の一番突き当たりで、茶色く塗られた木製のドアで閉ざされており、マンハッタンらしく大きな錠前が二つ付いていた。湿った漆喰の匂いがする部屋の中は、古さは隠せないものの、クイーンサイズのベッドが置かれたベッドルームが一つと、大柄なソファやテレビなどがあるリビングに、ダイニングテーブルが置かれたキッチンがつながっていて、一人で生活するには十分すぎるほど広い部屋だった。木枠の窓の隙間からは冷風が侵入してきたが、昔ながらのスチーム暖房で部屋は暖かく、シャワーからはちゃんとお湯が出た。
 古いとはいえ、今時マンハッタンでこれだけの部屋を借りたら、月二千ドルは下らないだろう。私が半分家賃を出そうと持ちかけると、ジョニーは手を顔の前でひらひら振って笑いながら、荷物を置いておいてくれるだけで十分だと言って頑として受け取らなかった。部屋の片隅では鍵のかかったジェラルミンのカメラバッグが埃をかぶっており、リビングのソファ横のランプテーブルにはレンズがひしゃげたニコンが無造作に置きっぱなしになっていた。私はそれらには手を付けることはしなかった。ジョニーが大切に置いていたものだと思ったからだ。
 その部屋が私の住みかとなった。それから一週間、朝と昼の食事はたいていヴィレッジ周辺の軽食屋かファーストフードで済ませ、空き時間は日用品を買い揃えたり、市の図書館で調べものをして過ごした。二、三日に一度は、夕方になるとジョニーから連絡があり、近くの中華料理店などで夕食を取った。
 ジョニーは仕事の話はあまりしたがらなかった。成功したアメリカ人にしては珍しいことだ。商売で成功した中国人であれ、レストランを経営するイタリア人であれ、宝石を売るユダヤ人であれ、財を成したのは名誉なことと自慢したがるのが普通のアメリカ人の精神構造だ。サラエボから戻って父親から譲り受けた会社をこれだけ大きく成長させたのは彼の手腕が優れていたからに違いなかった。しかし、彼はそうは思っていないようだった。主に中国やヨーロッパとの貿易だと言うだけで、詳しい話はしなかった。もっとも、私にとっては彼が何をしていようとかまわなかったのだが。
 私たちはよくチャイナタウンに出かけた。中国人しか行かないような素っ気ない造りの店も多かったが、味は観光客専門の店よりはるかに美味しかった。

(c) Yokohama Scenic Gallery
(c) Yokohama Scenic Gallery
 その日出かけたのは九龍飯店というこじんまりした、小ぎれいな中華料理店だった。
「この店は香港から来た料理人がやっているんだ。味は絶品だよ」メニューに載っていない料理を勝手に注文しながら、ジョニーが言った。
「香港からは多いのかい」
「最近は特にね。九七年に中国に返還されるちょっと前からさ」
「返還以降、ずいぶんこの街も賑やかになったんだね」
 ジョニーはそれには応えず、厨房の奥を見やった。
「人生は思うに任せないものだね」と、彼は言った。「この店は、昔結婚していた女性が経営しているんだ」
 彼が私的な話をするのは珍しかった。独身だというのは知っていたが、離婚していたとは初めて聞いた。
「そうか」何と応えていいか分からず、私は相槌を打った。
「サラエボで君に話したろ。結婚するつもりの女性がいるって」
「ああ」
「それが彼女さ。病気の祖父の手伝いをして店を切り盛りしているんだ」
「なぜ別れたんだ」
「生き方の違いさ。ぼくの父親が死んで、ぼくが仕事を継いだ。それが彼女には気に入らなかったんだ。それに、ぼくも彼女の仕事が気に入らなかった」
「どうしてだね」
「そのうち君にも分かるさ」
 食事の間、ジョニーは厨房の奥に何度も視線を送ったが、どうやらその女性は店にはいなかったようだった。明らかにがっかりした様子だった。
「また会いに来ればいいじゃないか」
「そうはいかないよ。本当はもう会わないことになっていたんだ」ジョニーは言った。
「会いたいなら、いつでも会いに来ればいい」
「昨夜斗回北、今朝歳起東」中国語で、ジョニーが何かを言った。「中国の昔の詩だよ。昨夜、北斗星は北を指していたが、今朝は東を指して新年を迎えた、っていう意味だ。中国人は陰暦で新年を祝うんだよ。中華街でも、もう少しで春節の祭りが始まる」
「新しい年の始まりだね。まだ少し寒すぎるな」
「春在千門万戸中。春はもう家々の中に満ち溢れている。何かを始めるにはいい時期なのかも知れないね」ジョニーは言った。
「寒い冬もいつかは終わるものさ」と、私は言った。
「人生は思うに任せないものだね」
 もう一度、ジョニーが呟くのを私は聞き逃さなかった。


(c) マンハッタン炎上計画
(c) 「マンハッタン炎上計画」
マンハッタン炎上計画
 この街の二月は一年で最も厳しい月だ。この年は例年になく雪が多く降り、ホームレスの凍死者が多く出て、市はもっと貧困層のための避難所を作るべきだと主張する市民グループと、過剰になりすぎた厚生予算を削って州税を引き下げることを考えるべきだとする富裕層との間で議論が戦わされていた。大統領選に出馬を表明したオニール上院議員や、この任期限りで引退する州知事の後任に色気を見せているイタリア系移民のアントニオ・ビエリ市長は貧困対策には力を入れたがっていないと専らの噂だった。市民に恩恵のある福祉政策は人気取りには格好の材料だったが、選挙で投票する見込みのないホームレスにいくら州や市の予算を注ぎ込んでも慈善事業にしかならなかったからだ。
 そんな二月半ばの日だった。その日も早朝から雪が降り続いており、アパートの窓には粉雪が張り付いていた。
 昼過ぎにジョニーからアパートに電話があった。
「今日は元宵節だ。中華街で食事をしないか。それに君に渡したいものがある」
 私たちはいつものように夕食を共にする約束をした。アパートに迎えに来ると言っていたが、夕方になって再び電話があって、急に用事が入って迎えに行けなくなったのでワシントン広場まで来て欲しいと言った。
 いつもは大勢のニューヨーク大の学生や観光客で賑わうワシントン広場も、その日は人影が少なかった。朝から降り続いていた雪はほとんど止み、粉雪が舞っていた。空はどんよりと暗く、灰色の雲が低く垂れ下がっていた。
 私はベンチの雪を払い、ジャケットのポケットに手を突っ込んで座った。枯れ枝に積もった雪が重さに負けて時折どさりと落ちた。その下では、わずかばかり残っている木の実や、人の食べ残しをあさる子猫ほどの大きさのリスが尻尾を丸めて雪の上をのそのそと這い回っていて、雪の落ちる音にびくりと顔を上げて辺りを見回した。
 やがて、ジョニーのジャグァーがワシントン広場に面した大学の建物のすぐ脇を回ってくるのが目に入った。ジャグァーはゆっくりと雪道を踏みしめながら、駐車場所を探すように少し動いては停まり、再び走り出しては停まりという動作を繰り返した。人影は無かったが、公園の周りには車が何台も駐車しており、停められる場所がなかなか見つからないようだった。それでも、ようやく場所を見つけて、私が座るベンチからはいくぶん離れたワシントン門の北端に車を停めた。
 運転席側の窓がするすると降りて車の中から私に向かって手を振るのが見え、今度はするすると上がっていった。やがて車のエンジンが再び動き出したような気がした。しかし、エンジンが動いたと思ったのは間違いだった。爆発音とともに突然ボンネットが噴き飛び、どこかでガラスが弾ける音が聞こえた。ジャグァーは地上から数十センチ飛び上がり、スローモーションで撮影をしているかのようにゆっくりと落ちた。
 爆風を避けて私は耳を塞ぎ、地面に降り積もった雪に頭を突っ込んだ。雪がクッションの役割を果たして、爆音は少しだけ吸収されたような気がした。人影が見えないにもかかわらず、辺りで悲鳴と怒鳴り声が沸き起こった。
 私は同じような風景をどこかで見たような既視感に襲われ、それは既視感などではなかったことに気が付いた。私は同じ経験をサラエボでしていた。違うのは狂ったようなけたたましいクラクションの音と、銃声が聞こえてこないことくらいだった。
 三半規管がおかしくなったのか、耳の奥がジンジンと痺れて音がよく聞こえなくなり、真っ直ぐに立つことができなかった。私は耳を押さえて唾を飲み込み、よろけながらジャグァーの残骸に駆け寄った。
 ガソリンに火がつき、ジャグァーは再び大きな爆音を上げて火を噴いた。
「ジョニー・・・」
 炎に包まれた車内で人影が動いたように見えた。しかし、その影はすぐに燃えさかる紅い炎の中に崩れて消えていった。
「ジョニー!」
 サイレンとクラクションがドップラー効果を伴って次第に甲高くなり、近づいてくるのが分かった。私は再び戦場に舞い戻った気がしていた。


***********************************************************************************************
オー ヘンリー, O. Henry
ベスト・オブ・O.ヘンリー

オーヘンリー, O.Henry, 有吉 玉青, 米倉 斉加年
最後のひと葉

■最後のさよなら■ 第8回


***********************************************************************************************

<07>


 

 地下の駐車場に停まっていたジャグァーの助手席に乗り込むと、真新しい革の匂いが鼻をくすぐった。
「新車だね」
「これに乗っていくと、取引先のアメリカ人が喜ぶんだよ。近頃キヤディラックではもう威張れないからね。でも、中身はフォードなんだ。大英帝国の威光も資本主義には勝てなかったってわけさ」
「お気に入りなんだろ」
「まあね。図体だけが大きなアメ車よりずっと乗り心地がいいし、燃費もいい。残念だけれど中国はロクな車を作っていないからね」
 私は肩をすくめた。

