■最後のさよなら■ 第3回 | KOZミステリーの部屋

■最後のさよなら■ 第3回


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<02>


 翌日、雪は降り止んで、空は真っ青に晴れ渡った。フランス兵の言った通り雪は夜のうちに二十センチほど積もり、街は白い布に覆われたようになっていた。


 その日、私は通訳を頼んでいたオスロボジェニェ紙のサニャ・ストヤノビッチ記者と市内を回る予定になっていた。オスロボジェニェ紙はサラエボの日刊紙で、このような状況にもかかわらず毎日発行を続けていた。内戦が始まる前に比べて部数こそ大きく減ったものの、この戦時下に政府のお抱えで記事を垂れ流すのではなく独自に取材をして紙面を作り続けている新聞が存在しているのは奇跡に近いことだった。
 ホテルまで迎えに来てくれたストヤノビッチ記者に会って、サニャというのが女性の名前であることを知った。通訳を依頼した時には名前しか聞かされていなかったので分からなかったのだ。彼女は二十代半ばで、サファイヤのように澄んだ蒼い眼をしていた。亜麻色の髪を短く刈って毛糸の帽子の下に隠し、思春期の男の子のように鼻の頭にそばかすを浮かばせていた。化粧っけはなかったが、様々な人種が混じり合うバルカン半島の多くの女性がそうであるように、きりっと整った美しい顔立ちの女性だった。
「サラエボの街へようこそ」私の手を握りながら、彼女はドイツ語訛りが混じった英語で言った。
 その日、彼女は久しぶりの休日にもかかわらず、私の取材に付き合ってくれたのだ。
「人と話をするのが好きなの。だから新聞記者になったのよ。戦争の取材がしたかったわけじゃないわ。でも、記者になる前はピアノを教えていたのよ」
「ぜひ聴かせてもらいたいね」

 そういうと彼女は笑って言った。 「残念だったわね。この前の砲撃で家のピアノは壊れちゃったわ。最近はカメラの勉強もしているのよ。人出不足で写真も撮影しなくてはいけないから。写真ならそのうち見せてあげられるわ」
 サニャは観光ガイドよろしく、サラエボ市街を案内してくれ、空港近くの前線近くにまで連れていってくれた。
 私が昨日は装甲車に乗って観光ツアーに出かけたことを話すと、彼女は不満そうな表情を浮かべた。「ガイドの運転手はフランス人だったんでしょ。だったら、地元の人間の方がいいところも悪いところも案内できるわ。ここは私たちの街なんだから」
 時折、パーンという風船が破裂するような狙撃音が聞こえてきた。今のところ砲弾が雨のように降ってこないことが救いだった。いくら大きな傘を持っていても、この雨ばかりは濡れずに済ませることは難しかった。第一、私は傘を持っていなかった。私だけでなくこの街で傘を差してのんびり歩いている人間は皆無だった。ここはロンドンほどには安全ではないのだ。
 石造りの建物に両側から挟まれた狭いけれども狙撃者に狙われることがない安全な通りを縫うように歩きながら、サニャが言った。「この戦争は誰が悪いわけじゃないの。もちろん街を取り囲んでいるセルビア人のせいでもないわ。彼らは世界中から悪者扱いされているけれどもね。私たちクロアチア人やムスリムの人たちにだって内戦の責任はあるわ。でもね、憎しみを助長させているのは私も含めてマスメディアなのよ。お互いのメディアが相手の悪行を暴きたてればたてるほど憎しみが増していくの」
「政治がメディアを戦争の宣伝に使うのはヒトラーの時代からの常識だよ。何もこの戦争が初めてというわけじゃない」
「そうね。でも私たちはきちんと事実を報道しているのかしら、お互いの憎しみをかき立ててるだけなんじゃないかしら。時々それが心配になるのよ」
悲しそうな表情で彼女は言った。
「そう思っているのは君だけじゃない」
 私は慰めるように彼女の肩を叩いた。
 ジャーナリストに迷いがあるというのは決して間違いではない。報道が誤った方向に人々を導いて大きな悲劇を招いたことは数え切れないほどだ。古来、自分たちが正義であると疑わずに、為政者たちは数々の残虐な行為を行ってきた。新聞やテレビのようなメディアが、それを正当化することに加担してきた。報道は決して絶対ではない。しかし、記事を読んだ人々はそれを正しいものとして受け入れがちだ。ほとんどの場合、その記事を書いた人間は、それが間違っているなどとは思っていないことの方が悲劇なのかも知れなかった。本当に正しい報道をしているかどうかを自問しながら記事を書いていくことで独善に陥る危険性は多少なりとも減る。サニャは優れたジャーナリストになる素質を持っていたのだ。
「実はね」サニャは言いにくそうに口ごもった。「私にも半分セルビア人の血が混じっているのよ」
 バルカン半島は様々な民族が混じり合って生活している人種の坩堝だ。本来、宗教や言葉が多少違っていても、味付けを少々間違えた料理程度の差でしかないはずだった。しかし、そうはならなかった。お互いに料理の味付けに文句を言い出し、殺し合いを始めたのだ。
「君が戦争を始めたわけじゃない。気にすることはないさ」と、私は言った。
 彼女が言う通り、この内戦ではセルビア人ばかりが悪者扱いされてきた。確かに彼らはサラエボを包囲しているし、村を焼き払って、女を襲い、大勢の命を奪った。けれども同じような罪は日本やドイツが第二次大戦で犯し、アメリカがヴェトナムで犯してきた。この戦争でもクロアチア人やムスリム人がセルビア人と同じ過ちを繰り返している。セルビア人ばかりを非難するのは正当ではなかった。しかも彼らは侵略者ですらなく、数百年の昔からこの地に住んでいる住人なのだ。
「でも自分の血を気にする人はいるわ」
「ぼくにだって四分の一は大阪人の血が流れているけれど、ジョークは下手くそだ」