(c) FreeFoto.com
「マンハッタン炎上計画」さんの画像
マンハッタン炎上計画
 雪は小降りになっていた。そのジャグァーは後輪を駆動する方式にもかかわらず、少々の雪でもハンドルを取られることもなく、大きな猫のように静かに夜の街を這っていった。
「今日はイタリア料理にしよう。中国人と一緒に中華料理を食べるんじゃあ、あまりにも普通すぎる。それに中華じゃあワインと合わない」
「君に任せるよ。マンハッタンは久しぶりなんだ。前に来たのはサラエボよりもずっと前だよ」
 ジョニーは頬の傷が痛んだかのように顔を複雑そうに歪めた。
 私たちはチャイナタウンを抜けてマンハッタンブリッジを渡ってブルックリンに入り、イーストリバー沿いのイタリアンレストランに車を乗り入れた。
「ニューヨークでちゃんとした食事が食べられるのは、イタリアンと中華料理くらいだよ」と、ジョニーは言った。
「どうしてリトルイタリーに行かなかったんだ。チャイナタウンのすぐ横だ。君のオフィスからなら歩いても行ける」
「あそこのイタリア人とはうまが合わないんだ。イタリア料理は好きだが、それを作ってる奴らは好きじゃない。向こうもぼくのことが嫌いだしね」ジョニーは苦々しげに顔を歪めた。
「隣同士で仲良くやっているものだと思ってた」
「お互いに移民同士だからね。うまくいくわけはないさ。土地を盗み取った、キャナル通りを越えて店を開いた、店の前で唾を吐いたって、いつだって喧嘩が絶えないよ」
「マンハッタンは移民ばかりの街なんだから、仲良くすればいい」
「きっと温度が低すぎたのさ」ジョニーは口元を歪めた。
「どういう意味だい」
「黒人と白人とチャイニーズ、アイリッシュ、イタ公にスパニッシュ。こいつらを坩堝にぶち込んでぐつぐつ煮込んでみたけれど温度が低すぎてうまく溶け合わなかったんだ。出来損ないのミネストローネみたいなもんさ。野菜とトマトとベーコンがうまく混ざらなくて味がバラバラになっているんだ。野菜はベーコンの塩気が強すぎるせいだと言い、トマトは野菜が腐っていると文句を言う」
「君は写真家じゃなく、詩人の方が向いているみたいだね」
 彼は唇の端で薄く笑った。
「写真は撮っているのかい」
「この指じゃあ」そう言いながら、手袋をはめたままの右手を上げ、ひらひらと動かした。何も入っていない手袋の指が前後に揺れた。「いいじゃないか、そんなことは。それよりも飲もう、久しぶりに会ったんだ」
 食事を済ませると、私たちは橋のたもとにある小ぎれいなバーに入った。カウンターの奥がガラス張りの棚になっていて、様々な種類のスピリッツの瓶が摩天楼のように立ち並んでおり、その向こう側には本物の摩天楼のイルミネーションを見晴るかすことができるという洒落た造りの店だった。
 雪が降っているためか、店にはほとんど人が入っていなかった。私たちは夜景を見るには特等席のカウンターに向かって、ストゥールに腰をかけた。
「マンハッタンを」と、私は言った。
「チャイナ・ブルーを」ジョニーが注文した。
「あのときと同じ酒だ」
「言ったろ。健康には注意しているんだ」
 やがて最初からそこにあったのではないかと思えるほど絶妙なタイミングでカクテルグラスが現れた。彼がサラエボで飲んでいた、ライチリキュールとブルーキュラソーとグレープフルーツジュースをシェークし、トニックウォーターで割っただけのシンプルなカクテルではなく、パイナップルやチェリー、グレープフルーツがごてごてとグラスに盛りつけられていた。リゾートホテルのプールサイドで注文するのがふさわしい酒だった。

(c) FreeFoto.com
(c) FreeFoto.com
 ジョニーはポケットから取り出した皺くちゃの十ドル札を数枚カウンターの上に乗せた。糊がかっちりと効いたシャツに蝶ネクタイを締め、黒いベストを着て、髪の毛をポマードで固めたバーテンが慣れた手つきで札を取ると、ジョニーは残りは取っておきたまえと言った。どうやらサラエボにいた時よりもずっと羽振りはよくなっているようだった。バーテンは表情を崩さずにサンキューと言い、目だけで会釈した。チップを多めにもらっても愛想笑いはしない、ここはそういう店なのだ。
 店には、グラスが擦れ合うよりはわずかばかりに大きな音で音楽がかかっていた。ニューヨークにやってきたイギリス人のことを歌った歌で、男の歌手が物寂しい声でマンハッタンで暮らす寂しさを語りかけていた。


 私はコーヒーは飲まずに紅茶を飲む
 トーストを料理に添えるのが好きだ


 私は異邦人だ
 私は合法的な異邦人なのだ


 私は朝からピザを食べ、コーヒーを飲むことも苦にはならなかったが、彼と同じような気持ちになっていた。この街で自分が異邦人ではないと言い切れる人間はいるのだろうか。人種の坩堝と呼ばれるこの街の住人でも、疎外感を感じない人間はいないような気がした。誰も彼もが同じような気持ちを共有できるからこそ、世界中から人が集まってくるのかも知れなかった。誰にも気にされることなく生きていき、誰にも気にされることなく死んでいける。マンハッタンはそんな街だった。
 グレープフルーツを囓っているジョニーに、私はここに来た用事を口にした。「君はまだ写真を撮っていると思ってたんだ。大統領選の写真を撮るのを手伝ってもらおうと思ってたんだよ。ぼくは写真を撮るのが苦手だし、この国にほかにカメラマンの知り合いはいないからね」
 まだ、この街は春にもなっていなかったが、この国の大統領選挙は十一月の投票に向けて走り出していた。今回の選挙は波乱含みだった。民主党の大統領が二期を全うして今回の選挙には出馬できないため、立候補を表明している現職のゴードン副大統領と共和党候補との争いになるのは、ほぼ確実だった。
 共和党からは下院のマクミラン院内総務やカリフォルニア州のスタイン知事、超保守で知られるタカ派のオニール上院議員などが名乗りをあげていた。中でもオニール上院議員はニューヨーク州選出で、軍人出身という変わり種の議員だった。上院議員としては、まだ一期目の任期の途中だったが、保守層から大きな支持を得ていて今回の大統領選挙ではダークホース的な注目を集めていた。
 史上空前の好景気を謳歌しているこの国では、強いものをより強くすることが正しいと信じられており、「強いアメリカ」を旗印に富裕層を取り込んできたオニール議員は今のアメリカの象徴的な存在なのかも知れなかった。
「日本の雑誌が今回の大統領選挙に興味を持っていてね。返事はまだ無いが、スーパーチューズデイに合わせてオニール上院議員にはインタビューも申し込んである」
「あいつは糞だよ」ジョニーは嫌悪感を露わに、吐き捨てるように言った。
「どうした。彼が白人至上主義者だから嫌いなのか」
「そういうわけじゃあないさ。だが、あいつは糞だよ。ほかの候補もロクなのはいないがね」
 それきりジョニーは黙りこくってしまった。
 アメリカの大統領選挙は国を挙げてのお祭りだ。四年に一度の選挙の年に入ると、ホワイトハウスの住人になろうと目論んでいる政治家は選挙以外のことは何も考えられなくなる。戦争も減税も福祉政策も、すべては選挙に勝つための戦術に過ぎなくなる。選挙には莫大な金がかかり、大衆の人気取りができない政治家は勝つことはできないのだった。とは言っても、どこかの島国では赤坂の料亭にハイヤーで乗り付けて密談で首相を決めることが政治と考えている輩しかいないのに比べれば、はるかに民主的で健全な仕組みだった。少なくとも自分たちの親玉を選べる仕組みはあるのだから。それが正しい選択だったのかどうかはともかくとして。
 ジョニーは遠い目をして酒瓶の向こう側に広がる夜景を眺めながら言った。「予備選も取材をするのか」
「そうだよ。来る前に言ったはずだぜ」
「そうだったね。それにしても日本のメディアにしては珍しいね」
「出来レースの本選挙より、予備選の方が駆け引きは面白いよ」
「確かにそうだね。やり直すにはいいかも知れないね」と、ジョニーは言った。
 しばらく考えていたが、やがて口を開いた。「カメラマンは紹介するよ。当てがあるんだ。きっとびっくりするよ」
 何かが吹っ切れたように、ジョニーは悪戯っぽく笑った。
「それより、大統領選挙の取材をするなら長丁場だ。取材拠点が必要だろう。どうするつもりだ」
「短期滞在用のアパートを借りるつもりだ。ニュージャージー側に渡れば少しは安く部屋が借りれるだろ」
 実のところ、それが大きな問題だった。日本にいる時に手配を済ませてくればよかったのだが、忙しさにかまけて何もせずに飛行機に飛び乗ってしまった。取りあえず、今夜と明日のホテルは押さえてあるが、その先の予定は行き当たりばったりだったのだ。
「それだったら、ぼくの部屋を使えばいい」と、ジョニーは言った。「ぼくは今、ブルックリンに家を持ってるんだけれど、グリニッチヴィレッジにもワンベッドルームのアパートメントが借りっぱなしになってるんだ。帰るのが面倒になった時、たまに使っていたんだ。狭苦しいホテルに一泊二百ドル以上払って泊まるよりは気楽だよ。荷物が置きっぱなしだけれど、ベッドもバスルームもある。週に一回クリーニングサービスを頼んであるからきれいなもんだ。ヴィレッジは夜がちょっと騒々しいのが難点だがね」
「そこまで君の世話にはなれないよ。部屋くらい自分で探す」
「気にすることはない。どうせたまにしか使ってない部屋だ。あの辺りはなかなか物件が出ないからそのままにしてあるんだ。昔から使ってた部屋で愛着があって、今年分の家賃は前払いしてあるから、誰かに使ってもらった方が助かるよ」
「中国人にしては珍しいね」
「空き部屋を借りっぱなしにしてることかい? 確かに中国人は金にうるさいからね。普通は家賃の前払いなんて無駄遣いはしないよ」
「そうじゃない。チャイナタウンじゃなくて、ヴィレッジにアパートを借りてることがさ。チャイナタウンの方が仲間も多くて便利だろうに」
「NY大学に通ってたって言ったろ。あの辺りからは歩いて通うのに便利なんだ。友人も多く住んでいた。その時からずっと借りっぱなしなんだ」
 私は呆れて言った。「ずいぶんお気に入りなんだな。十年以上借りっぱなしか」
「返すのが面倒だっただけさ」
 それが理由だとは思わなかったが、私は彼の好意に甘えることにした。確かに部屋を探すのは手間がかかるし、東京を除いたら世界で最も物価が高いに違いないこのマンハッタンで、悪名高い日本のウサギ小屋よりもずっと狭いホテルに何日も泊まるのは最初から気が進まなかったのだ。この街で生活するには、いくら財布に札束が詰まっていても足りはしない。
「では、お言葉に甘えて、明日ホテルをチェックアウトして荷物を運ぶよ。そう言えば、荷物は君のお抱え運転手に預けたままだった。すまないが、ホテルに回してもらえないか、訊いてもらいたいんだが」
「それなら話は早い」ジョニーはにっこりと微笑んだ。悪戯小僧のような笑みだった。
 スーツのポケットから携帯電話を取り出すと、短縮ダイヤルを押して耳に当てた。「バートかい、こんな時間に手間をかけさせるけれど、ヴィレッジのぼくの部屋までケイスケのスーツケースを運んでおいてもらえないか?」
「おいおい」
 私が彼の手から携帯電話を取り上げようとすると、私を見てにやりと笑い、口元に人差し指を当てて黙るように指示した。、
「それから彼のホテルに連絡して、今夜の部屋をキャンセルしておいてくれ」
 携帯電話の通話口を手で塞ぐと、「どこのホテルを予約しているんだ」と聞いた。
「八番街と六十丁目のホリデーインだが」
 私が言うと、そのままバートに伝えて電話を切った。
「呆れたね。相変わらず君は物事をどんどん進めていく」
「それがビジネスの基本さ。この街では特に重要なことだ」ジョニーはカクテルを飲み干した。「さて、ドライブにでも行こうか。雪も止んだみたいだ」
 私もマンハッタンを飲み干すと、楊子に刺してある種なしオリーブを口に含み、ストゥールから降りたった。

***********************************************************************************************


著者: 福家 成子
タイトル: ニューヨークこだわりレストラン・ガイド―Best 50 Selection
著者: ザガットサーベイ, 横川 潤
タイトル: ザガット ニューヨーク―ニューヨーカーが選んだTOPレストラン
著者: 横川 潤, 「旅名人」編集部, 富岡 敦
タイトル: ニューヨーク―「食」の世界首都を行く



■最後のさよなら■ 第7回


*********************************************************************************************** 二〇〇〇年 マンハッタン・冬

<06>


 


(c) FreeFoto.com
マンハッタン炎上計画「マンハッタン炎上計画」さんの画像

 シカゴを経由して到着したラガーディア空港はまとわりつくような湿った雪が降りしきっていた。この雪のせいで、国際線が到着するジョン・F・ケネディ空港から回されてきた便がかなりあったようだ。寒い寒いと連発している南米から到着したばかりらしい半袖姿の団体旅行客や、動物愛護団体が見かけたら目を剥きそうな毛足が長い毛皮に包まれた背の高いブロンド女性、両手に重そうなアタッシェケースを持って、どうやってスーツケースを取ろうかと迷っているでっぷりとした初老のビジネスマンなどでバゲッジクレームは溢れかえっていた。
 私が乗ってきた便が到着したのは、定刻よりも一時間以上遅れた夕刻で、ちょうどビジネスアワーを過ぎた帰宅時間だった。ラガーディアからマンハッタン島までは大した距離ではなかったが、ただでさえ気温が低い夕刻の雪の中を長い列に並んでイエローキャブを待たなければならないというのはどうにも気が重かった。
 回転式の荷物台からスーツケースを引きずり降ろし、さてこれからどうやって予約してあるホテルに向かおうかと考えていると、後頭部の上の方から野太い声が降ってきた。
「ミスター・クサナギ?」
「イエス」

 返事をしながら振り返ると、頭を短く刈り込み、黒いタートルネックの上に黒いジャケットを着て、日も暮れているのに墨を塗りたくったような黒いサングラスで目を隠した黒人の大男が私を見下ろしていた。二メートル近い上背で、ただでさえサングラスのせいで表情は読めず、チョコレート色の顔には感情が無かった。
「私はバート・キング。ミスター・リーがお待ちです」
「ジョニー・リーのことかい?」
「イエス」

 一言だけ答えると、男は私の大柄のスーツケースを二つとも軽々と持ち上げ、太い首を五度ほど角度をつけて前方を指し示して歩き出した。どうやら私に付いてこい、ということのようだった。
 私はコートの襟を重ね合わせ、バートという黒人の後を追った。ターミナルの建物を出ると雪はいっそう激しく吹雪いており、家路につくためにタクシーやシャトル便を待つ長い列ができていた。
 バートは二、三度歩く方向を変えた程度で、雪が吹き込んできて滑りやすくなった歩道を革底の靴で慣れた様子で歩いていった。タクシー乗り場の先に停車した真っ黒いリンカーンのトランクを開けると、スーツケースを投げ入れ、後ろのドアを開いて私に乗るよう促した。
 どうやらバートはジョニーが送って寄越したリムジンの運転手のようだった。車のサイズは結婚式やパーティに乗っていくようなストレッチ・タイプのリムジンではなかったが、タクシー代わりに使うには一般的なサイズのリモだった。到着した後で法外な料金を吹っ掛けてくる可能性がないとは言い切れなかったが、私の名前を知っていたのだから、白タクではないだろう。体格のよい肉体を黒いスーツに包み、黒いサングラスで表情を隠しているところはナイトクラブのボディガードかNBA選手のようで、リモの運転手と言われればそう見えないこともなかった。制帽をかぶっていないことと、白シャツにブラックタイを結んでいないことが私の持つリモの運転手のイメージとは違ったが、近頃では帽子をかぶらないのが流行りなのかも知れなかった。車に乗り込むと、革シートの後ろからは、すすり泣くようなサキソフォンの音色が静かに流れていた。
「ジョニーはずいぶん手回しがいいね。便名は教えておいたがリモが迎えが来るとは思わなかった。飛行機が遅れたから待たされたろ」
「大したことはありません」

 バートは筋肉が浮き上がった肩を微かにすくめて、私をリムジンの広い車内に押し込んでドアを閉めると、運転席に乗り込んだ。彼の体重でガクンとリンカーンが沈み込んだ。
 リンカーンは、道を舐めるように巨体を滑らせ、雪の中をマンハッタンに向かった。
「ずいぶん道が混んでるみたいだね」
 マンハッタンに向かう道路は、島から逃げ出すように渋滞が続いている反対方向に比べるとずいぶん空いていたが、それでも時折スピードを落とさなければならなかった。
「ご心配なく」振り返りもせずにそう言うと、バートはしばらくして高速道路を降り、一般道を走り始めた。
 窓の外の町並みはひどく寂れ、あちこちの壁にはスプレーで塗りたくった落書きが描かれていた。窓という窓には鉄格子がはまっており、お世辞にも平和な街という雰囲気ではなかった。街を歩く人の姿には白人は見られず、買い物をしたり、道端に佇んでいるのは黒人やヒスパニックばかりだった。
「ハーレムですよ」
 私が窓の外を目をやっていることに気が付いたためか、バートは自分から話しかけてきた。サングラスに隠された視線が私を観察していることが、バックミラー越しに見て取れた。
「昔、来たことがある。アポロシアターでゴスペルを聴いた」
「どうでしたか」
「ジャズでなかったのが残念だった。ぼくはマイルス・デイヴィスのファンなんだ」

 バートは鳩のようにクックックッと喉を鳴らした。どうやら、笑っているらしかった。「今度、最高のジャズをお聴かせしますよ。お望みならね」
「楽しみにしておくよ。ここはニューヨークだからね。最高の演奏が聴けそうだ」
「それほどでもありませんがね」

 バートはそれきり口を開かなくなり、音楽を止めてラジオのスイッチをひねった。
 鼻にかかったようなしゃべり方をするアナウンサーが早口でニュースを読み上げていた。「・・・紙が実施した最新の全米世論調査によれば、共和党では大統領選に出馬を表明しているキンボール・マクミラン下院院内総務が他の候補に大きく差をつける四二・三パーセント、カリフォルニア州のレナード・スタイン知事が三二・五パーセント、ニューヨーク州のローレン・オニール上院議員は二五・二パーセントの支持を得ています。ただ、先ごろ行われたニューハンプシャー州の予備選では共和党のオニール上院議員が他候補を上回る得票を得ており、今後本格化する予備選の行方が注目されます。一方、ハーヴェイ大統領に続く政権維持を狙う民主党は、ジェフリー・ゴードン副大統領がケンタッキー州のアラン・クック知事に大差を付ける五四・三%の支持を得ています。続いてウェザーレポートです。北東部を襲った寒波の影響で航空便には大幅な遅れが・・・」
 バートはフンと鼻を鳴らすと、「くだらん」と呟き、ラジオの電源を切った。
 リンカーンはハーレムを走り抜け、雪で真っ白に染まったセントラルパークを斜めに突っ切り、ミッドタウンのネオンが煌めくブロードウェイを南へ下っていった。隙間無く立ち並んだビル群にただでさえ空が小さく切り取られているマンハッタンは、降り続く雪ですっかり白銀のドームに覆われてしまったようだった。

(c) FreeFoto.com
(c) FreeFoto.com
 私はふと銃弾を避けて石造りの建物の間を歩いたサラエボの街を思い出した。それはまるで違った風景ではあったが、同じように建物に囲まれた街に冷たい雪が降りしきる情景は、戦火のサラエボと表面上は平和を取り繕っているマンハッタンとの間に奇妙な相似を感じさせた。私がサラエボに到着した日も同じように雪が降り続いていたのだ。サラエボとマンハッタンが違ったのは、こちらはどの車もクラクションをけたたましく鳴らして走り抜けていることだった。サラエボの街は銃声と爆音と、時折聞こえる怒号や悲鳴のほかはひどく静まりかえっていた。
 マジソンスクエアガーデンの巨大なドーム脇を抜けてダウンタウンに向かう頃になると、ネオンサインにハングル文字が混じるようになり、やがて漢字だらけの看板が目立つように変わっていった。チャイナタウンとリトルイタリーを分ける境界になっているキャナル通りから一本脇に入ったところで、バートは車を停めた。
「着きましたよ」
 バートは車を降り、後部座席に回ってドアを開いた。
 ヒュンと冷たい空気が吹き込んできて、私は身震いした。雪はいくぶん小降りになっていたが、厳しい寒さであることは変わりがなかった。
 リンカーンを降りて前を見ると、一階に漢字で名前が書かれた銀行の支店が入っている小ぎれいな建物があった。背の低い建物が多いチャイナタウン周辺では一際高く、ミッドタウンのビジネス街にあってもおかしくなさそうな建物だった。
 バートに促されて回転ドアを抜けると、黒髪をポニーテールにまとめた若い女性が中央の受付カウンターの向こうに座っていた。
 私がカウンターに近づくのを制して、バートが一言二言話しかけると、内線電話でどこかに連絡を取り、再びバートにこそこそとしゃべりかけた。
 そして、私の方を向くと「ようこそ、ミスター・クサナギ。リー社長がお待ちです」と言って、にっこりと微笑んだ。
 中国人は愛想笑いなどしないものと思っていたが、彼女の笑顔は日本の女性にはとても真似できそうもないほど素敵なものだった。ここを訪れた誰もが恋に落ちてしまいそうな笑顔だった。よほどこの仕事で高給をもらっているに違いない。
 私はバートの後をついて、カウンターの奥にあるエレベーターホールに向かい、一番奥のエレベーターに乗った。扉の横には最上階から十階下辺りまでしかボタンがない高層階専用エレベーターで、バートはポケットからクレジットカード大のプラスチック製キーを取り出すと、開閉ボタンの下にある差し込み口に差して、最上階のフロア・ボタンを押した。
 どうやら、これから会おうとしている人物は、私が知っているジョニー・リーよりもはるかに重要人物らしかった。何しろ専用エレベーターで、専用のカードキーが無ければ近づくこともできないのだ。セキュリティにはことさらうるさいマンハッタンでも、厳重に守られた人物だった。
 マンハッタンには古い建物が多く、エレベーターはガタピシ動き出して、ガタピシ停まるのが当たり前だが、私たちが乗ったそれは、鳩の羽根がそよ風に吹かれるように舞い上がり、そっと地面に落ちるように静かに停止した。相当に猛スピードで上昇したはずだったが、聞こえたのは微かな風切り音くらいだった。
 チンという音が鳴ってドアが開くと、二階分ほど天井をぶち抜いた大きな空間にカウンターが置かれ、向こう側に座った中国人の受付嬢が顔いっぱいに笑みを浮かべてお辞儀をした。
 女性は立ち上がり、「ミスター・リーがお待ちかねです」と言いながら、優雅な身振りで翻って、私を手招きした。
 彼女が着た紅いチャイナドレスの切れ目からほっそりとした脚が覗いていた。
 前方にオーク製の上等な扉があり、金色の取っ手を押して重そうなドアを彼女が開けると、上等な調度品が置かれた部屋があった。
(c) FreeFoto.com
「マンハッタン炎上計画」さんの画像
マンハッタン炎上計画
 整然と片づいたマホガニー製のデスクの向こうに座っていたジョニー・リーが顔を上げ、満面に笑顔を浮かべて立ち上がった。
「遅かったね。待っていたよ」
 ジョニーは遠目でも上等な仕立てであることが分かる黒いスーツを着ていた。髪を整髪剤で固め、すっかり企業の幹部然としていたが、悪戯っぽい光を目の奥に浮かべる仕草はサラエボで会った時とまるで変わっていなかった。あの日以来、半分近くが白くなった髪の毛も、サラエボの市場で砲弾に切り取られた頬の傷もそのままで、笑うと口元が皮肉っぽく歪んだ。
「すまなかった。飛行機がなかなか着陸できなかったんだ。シカゴは大雪だった。それに君が迎えを出してくれるとは思わなかった」
「君を驚かせたかったんだ」