 サニャは怪訝そうな顔で私を見つめた。彼女を励ますつもりだったが例えが悪すぎた。面白くない冗談は、下手な慰めと同じくらい始末に負えない。死んだ妻の玲子にも、あなたの冗談は皮肉にしか聞こえないと、よく嫌みを言われたものだ。
「よく分からないけれど励ましてくれているのね。ありがとう」
 サニャは雲間から覗いた太陽のような笑顔を見せた。
 私は彼女の肩に手を置いた。「君が何人であろうと理解してくれている人はたくさんいるよ」
「そうだといいのだけれど」


 彼女がそう言った時だった。ヒュルルルという空を切る音が聞こえてきた。サラエボに来て数日しか経っていないのに何度も聞かされた嫌な音だった。その次に何が起きるか分かっていたから、私とサニャは顔を見合わせて頷き、道の端の雪だまりに伏せて両手で耳を覆った。建物の陰になっていたので衝撃波こそやってこなかったものの、耳許でドラを叩いたような大きな音が私たちを襲った。石造りの建物がビリビリと揺れ、屋上から瓦礫がパラパラと落ちてきた。
 私は立ち上がって彼女が起きるのを手伝い、耳鳴りがする頭を振った。「大丈夫か」
「ええ、大丈夫。慣れているわ」
そう言いながらも彼女の唇は震えていた。
 砲弾は近くに着弾したようだった。しばらくすると、狙撃される可能性があるというのに、大勢の市民が何かを叫びながら建物から飛び出してきた。
 サニャの顔がさっと青ざめた。「大変、人がいるところに砲弾が落ちたって・・・」
 私とサニャは市民たちに混じって、音がした方に走った。
 瓦礫と見違えるような崩れかけた建物の陰に大勢の人たちが集まって、叫んでいた。防護軍のトラックが二台、近くに停まっていて、何人かの兵士が騒ぎの中心で大声をあげていた。
 援助物資を受け取るために並んでいた市民の列に迫撃砲の砲弾が落ちたのだ。
「なんてこった・・・」
 かなりの死傷者が出ているはずだ。
 手伝いに駆けつけようにも、人々の輪が大きくなっており、何が行われているのかさえ見ることもできない状態だ。
 その輪のすぐ外側で、見覚えのある顔を見つけた。ジョニー・リーは青ざめた表情でニコンを構え、負傷者を助け出そうとする人々の姿を憑かれたように撮り続けていた。
「あの人・・・」サニャがジョニーの姿を見つけて、呟いた。
「知っているのかい」
「ええ。一週間くらい前に、同じように街を案内してあげたの。写真の撮影の仕方を教えてもらったわ」
「ぼくとは同宿なんだ」
「そうでしょうね。ホリデーイン以外にホテルなんて無いんだから」