 ジョニーは大きな机を回ると、黒い革手袋をはめた右手を差し出した。私が彼の右手を握らずに見つめているのに気が付くと、口元を歪めて笑った。
「あの時のままさ」ジョニーは手袋のまま私の右手を握り、左腕を回して抱擁し、パンパンと背中を叩いた。
「懐かしいね、ケイスケ。君は全然変わっていない」
「君はずいぶん変わったよ。出世したみたいだね」
 ジョニーは再び皮肉そうに口元を歪めた。「ふふん。確かに大した出世さ」
「満足していないみたいだね」
「そんなことはないよ。まあそんな話はどうでもいい。食事にでも行こうじゃないか」
 ジョニーは窓際のハンガーに吊るされたツヤツヤした毛並みのコートを取って羽織ると、ドアの横の壁に寄りかかってポケットに手を突っ込んでいるバートに目をやった。
「やあ、バート。わざわざすまなかったね。後はぼくが彼を送っていくから、もういいよ。ありがとう」そう言うと、頭一つ分高いところにある大男の黒人の肩をポンポンと叩いた。
 バートは無表情に肩をすくめると、「イエス・サー」と言った。



***********************************************************************************************


著者: 吉田 ルイ子
タイトル: ハーレムの熱い日々―BLACK IS BEAUTIFUL

著者: 植草 甚一
タイトル: ハーレムの黒人たち



■最後のさよなら■ 第6回


*********************************************************************************************** 一九九九年 横浜・年末

<05>


 


(c) FreeFoto.com
(c) FreeFoto.com

 横浜の自宅にジョニー・リーから絵葉書が届いたのは、ボスニアの内戦が終結して何年も経った年末のことだった。
 リバティ・アイランドにある自由の女神を空から見下ろした写真の絵葉書は、マンハッタンなら、どこの土産物屋にでも売っているようなありふれたものだった。
 文章も素っ気ないもので、私の名前が書いていなければ、宛先が誰であってもおかしくなかった。


 ケイスケ、久しぶりだね。元気かい
 いつかニューヨークに来る機会があったら、
 連絡してくれ
                                      ジョニー


 文章の下にはマンハッタンの住所と電話番号が書かれていた。
 その頃、私の日常は慌ただしく、日々の生活に追われて、ジョニーのこともサラエボでの出来事もすっかり記憶の隅に追いやられていた。
 私がサラエボを離れてからもボスニア紛争は続いた。NATO軍がセルビア人勢力に空爆を行い、セルビア人側は報復に平和維持軍を拘束し、お互いが牽制しあった。内戦が終結したのはそれからしばらく経った九五年の十二月のことだった。アメリカのオハイオ州デートンで仮調印が行われた時には、世界中のマスメディアがボスニアで紛争があったことを突然思い出したように一面でニュースに取り上げ、和平の道のりは長く厳しいものだったと書き立て、アメリカの仲介を歓迎した。
 この内戦の間に、セルビア人とクロアチア人、ムスリム人の三つの民族はお互いに拷問や虐待を繰り返した。市民と兵士合わせて二十万人以上が殺され、二百七十万人以上が居住地を追い出されて難民となった。
「人は死に慣れるんだよ」
 ジョニーの言った通りだった。
 世界は回り続けていて、同じ国の中で殺し合っているボスニアのことばかり考えているわけにはいかなかったのだ。アメリカは冷戦後の世界を支配して世界中の富がこの国に集まるようになり、ウォール街は空前の活況を呈していた。誰も彼もがどうやったらドルを稼げるかということだけを考えていた。テレビでは新しい連続ドラマが始まり、もっと身近で物騒な事件が新聞を賑わせていた。人々は自分の生活を守らなければならなかった。住宅ローンの金利は上がり始め、慌てて新しい家を買った人たちは冷蔵庫と電子レンジを買い替えることに頭がいっぱいで、地球儀で場所すら見つけられないようなところで起きた他人の死など気にかける余裕は無くなっていたのだ。
 サラエボはボスニア・ヘルツェゴビナという大層な名前の共和国の首都になり、内戦の傷跡を癒すのに懸命だった。それは私も同じことだった。妻を病気で亡くしてかなり経っていて、義父母に預けた息子の航平もずいぶん大きくなっていた。妻を失くした悲しみは徐々に薄れ、ボスニア内戦は遠い国で起きた大昔の出来事となっていた。
 ジョニーから絵葉書が届いた時、私は週刊トゥデイの山脇デスクから紹介を受け、同じ出版社の書籍担当者からアメリカで行われる大統領選挙を一年を通してルポする企画のオファーを受けていた。既に何人もの政治家が選挙に出馬することを表明していた。年が明けると選挙活動が本格化するため、仕事を受けるならば、そろそろ取材活動の準備に入らなければならなかった。

(c) FreeFoto.com
(c) Yokohama Scenic Gallery
 春には党ごとの候補者を決める予備選挙が行われ、絞り込まれた候補者を中心に舌戦や中傷合戦が繰り広げられ、壮大な祭りは十一月第一火曜日の本選挙が終わるまで続くのだ。翌年に候補者のどちらかが大統領職に就くのは、キャンプファイヤの後の熾火のようなものだ。残りの就任期間中を燃え尽きないように息を吹きかけ続けていく毎日が始まるだけだった。
 アメリカの大統領選挙の取材は長丁場の仕事になるのは目に見えていたため、日本に残していく航平のことや、ほかにも抱えている仕事のことなどを考えて、私はその企画を引き受けることを躊躇していた。
 しかし、安物の絵葉書の中でトーチを頭上に高く掲げている銅製の女神像を眺めているうちに、私の気持ちはすっかり決まっていた。
 ニューヨークに行ってみよう。
 私は絵葉書を手に、受話器を取って国際電話の番号を押し始めていた。

 

***********************************************************************************************
著者: 松葉 好市, 小田 豊二
タイトル: 聞き書き 横浜物語―Yokohama Story 1945‐1965

著者: いしい きよこ, 石井 正孝
タイトル: 湘南アロハ―ハワイのように気もちよく暮らす


■最後のさよなら■ 第5回


***********************************************************************************************

<04>



 

 二月五日、晴れ渡ったサラエボの街の中心部で一発の爆弾が炸裂した。この日、広場で開かれていた青空市場は、いつものように日々の買い物を済まそうという市民でごったかえしていた。その人々の真ん中に迫撃砲弾が撃ち込まれたのだ。
 そのとき、私はプレスセンターで、ブツブツ切れる通信回線の品質の悪さに苛立ちながら、日本の編集部宛てにファクスを送っている最中だった。
 ジョニーはついていなかった。ちょうど青空市場で市民の買い物風景を撮影しているところだったのだ。
 空気を切り裂く、いつもの迫撃砲弾の接近音は聞こえなかった。突然、爆音と衝撃波が襲ってきたのだ。
 私が取るものも取りあえず、市場に辿り着いた時、そこは怪我人と怪我人を助け出しにきた人たちで溢れかえっていて、まるでラッシュアワーの山手線の中のようだった。爆発に続いて瓦礫の雪崩が襲ってきて、誰が負傷したのか分からないほど混乱していた。広場を囲む建物の一部が崩れ落ち、地面一面にガラスの破片が敷き詰められたように散らばっていて、おびただしい血が地面を深紅に染めていた。サラエボのどこに隠されていたのかと思えるくらい多くのパトカーと救急車がサイレンをけたたましく鳴らしながら駆けつけてきた。
 救急隊員が倒壊した商店の下から遺体や負傷者を引っ張り出しているのが目に入った。犠牲者の多くはムスリム人のようだった。
 瓦礫の山を取り除く手助けをしているところに、灰燼をかぶって真っ白な姿で救急隊員に抱えられたジョニー・リーを見つけた。
 彼がこの辺りでは珍しい東洋系でなければ、見分けがつかなかっただろう。彼はまるで下水道から上がってきたドブネズミのように煤と泥だらけになって、左手で右腕を押さえていた。手の先からは赤黒いドロッとした液体が滴り落ちていた。
 ジョニーは呆然とした表情で私を見つめた。「ケイスケ・・・やられたよ。なんてことだ・・・こんなことが・・・」
 それだけ言うと、視線が定まらなくなり、ふっと膝が砕けて崩れ落ちた。
「ジョニー」
 私は駆け寄り、彼の身体を抱え起こした。
 ジョニーの右腕はおかしな方向に曲がっており、右手にはあるべきはずの指が何本か見つからなかった。右の頬の肉がえぐられ、赤黒い血が噴き出していた。
 そんな傷にもかかわらず、ジョニーは肩から提げた泥だらけのニコンを左手で大切そうに抱きかかえていた。しかし、カメラのボディから生えていた望遠レンズはひしゃげて、レンズも割れていた。
「ジョニー」
 私は何度も彼に声をかけ、周囲に助けを求めた。
 しかし、負傷者を救い出そうとする怒号の前に、私の声はかき消されてしまっていた。


 サラエボの病院は戦時下はどこでもそうであるように慢性的な人手不足だったが、国連防護軍の庇護下にある地域では、赤十字の援助の甲斐もあって薬と治療設備はそれなりに備えられていた。とはいえ、大量に運び込まれた負傷者の治療にはまるで追いつかず、ジョニーの治療は後回しにされた。
 あれだけの凄まじい爆発の中心にいたにもかかわらず、ジョニーの怪我は命に関わるほどの重傷というわけではなかった。右腕は複雑骨折していて、右手は親指と小指以外の指先が無くなっていた。それでも、下半身を噴き飛ばされたり、金属のかけらが腹に突き刺さってのたうち回っているほかの患者に比べれば運の良い方だったのかも知れなかった。
 昨日までと比べて、彼の顔立ちはすっかり変わってしまっていた。疲れ切った医師が彼にようやく治療を施したのは夜中近くで、砲弾の破片にえぐられた頬の傷は醜い痕になっていた。黒々としていた髪の毛は半分近くが真っ白に変わり、一日にして十歳以上も歳を取ったように見えた。
 それでも彼は生きていた。この街ではそれは最も重要なことだった。
 彼が負傷したという連絡を受けたニューヨーク・タイムズはもういい加減に帰ってこいと帰国命令を送って寄こしたようだった。何よりも右腕が動かせない上にカメラが破損してしまっては、カメラマンとしての仕事はできなかった。
「残念だけど、次に乗れる便でニューヨークに帰るよ」
 意外にさばさばした表情をしていたので私は安心したが、それは空元気だったのかも知れない。カメラにしろペンにしろ、報道するための道具を失ってしまっては、ジャーナリストなどただの観光客と大差がない。真っ当なジャーナリストならそのような状態に満足するわけがなかった。
 市場への砲撃で多数の死傷者が出たことで、国際世論はセルビア人を厳しく責め出していた。NATOは、停戦に同意しないと空爆すると脅しをかけ、セルビア人側も今までのように無差別に砲撃を続けるわけにはいかなくなった。
 戦闘が小康状態になり、国連防護軍がザグレブまで輸送機を飛ばすというアナウンスが伝えられた日、私はジョニーを見送るために一緒にサラエボ空港まで装甲車に乗っていった。装甲車の泥で汚れたガラス窓からジョニーは熱心に街の風景を見つめていた。
 その日は雪が降り止んで空はすっかり晴れ渡っていた。
「ここも戦争が無ければ天国のように美しいところなのにね」ポツリとジョニーが言った。
 冬季五輪大会が開催された時、サラエボは「宝石のように美しい街」と形容された。アジアとヨーロッパの文化が混じり合うバルカン半島の美しい街は今は見る影も無かった。戦争が美しいものを陵辱する典型だった。
 防護軍の管理下にあるサラエボ空港は、私がこの街に来た時と同じまま滑走路の周囲に土嚢が積み上げられ、セルビア人からの攻撃に備えていた。
 装甲車から降りると、彼はふうっと息を吐き、大きく伸びをした。
 周囲を白い雪に覆われた山々に囲まれた様子は確かに雲間に浮かんだこの世の天国のようですらあった。ジョニーははるか遠くの稜線をまぶしそうに見やり、彼にしか見えないところを探しているようだった。
 やがて荷物が巨大な輸送機の腹に呑み込まれるのを見届けてから、振り返った。
「いろいろありがとう。君がいてくれて助かったよ」
「こちらこそ」
と、私は言った。「お大事に」
「君こそ気を付けて」

 彼は大きな絆創膏を貼って傷を隠した頬を歪めて笑顔を作った。白髪交じりになって疲れ切った表情が痛々しかった。
 ジョニーはずっしりと重そうなカメラバッグを一つ肩に提げ、申し訳程度に洋服などが詰め込まれたディパックを反対の肩にかけた。
 私は左手を伸ばし、彼の怪我をしていない左手を握った。
 事務官が飛行機が出発することを告げに来た時も私たちはさよならは言わなかった。さよならを口にすればもう二度と会うことが無いような気がしたからだった。
 ジョニーは国連のマークが入った機体から降ろされたタラップを上がりかけて振り返った。
「じゃあ、また」
 明日また仕事場で会おうとでもいうような口振りだった。
 私も右手を上げてそれに応えた。
 彼が機中に消えると、タラップがしまい込まれてドアが閉ざされた。一瞬でもここに留まりたくないとでもいうように飛行機は慌ただしく滑走路を走り出し、轟音を残して青空に吸い込まれていった。私はやり残した仕事を誰かに指摘されたような気分になった。
 やはり、さよならを言っておくべきだったのかも知れない。遠くの雲間に隠れようとしている機影を追いながら私はふと、そう考えていた。


***********************************************************************************************
著者: 水口 康成
タイトル: ボスニア戦記

著者: 天城 桜路
タイトル: ボスニア・ヘルツェゴヴィナ/セルビア・モンテネグロ (初級編)

■最後のさよなら■ 第4回


***********************************************************************************************

<03>

 

 ホリデーインに戻って、街のレポートを原稿用紙にまとめ、フロントからファクスを送るためにロビーに降りてくると、疲れ切って足を引きずるように戻ってきたジョニーに出くわした。
 私の姿を見つけると、ジョニーがはにかんだような口調で言った。「一緒に食事をしないか。一人で食事をするより気が紛れるよ」
 私はもちろん同意した。

 ジョニーは部屋にカメラバッグを持っていき、防弾チョッキを脱いでこざっぱりしたシャツ姿で階段を降りてきた。
 戦時下にもかかわらず、ホリデーインはきちんとしたサービスを提供し続けていた。スナイパー通りを向いた南側の部屋は銃弾にさらされて穴だらけだったので、北側の部屋にしか宿泊できなかったが、部屋に注文を付けられる状況ではなかった。ロビーまで降りていけば、たいていの場合、国際電話が通じたし、食事もできたのでほとんどの客は満足していた。何よりも酒を飲むことができるのがありがたかった。
 客の大半はジャーナリストだったが、何人かはビジネスマンもいた。砲弾が飛び交っている街でどのような商売が成り立つのかよく分からなかったけれども、どんな時にもビジネス・チャンスはあるものだ。それが証拠に市街の数カ所ではレストランが営業を続けていて、まともなウイーン料理とワインを提供していた。ディスコやカフェすらあった。金に糸目を付けなければ戦場であってもほとんどのものが手に入るものだ。唯一平穏な日々だけが望んでも手に入れられなかった。
 私とジョニーはホテルの地下にある、人影のまばらなレストランに入り、ウエイターを呼んで何が食べれるのかを聞き、仔牛のローストにポテトを付け合わせたものとボスニア風のハンバーガーとビールを注文した。

 ジョニーは先ほどの礼を言い、私はどういたしましてと応えた。
「カメラマンの仕事は長いのか」ビールが運ばれてくるのを待ちながら、私は訊いた。
「五年くらいかな。それまではニューヨーク大学の写真学科にいたんだ」
「それでニューヨーク・タイムズか。生っ粋のニューヨーカーなんだね」
「生まれも育ちも中華街だ」ジョニーは遠くを見るような目で、ぼんやりと呟いた。
「あの街もずいぶん賑やかなところだけど、ここよりはましだな」
「そんな言い方をしないでいいよ。あそこはひどい街さ。ここと同じようにしょっちゅう殺し合いがある。みんな慣れっこになって、あまり気にしなくなっているだけだ。ニューヨーク市警がなんとか秩序を保っているけれど、中華街の中に入ると未だに治外法権みたいなもんだからね。そのうちここだってそうなるよ。新聞がボスニアとかサラエボって文字を載せなくなるんだ。毎日のように人は死んでいくけれども、それだけじゃニュースにならないからね。ぼくが子供の頃は中華街でもずいぶん撃ち合いがあったものさ。でも、どの新聞も記事になんかしなかった。人は死に慣れるんだよ。それが自分や身内の死でなけりゃね」
「気が滅入っているようだな」
「あの爆弾が破裂した時、ぼくはすぐ近くにいたんだよ」
 ジョニーは悲しそうな表情をした。
「君はなぜカメラマンになったんだ」
「写真は嘘をつかないからさ。写真はいつだって真実を写すんだよ」
「それなら君がやるべきことは決まっている」
「真実はとても残酷だ」
「でもそれを知らせていくのが、君やぼくの仕事だ。事実を報道することを止めちまったら、新聞なんていらなくなる。感想文を書くだけなら小学生にもできるぜ」
「分かってるさ。けれどもどうだい、ここに来てぼくらにいったい何ができるんだ。ぼくらが送っている写真や記事は本当に戦争を止めさせる役に立っているんだろうか。時々ぼくはそう思うんだ」
「それなら君はなぜこの街にいるんだ」と、私は訊いた。
「もちろん仕事だからさ。それに戦場にいれば、思わぬスクープ写真だって撮れるかも知れないじゃないか。今日はいい写真をずいぶん撮影したよ。ピュリッツァー賞を取るのは街の風景よりも戦場の写真の方がはるかに多いんだぜ」
 彼は私より一つ年下だったが、私よりもはるかに野心的でぎらぎらした目を持っていた。それにもかかわらずひどく疲れて人生に絶望しているようにも見えた。彼がピュリッツァー賞を本気で欲しがっているようには見えなかった.
「ねえ、ケイスケ」知り合ってから初めて、彼は私をファーストネームで呼んだ。「人はなぜ殺し合うんだろうね」
「どうしたんだ、急に」
「マンハッタンではね、一年間に何百件も殺人事件があるんだ。そのうちの何割かは金目当てで、五ドルとか十ドル札のために人を殺すんだ。でもね、彼らは生きるために殺して金を奪っていく。それよりたちが悪いのが縄張り争いに精を出している連中さ。奴らはビジネスで人を殺していくんだよ」
 ジョニーは追加で注文したウイスキーをあおった.
「今日はずいぶんおしゃべりなんだね」
「少しくたびれているんだ。男はくたびれるとおしゃべりになるか、黙りこくるかのどちらかだ」
「女はどうなんだ」
「女はいつだっておしゃべりさ」と、彼は言った。
 彼はどうやら先ほどの砲撃の衝撃から脱け出ることができないようだった。
 私は話題を変えることにした。
「家族は心配しているだろう」
「どうかな。父親とはあまりうまくいっていないんだ、ぼくがこんなカメラマンの仕事をしているからね」
「反対なのか」
「自分の跡を早く継げってうるさいよ」ジョニーは思い出したように苦笑した。
「それは心配しているのさ。結婚はしていないのか」
 彼は肩をすくめた。「独身でなけりゃ、こんな危ない場所に来やしないよ」
「そうだね」
 私が頷くと、彼ははにかんだように言った。「でもね、本当は結婚の約束をした女性がいるんだ。帰ったら式をあげるんだ」
「おめでとう、それならなおさら危険なことをするわけにはいかないじゃないか」
 ジョニーは照れ笑いを浮かべた。
「君こそどうなんだ。奥さんがよく許したね」
「ぼくの妻は半年前に死んだよ。病気だったんだ」
 彼は私の顔をじっと見つめて、やがて言った。「悪かった。訊かなければ良かったな」
「いいんだ。気にしてない」