 一心不乱に撮影をし続けるジョニーの後ろから、ほっそりとしたジョニーよりも一回り以上は上背がありそうな体格のいい中年の男が、何も気が付いていない彼を睨みながら近づいていった。
 男はカメラを構えているジョニーの肩を左手で鷲掴みにすると、自分の方に振り向かせた。そして、一言二言話しかけ、おもむろにジョニーを殴り倒した。手に持ったニコンを放り出し、ジョニーは雪の中に顔を突っ込んだ。男はブーツで倒れたジョニーの腹部を蹴り上げた。
 なおも、蹴り続けようとする男の背中に、私は飛びかかって羽交い締めにした。
「もう止めておけ」私は英語でそう怒鳴り、肩越しにサニャを振り返った。「こいつをなんとかくれ。振り落とされそうだ」
 狂ったように腕を振り回して私を捕まえようとする男をなだめるようにサニャは話しかけた。サニャがセルビア・クロアチア語で何かを語りかけるうちに、男の興奮は収まってきたようで、身体の硬直が徐々に融けていった。
 私は男の背中から降り立ち、ふうと息を吐いた。早口でサニャと話している男を後目に、私は雪の中でうずくまっているジョニーの肩に手をかけた。
 こちらを振り向くと、口の端が切れて血が流れていた。倒れていたところの雪が鮮血に染まっていた。
「大丈夫か」
 声をかけると、私に気が付いて、ばつが悪そうな表情を見せた。
「うん、なんとかね。すまなかった」
 起き上がるのを助けながら、雪の中に投げ出されたニコンを拾い出し、ボディから雪を払ってレンズに傷がないのを確認してから、手渡した。
「ありがとう」
「何でもないさ」
と、私は言った。
 ジョニーはサニャが近づいてきたことに気が付き、驚いたような表情で私と彼女を交互に見比べた。
「彼はあなたが興味半分で写真を撮っていると怒っているわ」と、サニャが言った。
「興味半分だって・・・これは報道だろ。写真を世界中の人に見てもらうことで真実を知ってもらいたいだけだ」ジョニーは手の甲で口の端に付いた血を拭い、母親に叱られた子供のように口ごもりながら言った。
「でも、彼はそう思っていないわ。カメラマンだって写真を撮る前にすることがあるはずよ」
「ぼくに何ができるって言うんだ」
「あたしの意見じゃないわ」
「じゃあ、あいつの意見か」
「いいえ、この街よ」
毅然とした態度でサニャは言った。
「さあ、ここでやるべきことはもうないはずだ。行こう」私は二人に声をかけた。
「どこへ・・・」二人が同時に私の顔を見た。
 私は顎をしゃくって、人だかりが移動している先を示した。
 市民と防護軍の兵士は協力しあいながら、砲弾が落ちたすぐ近くにある建物に負傷者を運び込んでいた。私は二人と連れ立って、建物の中に入っていった。その建物の一階はダンスホールのようで、片隅に壊れたグランドピアノが置かれていたが、音楽はもうずいぶん前から演奏されていない様子で、すっかり埃まみれになっていた。ホールの中は空気が湿っていて、ひどくカビ臭かった。
 ジョニーはカメラを抱えて呆然としていた。辺りには悲鳴と泣き声、怒号が満ち溢れていた。
「行きましょう・・・」その光景をじっと見つめていたサニャが悲しそうに呟いた。「ここにいても、あたしたちにできることは何もないわ」
 私は頷き、ジョニーの肩を叩いた。
 ジョニーは無表情に私の顔を見つめたが、頭を振った。
「この戦争を早く終わらせなくちゃいけない」
 そう言って、カメラを構えようとしたが、再び胸の前で温めるようにレンズを握りしめた。
 私とサニャは一言も会話を交わさず、ジョニーを残したまま建物を離れた。

 サラエボの中心街に戻り、街を案内してくれたお礼にと食事に誘ったが、彼女は固辞した。
「ありがとう。でもせっかくだけれど今日はそんな気分になれないわ。ごめんなさい」
 それは私とて同じ気持ちだった。
 やがて、サニャはさよならといい、手袋を脱いで私の手を握った。「さよなら、ケイスケ」彼女は私の名前を呼んだ
「さよなら。いつまでも元気で。美しい祖国が戻って来ることを祈っている」
「ありがとう。またいつか会いましょうね」

 私は頷いた。「戦争が終わったらきっと」
「約束よ。その時はあたしのピアノを聴かせてあげるわ」

 サニャは表情を和ませ、口元に微笑みを浮かべた。
「約束だ」私も笑って言った。
 サニャはジャンパーの襟元を重ね合わせて手袋をはめると、戦場の街をゆっくりと歩き始めた。私は雪の中に消えていく彼女の背中をいつまでも見送った。



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タイトル: パヴァロッティ&フレンズ~フォー・ザ・チルドレン・オブ・ボスニア

著者: 伊藤 芳明
タイトル: ボスニアで起きたこと―「民族浄化」の現場から