 私たちはしばらくの間、黙ったまま飲み続けていた。
 妻は死んだが、私に家族がいなかったわけではなかった。鎌倉の妻の実家には一歳になったばかりの息子の航平がいた。妻が死んで私はそれまで勤めていた新聞社を辞めた。息子の航平は、母親がいなくなったことをよく理解しておらず、葬式の時にも無邪気に遊んでいた。私は一歳の子供のように無邪気に振る舞うことはできなかった。酒量が増えた私に孫が虐待されるのではないかと心配した義父母が息子を引き取っていった。その危惧は幸いにも当たらなかった。私はアルコール中毒になる寸前で週刊トゥデイの山脇デスクと知り合い、山のように仕事を受けるようになった。週刊誌の仕事は人の死すら忘れさせるほど、慌ただしくせわしないものなのだ。
 もっとも今回のサラエボ取材は山脇に頼まれた仕事ではなかった。彼は危険だから止めておいた方がよいと言っていたのを、現地ルポを掲載したいと話していた編集長に頼み込んで、無理矢理に仕事を回してもらったのだ。
 私はもっと息子のことを考えてやるべきだったのだろう。私がここで死んでしまえば航平は親を失くしたサラエボの子供たちと同じ境遇になってまう。だが、妻の死は私に他のことを考える余裕を与えてくれなかった。
 ジョニーは人は死に慣れる、と言った。けれども決して忘れることができないこともあるのだ。たとえ死に慣れても思い出はいつまでも残っていた。
 私がビールを一杯飲む間に、ジョニーはウイスキー・オンザロックを水のように飲み干していた。食事を終えてもそのペースは変わらなかった。やがて、暇を持て余して近づいて来たウエイターに、私はバーボンを頼み、彼はチャイナ・ブルーを注文した。
 背の高いコリンズグラスに入ったライチリキュールがベースの青いカクテルを見て私は言った。「ずいぶん甘ったるい酒を飲むんだね」
「ライチの酒にトニック・ウォーター入りだよ。健康にいいんだ。ぼくはいつだって健康に気を付けて酒を飲んでいるんだ」ひどく眠そうな声だった。
「戦場で聞く台詞じゃないな。それに君は飲み過ぎている、健康にいいわけがないぜ」
 彼は私の言葉を聞いていないかのように呟いた。「ぼくは合衆国に帰るんだ。きっと百歳まで生きてピュリッツァー賞を取るんだよ」
 青色のカクテルを一口二口あおると、彼は身体を前後に揺らし始め、しゃべっている言葉も呂律が回らなくなり、やがてテーブルに突っ伏していびきをかき始めた。

 ウエイターがまた近づいてきて、身振りで困ったものだといった仕草をした。
 私はすまないね、と英語で言い、マルク札を数枚テーブルに置いた。今時のサラエボでは米ドルよりもドイツマルクの方が使いでがあるのだ。
 ウエイターはジョニーを立たせる手伝いをしてくれて、気にすることはない、酔っぱらえる人間は幸せだと言い、札を数えないままきれいに畳んでベストのポケットにしまい込むと、チップをどうもありがとうと訛りのある英語で丁寧に礼を言った。どんな時でも礼儀正しいウエイターがいるレストランは気持ちがいいものだ。
 私はジョニーを抱えて階段を上り、彼の部屋に連れていってベッドに寝かせてから、布団をかけた。大きなジェラルミンのカメラケースが二つ、テーブルの脇に置かれていた。一つは口が開いていて艶光りするカメラがわずかに顔を覗かせていた。もう一つのケースは蓋が閉まっていて鍵がかけられていた。見るからに重そうなしっかりとしたバッグで、中のカメラを厳重に守っていそうだった。
 窓の外はすっかり暗くなっていて、雪が降り続いていた。こちら側の部屋の窓からは少なくとも狙撃される心配はなかった。でなければ安心して眠ることもできない。ジョニーは静かに寝息を立てていた。私はこの街では貴重な資源である白熱灯の灯りを消して、部屋を出た。砲撃や銃撃が無ければ、ひどく静かな街だった。

 週刊トゥデイの編集部でボスニア内戦ルポの話が出た時、私は特にサラエボに来たいと考えたわけではなかった。だが、来れば何かが変わるかも知れないと思ったのだ。確かに私の人生は変わったのかも知れなかった。
 もっとも、人生などいつだって思わぬ方向に転がっていくものだ。それは私だけではなかった。ジョニー・リーの人生もやはり予想もしなかった道を転がり始めていた。



***********************************************************************************************

著者: 木村 元彦
タイトル: 終わらぬ「民族浄化」セルビア・モンテネグロ

著者: 大石 芳野
タイトル: コソボ絶望の淵から明日へ


■最後のさよなら■ 第3回


***********************************************************************************************

<02>


 翌日、雪は降り止んで、空は真っ青に晴れ渡った。フランス兵の言った通り雪は夜のうちに二十センチほど積もり、街は白い布に覆われたようになっていた。


 その日、私は通訳を頼んでいたオスロボジェニェ紙のサニャ・ストヤノビッチ記者と市内を回る予定になっていた。オスロボジェニェ紙はサラエボの日刊紙で、このような状況にもかかわらず毎日発行を続けていた。内戦が始まる前に比べて部数こそ大きく減ったものの、この戦時下に政府のお抱えで記事を垂れ流すのではなく独自に取材をして紙面を作り続けている新聞が存在しているのは奇跡に近いことだった。
 ホテルまで迎えに来てくれたストヤノビッチ記者に会って、サニャというのが女性の名前であることを知った。通訳を依頼した時には名前しか聞かされていなかったので分からなかったのだ。彼女は二十代半ばで、サファイヤのように澄んだ蒼い眼をしていた。亜麻色の髪を短く刈って毛糸の帽子の下に隠し、思春期の男の子のように鼻の頭にそばかすを浮かばせていた。化粧っけはなかったが、様々な人種が混じり合うバルカン半島の多くの女性がそうであるように、きりっと整った美しい顔立ちの女性だった。
「サラエボの街へようこそ」私の手を握りながら、彼女はドイツ語訛りが混じった英語で言った。
 その日、彼女は久しぶりの休日にもかかわらず、私の取材に付き合ってくれたのだ。
「人と話をするのが好きなの。だから新聞記者になったのよ。戦争の取材がしたかったわけじゃないわ。でも、記者になる前はピアノを教えていたのよ」
「ぜひ聴かせてもらいたいね」

 そういうと彼女は笑って言った。 「残念だったわね。この前の砲撃で家のピアノは壊れちゃったわ。最近はカメラの勉強もしているのよ。人出不足で写真も撮影しなくてはいけないから。写真ならそのうち見せてあげられるわ」
 サニャは観光ガイドよろしく、サラエボ市街を案内してくれ、空港近くの前線近くにまで連れていってくれた。
 私が昨日は装甲車に乗って観光ツアーに出かけたことを話すと、彼女は不満そうな表情を浮かべた。「ガイドの運転手はフランス人だったんでしょ。だったら、地元の人間の方がいいところも悪いところも案内できるわ。ここは私たちの街なんだから」
 時折、パーンという風船が破裂するような狙撃音が聞こえてきた。今のところ砲弾が雨のように降ってこないことが救いだった。いくら大きな傘を持っていても、この雨ばかりは濡れずに済ませることは難しかった。第一、私は傘を持っていなかった。私だけでなくこの街で傘を差してのんびり歩いている人間は皆無だった。ここはロンドンほどには安全ではないのだ。
 石造りの建物に両側から挟まれた狭いけれども狙撃者に狙われることがない安全な通りを縫うように歩きながら、サニャが言った。「この戦争は誰が悪いわけじゃないの。もちろん街を取り囲んでいるセルビア人のせいでもないわ。彼らは世界中から悪者扱いされているけれどもね。私たちクロアチア人やムスリムの人たちにだって内戦の責任はあるわ。でもね、憎しみを助長させているのは私も含めてマスメディアなのよ。お互いのメディアが相手の悪行を暴きたてればたてるほど憎しみが増していくの」
「政治がメディアを戦争の宣伝に使うのはヒトラーの時代からの常識だよ。何もこの戦争が初めてというわけじゃない」
「そうね。でも私たちはきちんと事実を報道しているのかしら、お互いの憎しみをかき立ててるだけなんじゃないかしら。時々それが心配になるのよ」
悲しそうな表情で彼女は言った。
「そう思っているのは君だけじゃない」
 私は慰めるように彼女の肩を叩いた。
 ジャーナリストに迷いがあるというのは決して間違いではない。報道が誤った方向に人々を導いて大きな悲劇を招いたことは数え切れないほどだ。古来、自分たちが正義であると疑わずに、為政者たちは数々の残虐な行為を行ってきた。新聞やテレビのようなメディアが、それを正当化することに加担してきた。報道は決して絶対ではない。しかし、記事を読んだ人々はそれを正しいものとして受け入れがちだ。ほとんどの場合、その記事を書いた人間は、それが間違っているなどとは思っていないことの方が悲劇なのかも知れなかった。本当に正しい報道をしているかどうかを自問しながら記事を書いていくことで独善に陥る危険性は多少なりとも減る。サニャは優れたジャーナリストになる素質を持っていたのだ。
「実はね」サニャは言いにくそうに口ごもった。「私にも半分セルビア人の血が混じっているのよ」
 バルカン半島は様々な民族が混じり合って生活している人種の坩堝だ。本来、宗教や言葉が多少違っていても、味付けを少々間違えた料理程度の差でしかないはずだった。しかし、そうはならなかった。お互いに料理の味付けに文句を言い出し、殺し合いを始めたのだ。
「君が戦争を始めたわけじゃない。気にすることはないさ」と、私は言った。
 彼女が言う通り、この内戦ではセルビア人ばかりが悪者扱いされてきた。確かに彼らはサラエボを包囲しているし、村を焼き払って、女を襲い、大勢の命を奪った。けれども同じような罪は日本やドイツが第二次大戦で犯し、アメリカがヴェトナムで犯してきた。この戦争でもクロアチア人やムスリム人がセルビア人と同じ過ちを繰り返している。セルビア人ばかりを非難するのは正当ではなかった。しかも彼らは侵略者ですらなく、数百年の昔からこの地に住んでいる住人なのだ。
「でも自分の血を気にする人はいるわ」
「ぼくにだって四分の一は大阪人の血が流れているけれど、ジョークは下手くそだ」

 サニャは怪訝そうな顔で私を見つめた。彼女を励ますつもりだったが例えが悪すぎた。面白くない冗談は、下手な慰めと同じくらい始末に負えない。死んだ妻の玲子にも、あなたの冗談は皮肉にしか聞こえないと、よく嫌みを言われたものだ。
「よく分からないけれど励ましてくれているのね。ありがとう」
 サニャは雲間から覗いた太陽のような笑顔を見せた。
 私は彼女の肩に手を置いた。「君が何人であろうと理解してくれている人はたくさんいるよ」
「そうだといいのだけれど」


 彼女がそう言った時だった。ヒュルルルという空を切る音が聞こえてきた。サラエボに来て数日しか経っていないのに何度も聞かされた嫌な音だった。その次に何が起きるか分かっていたから、私とサニャは顔を見合わせて頷き、道の端の雪だまりに伏せて両手で耳を覆った。建物の陰になっていたので衝撃波こそやってこなかったものの、耳許でドラを叩いたような大きな音が私たちを襲った。石造りの建物がビリビリと揺れ、屋上から瓦礫がパラパラと落ちてきた。
 私は立ち上がって彼女が起きるのを手伝い、耳鳴りがする頭を振った。「大丈夫か」
「ええ、大丈夫。慣れているわ」
そう言いながらも彼女の唇は震えていた。
 砲弾は近くに着弾したようだった。しばらくすると、狙撃される可能性があるというのに、大勢の市民が何かを叫びながら建物から飛び出してきた。
 サニャの顔がさっと青ざめた。「大変、人がいるところに砲弾が落ちたって・・・」
 私とサニャは市民たちに混じって、音がした方に走った。
 瓦礫と見違えるような崩れかけた建物の陰に大勢の人たちが集まって、叫んでいた。防護軍のトラックが二台、近くに停まっていて、何人かの兵士が騒ぎの中心で大声をあげていた。
 援助物資を受け取るために並んでいた市民の列に迫撃砲の砲弾が落ちたのだ。
「なんてこった・・・」
 かなりの死傷者が出ているはずだ。
 手伝いに駆けつけようにも、人々の輪が大きくなっており、何が行われているのかさえ見ることもできない状態だ。
 その輪のすぐ外側で、見覚えのある顔を見つけた。ジョニー・リーは青ざめた表情でニコンを構え、負傷者を助け出そうとする人々の姿を憑かれたように撮り続けていた。
「あの人・・・」サニャがジョニーの姿を見つけて、呟いた。
「知っているのかい」
「ええ。一週間くらい前に、同じように街を案内してあげたの。写真の撮影の仕方を教えてもらったわ」
「ぼくとは同宿なんだ」
「そうでしょうね。ホリデーイン以外にホテルなんて無いんだから」

 一心不乱に撮影をし続けるジョニーの後ろから、ほっそりとしたジョニーよりも一回り以上は上背がありそうな体格のいい中年の男が、何も気が付いていない彼を睨みながら近づいていった。
 男はカメラを構えているジョニーの肩を左手で鷲掴みにすると、自分の方に振り向かせた。そして、一言二言話しかけ、おもむろにジョニーを殴り倒した。手に持ったニコンを放り出し、ジョニーは雪の中に顔を突っ込んだ。男はブーツで倒れたジョニーの腹部を蹴り上げた。
 なおも、蹴り続けようとする男の背中に、私は飛びかかって羽交い締めにした。
「もう止めておけ」私は英語でそう怒鳴り、肩越しにサニャを振り返った。「こいつをなんとかくれ。振り落とされそうだ」
 狂ったように腕を振り回して私を捕まえようとする男をなだめるようにサニャは話しかけた。サニャがセルビア・クロアチア語で何かを語りかけるうちに、男の興奮は収まってきたようで、身体の硬直が徐々に融けていった。
 私は男の背中から降り立ち、ふうと息を吐いた。早口でサニャと話している男を後目に、私は雪の中でうずくまっているジョニーの肩に手をかけた。
 こちらを振り向くと、口の端が切れて血が流れていた。倒れていたところの雪が鮮血に染まっていた。
「大丈夫か」
 声をかけると、私に気が付いて、ばつが悪そうな表情を見せた。
「うん、なんとかね。すまなかった」
 起き上がるのを助けながら、雪の中に投げ出されたニコンを拾い出し、ボディから雪を払ってレンズに傷がないのを確認してから、手渡した。
「ありがとう」
「何でもないさ」
と、私は言った。
 ジョニーはサニャが近づいてきたことに気が付き、驚いたような表情で私と彼女を交互に見比べた。
「彼はあなたが興味半分で写真を撮っていると怒っているわ」と、サニャが言った。
「興味半分だって・・・これは報道だろ。写真を世界中の人に見てもらうことで真実を知ってもらいたいだけだ」ジョニーは手の甲で口の端に付いた血を拭い、母親に叱られた子供のように口ごもりながら言った。
「でも、彼はそう思っていないわ。カメラマンだって写真を撮る前にすることがあるはずよ」
「ぼくに何ができるって言うんだ」
「あたしの意見じゃないわ」
「じゃあ、あいつの意見か」
「いいえ、この街よ」
毅然とした態度でサニャは言った。
「さあ、ここでやるべきことはもうないはずだ。行こう」私は二人に声をかけた。
「どこへ・・・」二人が同時に私の顔を見た。
 私は顎をしゃくって、人だかりが移動している先を示した。
 市民と防護軍の兵士は協力しあいながら、砲弾が落ちたすぐ近くにある建物に負傷者を運び込んでいた。私は二人と連れ立って、建物の中に入っていった。その建物の一階はダンスホールのようで、片隅に壊れたグランドピアノが置かれていたが、音楽はもうずいぶん前から演奏されていない様子で、すっかり埃まみれになっていた。ホールの中は空気が湿っていて、ひどくカビ臭かった。
 ジョニーはカメラを抱えて呆然としていた。辺りには悲鳴と泣き声、怒号が満ち溢れていた。
「行きましょう・・・」その光景をじっと見つめていたサニャが悲しそうに呟いた。「ここにいても、あたしたちにできることは何もないわ」
 私は頷き、ジョニーの肩を叩いた。
 ジョニーは無表情に私の顔を見つめたが、頭を振った。
「この戦争を早く終わらせなくちゃいけない」
 そう言って、カメラを構えようとしたが、再び胸の前で温めるようにレンズを握りしめた。
 私とサニャは一言も会話を交わさず、ジョニーを残したまま建物を離れた。

 サラエボの中心街に戻り、街を案内してくれたお礼にと食事に誘ったが、彼女は固辞した。
「ありがとう。でもせっかくだけれど今日はそんな気分になれないわ。ごめんなさい」
 それは私とて同じ気持ちだった。
 やがて、サニャはさよならといい、手袋を脱いで私の手を握った。「さよなら、ケイスケ」彼女は私の名前を呼んだ
「さよなら。いつまでも元気で。美しい祖国が戻って来ることを祈っている」
「ありがとう。またいつか会いましょうね」

 私は頷いた。「戦争が終わったらきっと」
「約束よ。その時はあたしのピアノを聴かせてあげるわ」

 サニャは表情を和ませ、口元に微笑みを浮かべた。
「約束だ」私も笑って言った。
 サニャはジャンパーの襟元を重ね合わせて手袋をはめると、戦場の街をゆっくりと歩き始めた。私は雪の中に消えていく彼女の背中をいつまでも見送った。



***********************************************************************************************
タイトル: パヴァロッティ&フレンズ~フォー・ザ・チルドレン・オブ・ボスニア

著者: 伊藤 芳明
タイトル: ボスニアで起きたこと―「民族浄化」の現場から



■最後のさよなら■ 第2回


*********************************************************************************************** 1994年 サラエボ

<01>


 

 彼と初めて会った時、サラエボの街では激しい戦闘が続き、毎日、市民がボロ切れのように殺されていた。
 九四年の二月が始まったばかりの寒い日のことだった。九二年春から始まったボスニア内戦は間もなく丸二年を迎えようとしていたが、未だに終息の気配すら見えなかった。サラエボは相変わらずセルビア人勢力に包囲されたままで、陸の孤島だった。誰もが先を争って逃れようとしているこの街にわざわざ訪れるのは、スタンドプレイの派手な政治家と、功名心か同義心のどちらかが強いジャーナリストくらいのものだった。


 私たちはサラエボ市内で唯一営業を続けていた宿泊先のホリデーインの薄暗いロビーに集まり、国連防護軍の装甲車が到着するのを待っていた。その日も朝から激しく雪が降り続いていた。午後になってセルビア人陣地からの砲撃が収まったため、私たちは前線となっている地域に連れていってもらうことになっていたのだ。この街では装甲車両でなければ移動の安全すら確保することはできなかった。
 彼は冷え切った大理石のロビーに腰を下ろし、傷だらけのニコンの一眼レフを大切そうに手のひらで温めていた。まるで卵を温めて孵化させようとしている母鳥のようだった。サラエボの街を歩き回る外国人ジャーナリストには防弾チョッキの着用が義務づけられており、上から着込んだ灰褐色のフライトジャケットがピチピチに弾けそうになっていた。彼は少し長く伸びすぎた黒い髪を、煩わしそうに掻き上げた。

 彼の格好は日本人と変わらなかったので、私は日本語で話しかけてみた。しかし、彼はきょとんとした表情で私を見上げ、はにかんだように分からないと首を振った。
「ぼくはジョニー・リー。合衆国から来ているんだ」きれいな米国英語で自己紹介した。
 私は手を差し出して、彼の手を握った。ジョニーの手は氷のように冷たかったが、私の手もきっと同じように冷え切っていたに違いない。草薙啓介(くさなぎけいすけ)。ぼくは日本からだ」
 彼は、自分が中国系アメリカ人で、ジョニーは愛称なんだよと言って中国語で本名を教えてくれたが、私には彼の中国語の発音がまるで聞き取れなかった。彼は笑って、ロビーの湿った床に漢字で李祥榮(リー・シャンロン)と書いて見せた。私も漢字で自分の名前を書いて見せると、分かったというように頷いた。
「すまなかった。ニコンを持っていたから、てっきり日本人かと思った」
「残念だけど、日本に行ったことはないんだ。合衆国を出たのも初めてなんだ」
「初めての海外旅行にしては、ずいぶんひどいところに来たものだね」
「仕方がないよ」
「彼は肩をすくめた。「仕事なんだ。ニューヨーク・タイムズで働いているんだよ。カメラマンなんだ」
「仕事だっていうのは分かっている。誰も好きこのんでこんなところに観光に来たりはしないだろうからね。ぼくは日本の雑誌の仕事で来ている」

 私たちはお互い、ひどいところに来たものだと、笑いあった。


 私の方はといえば「週刊トゥデイ」の取材で、一週間前にボスニアの首都であるザグレブに入り、三日前に国連防護軍機でサラエボに到着したばかりだった。ジョニーは一週間前からホリデーインに泊まっていると言った。
 ザグレブからサラエボまで来る便の時刻表はまるで当てにならず、今日の午後には出発できそうだ、明日は飛べるだろうという事務官の台詞をさんざん聞かされ、待ちくたびれたジャーナリストたちがあそこに停まっている飛行機は張り子で実はエンジンが載っていないんだぜ、と真面目に噂し始めた頃になってようやくサラエボ行きの防護軍機は出発した。それはカバのようにでかい図体の輸送機で、私たちはサラエボ市民用の援助物資と一緒に胃袋のような機内に押し込められた。乗り心地はまるで脚が三本しか無いラクダの背中にまたがっているようにガタピシしたものだったが、墜落しないだけましだったし、何より文句を言える筋合いではなかった。
 空港に到着した時、サラエボは激しい銃撃戦の真っ最中だった。週刊トゥデイからは年配のカメラマンが私と一緒に派遣されてきていたが、ここのあまりの凄惨さに怖じ気づき、親戚に不幸があったという連絡が入ったのをいいことに、ホテル周辺の風景を何枚か撮影しただけで予備のキヤノンと、広角と望遠のレンズを二本、それと大量のフィルムを私に押し付け、早々に帰国してしまった。
 確かにそれが賢明なやり方だった。彼は妻子持ちだったのだ。
 市民であろうとジャーナリストであろうと関係なく狙撃される恐れのあるこの街では、命の値段は一ドル札よりも価値が無かった。私たちの「プレス」という肩書きは市民よりも安全を保証される立場にあったが、銃口の前に出てしまえばそんな保証書は紙切れ同然だった。


 ホリデーインには、欧米の新聞社やテレビのスタッフ数十人が宿泊していた。同僚が退き上げてしまった今となっては、日本人は私のほかにはいなかった。日本の新聞社やテレビ局は記者の生命を危険にさらすことを嫌って、最前線のサラエボまで記者を派遣することは滅多になかったのだ。このところセルビア人勢力の攻勢が強まっており、サラエボの街は陥落寸前との見方もあって、街から退却するジャーナリストは増えていた。日本の新聞報道は、最も戦地に近づいたとしても国連軍の庇護下にあるザグレブ発がいいところで、実際のところは欧州総局が置かれているパリやウイーン、NATO軍の拠点があるブリュッセルからの打電がほとんどだった。弾の飛び交う戦場にまで足を運ぶのはいつものようにCNNやどんな危険な場所にも入り込んで来るロイターのような通信社、スクープ写真を狙うフリーのカメラマンと私のようなルポライターくらいのものだった。
 やがてガラガラと機関が壊れたような大きな音を立ててやって来た国連防護軍の装甲車に私たちは乗り込んだ。定員以上に押し込められて、中はひどく狭くて窮屈この上もなく、重油の臭いと体臭が混じり合った空気で胸がムカムカしたが、移動の足が無いよりはずっとましだ。少なくとも白タクのように法外な料金をふっかけられる心配はないのだ。流しのタクシーなどサラエボのどこを見回しても見つからなかったし、バスや路面電車さえ動いていなかったのだ。

 白い塗装を施して国連のマークを貼り付けた装甲車は市街の中央を走る大通りをゆっくりとしたスピードで走っていった。瓦礫や穴だらけになって壊れた自動車が道を塞いでいるので、真っ直ぐには走れなかったのだ。

(c) FreeFoto.com
(c) FreeFoto.com

 私たちと一緒に乗り込んでいたフランス軍の兵士が、下手くそな英語で、この通りにはボイボダ・ラドミル・プートニク通りという大層な名前が付いているが、内戦が始まってからはほとんどこの名前は使われていないと教えてくれた。川向こうの街のすぐ外側まで迫ってきているセルビア人の兵士が、高層ビルの窓からこの通りを駆け抜けようと試みる無鉄砲な市民や通行車両を射的の標的のように待ち構えていて多くの死者を出していた。街のこちら側からもボスニア政府の狙撃手がセルビア人兵士を狙って銃星を覗き込んでいたため、自然に付いた通称はスナイパー通りだった。この通りに面して被弾していない建物など一つも残っていなかった。
 装甲車は砲弾で穴だらけになった前線を視察した後、ドイツ人記者のリクエストで以前はサッカー場として使われていたスタジアムに向かった。内戦が始まって以来、ここでサッカーの試合が行われたことは一度もなく、今では足りなくなった共同墓地の代わりになっていた。地面はすっかり掘り返され、数え切れないほどの十字架が立ち並んでいた。
 相変わらず雪が降り続き、夕闇が迫って気温はどんどん低くなっていたにもかかわらず、死亡した市民の葬儀が何組も行われていた。夕刻に葬儀を行うのには理由があった。昼間は砲撃や狙撃が激しくて棺桶を運び込むことすらままならなかったのだ。
 朝から晩まで狙撃に精を出すセルビア人も、夕暮れが迫ればウォール街の証券マンと同じように休息を取る。戦争を行っているのは命令に忠実に従う機械ではなく、同じ血の流れた人間同士だった。街を取り囲んでいる人間も、街に取り残された人間も二年前までは隣り合わせで生活をしていた同じ国の住人だった。宗教や肌の色や言葉が違うというだけで人間はいとも簡単に殺し合いを始める生き物なのだ。

 近くに掘り返された墓穴の脇で、イスラム教徒であるムスリムの家族と思われる数人が肩を寄せあって、棺桶が降ろされていくのを見守っていた。コーランの詠唱が冷風に乗って微かに聞こえて来た。子供たちが親にしがみついていたのは、悲しさと同時に寒さが厳しかったからに違いない。革の手袋をしていても、冷気が針のように指先に突き刺さってきた。
 ジョニーは手袋を外して無表情にファインダーを覗き込み、葬儀の様子を撮り始めた。
「寒くないのか」私は訊いた。
「寒いさ。でも、手袋をしていては、いい写真は撮れないからね。女の子を扱うのと同じだよ。手袋をしたまま愛撫するわけにはいかないだろ」

(c) FreeFoto.com
(c) FreeFoto.com
 私は苦笑して、彼が撮影を続ける様子を見守った。ジョニーは壊れやすい女性の身体に優しく触れるように、大切にニコンを扱っていた。
 私は慣れない手つきで、同僚が残していったキヤノンのファインダーを覗き込み、シャッターを切った。
 撮り終わったフィルムを交換しながら、ジョニーが言った。「日本人は機械を作るのが上手だね。ぴたっと手に馴染むし、写真の出来具合も人を裏切らない」
「いい女みたいだろ」
「日本人の女の子とは付き合ったことがないんだ」
「カメラと同じさ」

 私がそう言うと、ジョニーは謎めいた笑みを浮かべて撮影に戻っていった。


 雪は相変わらず降り続き、薄汚れた装甲車両を白く塗装し直すように覆い始めた頃になって、フランス人の兵士が短くなったジタンを投げ捨てて、そろそろ戻る時間だと宣言した。彼はまるで旅行会社のツアー・コンダクターのように退屈そうな表情をしていた。私たちは物見遊山で田舎の町から出かけてきた観光客のようだった。
 装甲車は国連防護軍本部が置かれたビルにほど近いプレスセンターに寄って、通信社のスタッフを数人降ろした後、ホリデーインに戻った。ほとんどの仕事は自分の部屋でできたし、夜間外出禁止令が出ていたため、あまり遅い時間になると戻れなくなる恐れがあったので、大半の記者はホテルに戻ることを望んだのだ。
 私たちをホテルに送り届けて装甲車に乗り込む時、フランス兵は空を見つめながらフランス語でぼそっと言った。
 雪が積もりそうだな、彼はそう言っていた。



***********************************************************************************************
著者: 高木 徹
タイトル: ドキュメント 戦争広告代理店

著者: ライモンド・レヒニツァー, 林 瑞枝
タイトル: サラエボ日記―〈戦場〉からの脱出

タイトル: ウェルカム・トゥ・サラエボ

■最後のさよなら■ 第1回


***********************************************************************************************

<プロローグ>



(c) FreeFoto.com
「マンハッタン炎上計画」さんの画像をお借りしました
マンハッタン炎上計画

 建国の父の名を誇らしげに冠した広場に、英国製のその車はゆっくりと停まった。粉雪が舞い落ちる空模様を確かめるように、ジャグァーの窓ガラスが半分ほど降りてきて、車の中から出てきた手が差し出され、ひらひらと振られた。
 今行くから待っていろ、そんな風な仕草だった。
 マンハッタンの夕暮れに紛れて、その名前の由来となった大猫が獲物を狙うように、ジャグァーは身を屈めたように見えた。
 窓ガラスがするすると上がっていくのを見届けると、私はベンチから立ち上がり、ズボンに付いた雪を払ってフライトジャケットのポケットに手を突っ込んだ。
 ひどく寒かった。朝方まで降り続いていた雪が凍り付き、冷凍庫にこびりついたしつこい霜のように歩く度にガシガシと音を立てた。
 ジャグァーのエンジンが停まり、再び動き出したと思ったその瞬間、世界が凍り付いた。時間が周囲の壁に貼り付き、ワシントン広場一帯が重力の井戸に吸い込まれたようにぐうんと沈み込んだ。
 大猫が獲物を見つけて背中を伸ばすような動作をして、ジャグァーは飛び上がった。重力から解放されたことを喜んで地上から数十センチほどの宙を舞い、やがて飛ぶのを諦めたように地球の引力に引き戻されて地面に落ちた。

 そしてジャグァーは爆発した。

 爆発音に続いて衝撃波が襲ってきて、私は雪の中に頭を突っ込んだ。
 どこかでガラスが割れ、一瞬遅れて悲鳴が上がった。
 かつて同じようなことを経験したような気がした。既視感。起こらなかったことを現実に体験したことがあるように思える感覚。デジャヴュ。

 爆発音・・・衝撃波・・・悲鳴・・・。

 私は雪の中から起き上がり、ジンジンと耳鳴りがする頭を二、三度叩き、炎と真っ黒い煙を上げて燃えているジャグァーによろよろと近寄った。
 私は声にならない叫び声をあげた。

 爆発音・・・銃撃戦・・・狙撃音・・・ガラスが砕け散る音・・・砲弾の落下・・・崩れ落ちる建物・・・悲鳴。

 既視感などではなかった。
 あの街も同じように雪が降っていた。同じように雪が舞い、同じように爆発が起き、同じように人が死んでいった。
 あの街は戦場だったのだ。今さら思い出したように私は絡まった記憶の糸を解きほぐそうとした。
 私の叫び声は、再び起こった爆発音に呑み込まれた。
 すべてはあの街から始まった。

 あの時、サラエボは戦場だった。



***********************************************************************************************

著者: マイケル・S. ダラム, Michael S. Durham, 藤井 留美, 長坂 邦宏, 関 利枝子, 大谷 珠代
タイトル: ナショナルジオグラフィック海外旅行ガイド ニューヨーク編

著者: NoData
タイトル: ニューヨーク (’05)